狭間 皇子と自己紹介する必要がなくなった、より正確に言えばその権利を失った後も、メレフは少年と少女の中間に立って息をしていた。刺繍のための針ではなくドライバーとしての剣を持ち、歌と楽器を覚えるだけの記憶力を巨神獣兵器と戦術の定石の理解に用い、愛の詩ではなく帝国の歴史を諳んじる、そんな日々が生まれて十二回目の秋にも続いていた。姫としての所作もネフェル誕生後に改めて再教育されたものの、男児としての振る舞いをすっかり覚えた体にはカグツチのような柔らかな動作はなんとも収まりが悪く、義務感で基本の動作をその気になれば再現できる知識程度に習得した後は、真面目な彼女には珍しくその手の練習を避け気味だった。それよりも今読み解いている、スペルビアの誇る機械技術発展の基礎となる蒸気機関の原理を学ぶ方がメレフにはよほど面白かった。いつか皇帝陛下に剣を捨て姫としてドレスを纏って生きろと命じられればそうするしかないとは思ってはいるが、幸いなことに、現状のところ何も言われず皇子として育っていた頃の日々がまだ続いている。 現在スペルビアに普及しているのと同じタイプの蒸気機関の図を睨みつけながら、唇に走った小さな痛みと、口の中に広がる微かな鉄の味にメレフは眉をしかめた。荒れた皮を無意識に剥いていて、加減を間違ったようだ。深くはなく、十分後には早くも薄いかさぶたになる。しかしそれも唇に違和感を絶えず覚えて鬱陶しい。何度か舐めて誤魔化してみたがだんだん面倒くさくなり、もう一度上手いこと剥がせばいいかと資料の頁を捲りながら唇を弄っているところを様子を見に来たカグツチに発見されて怒られた。「なりませんよ、メレフ様。触っては……ほら、もう、傷になって」「大丈夫だ。もう治った」「それを今また剥がそうとされていたでしょう?」 椅子に座る自分と同じ目線に腰をかがめたカグツチから、メレフはふいと顔を背ける。だって邪魔だったんだから仕方がないじゃないか、と言い訳すれば余計叱られそうな気がしたので胸に留めた。その間に下唇をこっそりひと舐めしたのを目ざとく気付かれて追加で注意されたので、判断としてはたぶん正しい。「舐めるのも駄目です。さらに乾燥してしまいますから」「じゃあどうしろと言うんだ……」 触るのも駄目、舐めるのも駄目。何もせずに我慢するしかないというのか。スペルビアはこれから乾燥の激しい季節に入るというのに。「リップクリームをお使いください」 ささやかな抵抗が至極当然の解決策で完封される。が、なおもメレフは言い募る。「いやだ。べたべたして、嫌いなんだ」 粘膜にほど近い薄い皮膚の上に異物が乗る感覚は何度か挑戦してもちっとも慣れず、夜が長くなる時分には侍従の誰かがリップクリームを用意してくれるのがここ数年のお決まりではあるのだが、メレフはそれを心で詫びながら殆ど使用していなかった。あの違和感に耐えるよりは舐めて湿らせる方がよほど良いように思えて仕方がない。昨年貰ったものも、どこに仕舞い込んだかをすっかり忘れてしまっている。もっともカグツチに言わせれば、そういうものにも使用期限があるらしく、一年前のものを使い回すのはお勧めできないとのことだったので、あろうがなかろうが同じことではあるのだが。 しかし普段なら多少のわがままくらいいくらでも聞いてくれるカグツチは、再度「駄目ですよ」と柔らかく言葉を重ねると、少々お待ちくださいと言いおいて自室に戻り、てのひらに握れるサイズの扁平な円柱の硝子瓶を持って帰ってきた。「私のもので申し訳ありません。またメレフ様のものも取り寄せますので」「嫌いだと言っているんだが……」「駄目ですよ、ご自身のお体なんですから、大事になさってください」 繰り返される抗議を無視してカグツチはリップバームの蓋を開け、白いクリームを薬指に取った。ややテクスチャの硬いそれを左手の甲で一度温め伸ばしてから、メレフの唇に指先を押し当て、丁寧な所作でそれを染み込ませるように塗っていく。 強硬策を取られたメレフは瞠目した。優しいタッチに、どきりとする。にわかに呼吸を意識した。至近距離の視線から顔を背けようとして、「動かないでくださいね」と青い左手を右頬に当てて柔らかく封じられる。指の腹の感触は滑らかでふわりとしていた。彼女の指はクリームを横に伸ばすのではなく、縦に何度も往復した。照れ隠しにメレフが出来ることと言えば大人しく目を閉じて待つくらいだった。やがてカグツチは仕上げとしてコットンで余剰な油分を取り払い、身を離した。唇に残る違和感は記憶よりは薄かったがしかし違和感として鎮座していた。けれどそれより体温が離れてしまった残念さの方がメレフの胸には強く生じていた。こそばゆい感情を誤魔化そうと無意識に手が唇に触れようとし、カグツチの微笑で制される。「なりませんよ、触っては」 二度目の注意。語調は穏やかで、怒っているわけではないとすぐに分かる。 メレフは不服を顕にカグツチを見上げた。「ううん、だが……」「すぐに慣れますよ」「でも、なんというか」 物理的な異物感だけではない。全身に内側から走る痺れのような所在のなさがメレフをそわそわさせる。 広げたノートの傍らに置かれたリップバームの小瓶をちらりと見やり、メレフはなおも首を捻った。華奢な硝子瓶。銀色の蓋に、ダイヤモンドカットされた装飾用の玻璃が慎ましく座っている。カグツチの私物として、よく似合っていた。無意識に、眉根に力が入る。 爪先をわざと遊ばせて、メレフは口を尖らせた。「まるで女の子みたいじゃないか」 沈黙。「……女の子でしょう?」 目を軽く見開いて、ぴったり瞬き五回。あるいは息を吸って吐いて三つ分。「そういえば、そうだった」 あまりといえばあまりなやり取りだが、カグツチはこれっぽっちも笑わなかった。むしろその逆で、閉じた瞼に微かな険が乗った。メレフはそれが自分に向けられたものではないことくらい重々承知していたが、それでも居心地が悪くなって、開いたままだった蒸気機関の資料の頁を手持ち無沙汰にぱらぱらと捲った。まだ原理の分からない図が本の中に現れた時、「メレフ様」と静かな声が彼女を呼んだ。「いや、だって」 まだ何も言われていないのに言い訳が先走る。「二年前までわたしは皇子で、それはもう別にいいのだけれど、ただその時は、こういうきれいで可愛いものに興味を持ってはいけなくて、だってその時わたしは男の子だったから」 言葉を重ねるごとにカグツチの纏う空気が硬質になっていき、メレフはなおさらしどろもどろになる。 まだ、カグツチと同調する前の話だ。思い出せる限りの記憶の、最も古いもののひとつ。男児として、皇子として、興味を示していいものといけないものを、メレフは明確に教育された。スペルビア男児たるもの、と、厳格な顔つきと声でメレフの価値観を時期皇帝として相応しいものに矯正する任にあった男のことを、おぼろげながらもまだ覚えている。ネフェルの誕生とともに暇を願い出た彼は、とりわけ強調して言った。美しい人形や、繊細かつ絢爛な装飾品(アクセサリー)、きらきらと可愛らしい化粧品、そういったものは特に、貴方には必要ない、相応しくないものです、と。 自我形成前に与えられた価値観をメレフは素直に吸収し、それは今も彼女の内に深く根を張っている。昨年まで侍従が与えてくれたリップクリームは簡素なスティックタイプのものだったので、単なる日用品として認識できていたのだが、カグツチが塗ってくれたそれはいかにも彼女に似合う、シンプルながらもきらびやかな容器に入っていて、化粧品としての側面をメレフに強く意識させた。「それに、第一、こういうものは、わたしには似合わないし……」 柔らかで女性らしいカグツチに似合うもの。 それは殆ど等価で、メレフには似合わない、相応しくないものだった。少なくとも、メレフの認識において。 精神的な異物感が、物理的に感じるそれよりも更に強くメレフに降り積もる。 小さな寂寥感が、ひやりと心臓に棘を刺したような気がした。 カグツチが言葉を探すようにしなやかな指先を口元に添えた。メレフは妙な焦燥感に襲われ、彼女の言葉を待たずになおも言を紡ぐ。「おまえみたいに喋ることも、振る舞うことも、できないし……。いや、別に、頑張れば、普通の姫みたいに暮らせるとは、思うけれど。陛下のご勅命があったなら、ちゃんとそうする」「誰かが……私のように振る舞えと、申し上げたのですか?」 静かな問いかけに、ぴくり、とメレフの肩が震える。女中長を始めとした何人かの顔が脳裏に浮かんだが、メレフは頷きもせず首を振りもせず無言を貫いた。名前を教えてはカグツチの怒りが彼女たちに向かってしまうが、カグツチに嘘を言うことも出来なかった。自分にことさら女性らしくと願う彼女たちが、彼女たちなりの善意と仕事でそれを告げていることをメレフは分かっていたし、メレフの外にある都合をメレフに押し付ける人間たちをカグツチが快く思っていないことも知っていた。 メレフに口を割る気はないことを悟ったようで、カグツチは細く息を吐いた。メレフは傍向けていた顔を恐る恐るカグツチに向き直したが、カグツチはメレフが思っていたよりは穏やかに微笑んでいた。温かな手がそっと頭を撫でてくれる。怒っていませんよとメレフに教えてくれるときのお決まりの動作だった。短い髪を何度か撫で付けられた。ずっと前に伸ばしてみたいと思ったくせに、メレフは未だに髪を短く保っている。「メレフ様は、普通の姫君のようになりたいのですか?」 少しだけ考えて、緩く首を横に振った。「いや……。なれるとも思わないし、それに、ドライバーの姫なんか聞いたことがない。……だから、そのせいで、おまえと一緒にいられなくなるかもしれないなら、それは、嫌だな……」 メレフがカグツチと同調する権利を得たのは、皇子として育てられていたからだ。ネフェルが生まれるのがもう何年か早ければ、カグツチは間違いなくメレフではなくネフェルのブレイドとして顕現していただろうし、メレフは他のどのコア・クリスタルと同調することもなく、戦いとは縁遠い場所で死ぬまでただの皇女として暮らしていただろう。 最後の方は、殆ど独り言だった。けれどカグツチはそれを聞いて、安堵したように笑みを深めた。それから、少々意地の悪い顔つきになる。「あら。頑張ればそうなってみせる、と先程宣言されていましたけれど、それは、私がお側にいなくても構わない、ということではないのですか?」「っ、違う」 食い気味に否定する。メレフはカグツチの誤解を恐れて首を振ったが、カグツチは優しい微笑を保っていた。ほっとして、改めて首を振る。「すまない。そこは、嘘だった。無理だ。頑張れない」 言ってから宣言が何か違う気がしたけれど、正直な気持ちだったので訂正する箇所が分かららない。 カグツチは一瞬だけ息を呑んだ後、嬉しそうに破顔した。「はい。よかった」 カグツチの手が一度だけ頬を撫でてくれた。猫の仔のように目を細めたメレフは、「そうだ」とカグツチをまっすぐ見つめる。カグツチは首を傾けて、メレフの言葉を待った。「おまえは、どっちがいい?」「どちら、とは?」「男のわたしと、女のわたしと、おまえにはどっちの方がいいのかな」 自分自身の意志は、正直なところまだ全然定まらない。男児として育てられた通りに過ごす日常は楽だけれど、カグツチのリップバームに、似合わないと思って気のせいのように心に生じたささくれも確かに存在する。かといって、女児として過ごすのも、レディとしての作法の練習に消極的になる程度には今の所収まりが悪い。いっそ義父が皇帝としてこのように生きろと命じてくれれば楽なのに、彼は好きに生きていいと言うだけだ。しかし義父が尊重しようとしてくれる自由意志を、メレフは持ち合わせていなかった。ああでも、もし本当に命じられて、それがカグツチと離れなければならないようなものだったらどうしよう。それは困る。考えたくないくらい困る。だから、義父については今のままでいいのかもしれない。 だったらいっそカグツチに決めてもらえばいいと思った。彼女はメレフの大事なブレイドだから、メレフは彼女の望む通りのドライバーになればいい。皇帝にはなれなかったから、その分だけカグツチの理想の自分になったら、スペルビアの歴史の中できっとただ一度だけ皇帝のブレイドになれなかった今のカグツチに少しくらい報いられるような気がした。 それは良い思い付きのように感じられた。けれどカグツチの零した笑声に、ほんの少し寂寞の音が混じっていて、メレフにはその意味がよく分からなかった。たまにカグツチの声が宿すその色の真意を、メレフは知らない。どうしたいかと問われて、答えられなかった時、カグツチは決まってそんな風に寂しげに微笑むのだった。そこにあるのが落胆では決してないことだけ、知っている。「そうですね、では」 カグツチの願いは、簡素で、単純で、難しかった。「メレフ様が頑張らなくて良いようにだけ、お願いします」 もう一度、頭を撫でられる。今日はよく撫でられるなと思いながら、甘んじてそれを受けた。 メレフが求めた答えではなかった。あるいは突き放しているようでもあった。けれどカグツチの声も表情も優しかった――メレフの好きな優しさが余さず全部そこにはあって、微笑を以てメレフに注がれていた。「答えになっていないぞ」 一応、抗議はしてみる。「私があなたに望むことは、あなたが自然体で、幸せでいてくださることだけですよ、メレフ様。そしてその傍に私を置いてくださるのであれば、それ以上望むことなどありませんから」「でも……。そうしたら、その」 カグツチの言葉は、ただ優しい。前提を必要としない愛情だと、疑う要素は何もなかった。それでも、メレフの中心に鎮座する皇子としての正しさが、かつて教えられた価値観が、それを受け取る手を狂わせようとする。 メレフは一度口を噤んだ。しかしカグツチは何も言わないまま、ほんの少し笑みを深めて、告げていいよと促してくれた。甘えてながら、意を決して言葉を声にする。「これから、剣の稽古があるけれど。そのうえで、それで」 その先を告げるのに、メレフはさらに大いなる勇気を要した。だってそれを言葉にすることは、ずっとメレフに禁じられていることだったから。推奨も禁止もメレフは真面目に守って生きてきた。それを今、初めて破ろうとしている。不思議と焦りはしなかった。カグツチは黙したままメレフの言葉をずっと待っていたけれど、彼女はメレフの心が追いつくまでいつまででも待ってくれると何の根拠もなくメレフは信じていた。メレフがそれを学習するに至る程度には、同調してからの数年、カグツチはただ無条件にメレフを受け入れ続け、また全肯定してくれていた。 何を言っても、どれだけ待たせても、カグツチはメレフの思いを聞いてくれるし、受け止めてくれる。 そう信じていたから、メレフは自分で思っていたよりは抵抗なく、声を発することが出来た。「――お前の、それ」 丁寧に塗ってくれたリップバームを指さして。「わたしも、同じものが、欲しいな」 可愛いと思った。綺麗だと思った。唇につけるのはやはり少しべたついて苦手な感触だったけれど、カグツチが付けてくれたそれを自分も所持していたいと、欲求は素直に心に湧き出たものだった。皇子として生きてきた年月は、そんなものは生じてはならない感情だと渋い顔をしているけれど。 それでも、もし、カグツチが言ってくれたように、頑張らなくていいのなら。楽に呼吸をしていいのなら。機械技術や軍略を学んでいたいし、剣の研鑽も積みたいけれど、同時にきらきらした化粧品のことも知りたかった。 にわかに何かとんでもない過ちを犯してしまった気がして、メレフは俯いた。カグツチが答えてくれるのをただ待った。吸って吐くだけの息が自分の耳にいやに大きく届いた。ズボンの上に置いた両手を、布ごとぎゅっと握りしめる。 その手を自らの両手で包み込み、カグツチは言った。 メレフの勇敢を上手に無視して、まるでなんてことのないように。「はい。では、そのように。でも、きちんと付けてくださいよ。もう皮を剥いてはいけませんからね」「うん、分かった」 笑う。聞けば定期的にアヴァリティア商会から外商に赴くノポン人に言付けて取り寄せているらしい。カグツチが買い物好きなのは知っていたし、皇宮に商人がたびたび赴いていることも認識していたが、楽しいことを独り占めされていたような気がしてメレフは口を尖らせる。外商の御用聞きでも城下にお忍びでも、次は一緒にお買い物に参りましょうねと約束してもらって溜飲を下げた。「そうだ、それから。メレフ様」 広げた本とノートを整理し、机の上を片付けて次の訓練の時間に備えるメレフの手にリップバームを握らせる。手の中の硝子瓶とカグツチを交互に見て戸惑うメレフに、カグツチはそっと笑いかけた。「似合わない、と仰いましたけれど。そんなことはちっともありませんよ。メレフ様にもお似合いです。だってメレフ様は、とてもお可愛らしくてお綺麗でいらっしゃるのですから」 息を詰める。瞬きを繰り返す。突然の真っ直ぐな言葉が、ひどく面映ゆくて、そして何よりも温かかった。優しい焚き火に手をかざしたような安堵感がメレフの内側を満たして波打った。どう返せばいいのか戸惑って、結局俯き気味に小さく「ありがとう」と呟く。くすりとカグツチが喉を鳴らした。メレフを縛り付けていた雁字搦めの"正しい価値観"など、カグツチにとってはほんとうになんてことのないものだったのだと、その時ふいに気が付いた。 吸い込んだ息がこれまでよりずっと軽くなる。 ありがとう、と、メレフは繰り返した。一回目よりもはっきりと、感謝は芯を持って声になってくれた。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 砂塵混じりの乾いた突風。スペルビアにおいてはありふれた風、しかしグーラやリベラリタスの湿潤な空気に慣れた人間の体には少々過酷な気流のようだ。アナンヤム港からアルバ・マーゲンの街までの道すがら、特にニアは何度も目をしばたたかせていた。メレフは平気なの? と聞かれ、慣れているからなと答えれば、流石、と何を褒められたのか把握できない褒め言葉を貰った。「うー。スペルビア乾燥酷すぎだよ……。唇すごく乾ちゃったし」 貨物運搬区画まで到着し、昇降機の順番を待ちながら、ニアが顔をしかめて唇を掻く。視界の隅にそれを見つけ、メレフは少々慌てて制した。身体状態の保持能力に優れるブレイド女性はまだともかくとして、ニアはメレフと同じく人間だ。「ああ、ニア、駄目だ、弄っては。余計に酷くなってしまう」「でも、かさかさして鬱陶しいよ」「リップクリームを使えばいい」 ええー、と不満そうに、可愛らしい耳がぺたんと折り畳まれた。「あれ嫌いなんだよ、べたべたしてさ。舐めてればよくない?」「舐めても悪化するだけだ。持っていないなら私のものを貸してやるから」 説得するメレフと嫌がるニアの傍らで、攻防戦を暇つぶしがてらに眺めていたヒカリとサイカが何やらひそひそと頷き合う。やがて何かの合意を得た二人だったが、意図せず見世物にされた片割れのニアは自分が笑われたと思ったのか、半眼で「なんだよ」と頬を膨らませた。 弁明をしたのはヒカリである。「いや、ふっと思ったんだけど、メレフって女の子にモテるでしょ」 俎上に上がったのはメレフの方だったらしい。同意と顔に書いてメレフを見るサイカの隣で、話が理解できないハナが体を揺する。「モテるって、たくさんの異性に好かれることですも? 女の人が女の人にモテるですも? ご主人みたいに、メレフが女の人だって分からない女の人がいっぱいいるですも?」「ちゃうちゃう、メレフが男っぽいとかそういうのとは別やで。カッコええ女の人が好きな女の人が仰山おるって話」「? なんでですも?」 サイカの追加説明もまだハナの理解に及ばない。んー、と眼鏡のフレームに指を添えて言葉を探すサイカをヒカリが引き継ぐ。口調が妙な検証モードだ。「ただ男っぽいだけだとそこまで人気出ないと思うんだけどね。なんだろ、バランスいいのよね。今みたいに、ニアの様子にすぐ気付いたりとか。メイクの話とか普通にできるし」「肌綺麗やしなあ。色々気ぃ遣うとるやろ? そういうとこやねん」「あー、なんか分かった」 得心したニアが腕組む一方で、当事者のメレフは彼女たちの台詞の意味を掴みあぐねて眉を寄せる。分かっていない者同士ハナと首を傾げた。男性扱いされてからかわれているわけではなく、むしろ称賛されているらしいので怒るに怒れないがどうも釈然としない。 メレフの後ろで黙して静観を決め込んでいたカグツチがくつりと喉を鳴らした。「カグツチ?」「失礼。先程のニアとの遣り取りが、なんだか懐かしく感じてしまって」 涼しい顔。絶対にそれだけではないと長い付き合いから理由なく確信するものの、下手に突付くと藪蛇になりかねないことも経験則で知っている。メレフは大人しく誤魔化されることにした。「そういえば、お前と似たような会話をしたことがあったな。十年くらい前になるか」「そうですね。ちょうどそれくらいかと」 記憶を掘り返して、思う。あの時、カグツチはメレフに対して男性らしく在れとも女性らしく在れとも願わなかった。カグツチにその判断を委ねたことは幼い自分の横着だったと今となっては自覚している。けれど彼女は、メレフがメレフとして存在することだけを望んでくれた。そのおかげでメレフは、今ヒカリとサイカが褒めてくれたような自分としてここで胸を張っている。カグツチがあの場でこう在れと具体的に告げたなら、メレフは自分をその通りに根本から曲げて、歪んだ前提のまま伸びてしまったに違いなかった。こう在れと指定される通りに育つ、それがメレフという個性なのだと、今にして考えればカグツチはあの頃から既に知っていたのかもしれない。 そういう意味で、メレフのブレイドであるカグツチはしかしただ単なるブレイドでは有り得ず、メレフという個人における一種の支柱であり土壌であると喩えて過言ではなかった。「? メレフ様、何か?」「いや」 今更そんなことをこんな場で告げることなど出来はしない。見つめる視線を尋ねられ、メレフは微笑を返す。軍帽の角度を正した時、隣りにいるヒカリがハナに向かってやたら自信満々に人差し指を立てた。「ま、ちょうど今からアルバ・マーゲン行くんだし、スペルビア女子の様子ちょっと観察してみなさいよ。たぶん結構面白いから」 何がだ、と突っ込むことはやめておく。メレフは子どもたちの話に対しては傍観が基本姿勢であったし、どんな理由であれ帝国民の支持を頂けていることは特別執権官として有り難いことである。 ひとまず、帝都に昇ったらニアを連れてリップクリームを買いに行こう。再び唇を触りだしたニアを止めながら、メレフは予定を付け加えた。 2018/05/28 [8回]PR