傍観者の事情 スペルビア帝国、宿屋ジャルカマロのロビーでは、脚を組んでソファに腰を下ろしたメレフが本に視線を落としていた。羊皮ヴェラムの表紙には皇帝エフィム戦記・上巻と書かれている。スペルビアに古くから伝わるらしい古典小説の類だが、ページを繰る手は全く捗っていないようだ。先程からじっと、ただ紙を眺めることそのものが目的だと言うように、開いたままのページで手が止まっている。時折思い出したかのように一ページ繰って、また止まる。 その姿を、ジークは客室へ至る階段の半ばで、手摺に肘を付いて眺めていた。気配は出来る限り消してある。時折他の宿泊客がジークの後ろを通りがかっては不審そうな視線を寄越してきたが、そんなものを一々気にするようなジークではない。それよりも、離れた位置からでも分かる、メレフの疲れた顔の方が気にかかっていた。 見付けたのは偶然だ。暇を持て余して夜の帝都でも歩くかと思い立ち、適当に一杯引っかけるのも悪くないかもしれないと暢気に考えながら階段を下りている最中、何の気なしに目を向けた一階のソファにメレフがいた。本を開いていたその姿に、読書なら部屋ですればいいものをと思い、けれど目を閉じたメレフの横顔に足が止まる。 溜息を吐いているわけではない。肩を落としているわけでもない。しかし彼女の横顔、その無表情を認めた瞬間、気落ちしているのだと不思議と分かった。読書を装って思考に沈んでいるのだ。つまらなそうな顔をして、誰にも気取られないように背を伸ばして。 無視をして通り過ぎる気にもなれず、何しとるんやと声を掛けに行くには続ける言葉を持たず、見なかったことにするには仲間としての時間を過ごしすぎている。ジーク自身どうしようか定まらないまま、この一階と二階を繋ぐ階段の、踊り場を過ぎて登り切るまであと五段、という中途半端な位置でメレフを盗み見ている。彼女が気付く様子はない。サイカが隣にいないことを残念に思った。サイカと会話しながら近づけば自然に声を掛けて、言葉も適当に続いただろうに。 さてどないしょうかな、と髪を掻く。 メレフをそうさせているのは、やはり、今日のこと、なのだろう。 発端は、レックスたちが以前に請け負っていた他愛ない依頼だった。スペルビア属領グーラ・トリゴの街のドライバー勧誘にて見事適性を示しスペルビア兵士としての道を開いたエルノスという名の若者が、故郷に残した弟妹達への仕送りを、その時ちょうどグーラへ行く用事のあったレックスたちに頼んだ。その後紆余曲折を経て、改めてスペルビアに立ち寄ったのが昨日の話。遅くなったが仕送りの報告にとその新米ドライバーを探せば、シャマイム温泉で起きた殺人事件の調査に駆り出されているという。 本来ならば、なら仕方ない、とそれ以上関わることのない事件だったのだが、それを聞いたメレフが顔付きを変えた。帝国軍人としての顔をした彼女が事件の調査に加わるのを、メレフ自身は君たちには関係がないことだから自由にしていたまえと言っていたが、仲間だろ手伝わせてよ、と告げたレックスたちと共に協力した。 被害者が元老院議員と判明し、事件はただの殺人事件から要人暗殺事件へと姿を変えた。情報収集と調査を進め、犯人たるグーラ人のテロリストを確保したのが今日の午後だ。スピード解決を見せたのは、流石特別執権官と言うべきか、メレフの手腕に寄るところが大きい。犯人を捕まえて、それで事件はめでたしめでたしで終わったはずだった。 実行者たるテロリストの一人・ロッホが、新人兵士エルノスの父親でなければ。 故国グーラを焼いたスペルビアを憎むロッソに、そのスペルビアのおかげで満足な給金を得られたエルノスは彼の行動の過ちを説いた。その憎悪が何も生まぬこと、世界を悪化にしか導かぬこと。当初は話を聞くそぶりもなく、彼らの潜伏地たるアマダー格納区地下倉庫へ突入したジークたちを殺そうと刃を向けてきた彼だったが、実の息子の言葉はテロリストから何か憑き物を落としたようだった。「許されるなら、グーラへ戻って、子どもたちと共に人生をやり直したい」 何を虫のええことを、とジークは鼻白んだが、声は上げなかった。レックスとニアとトラ及び彼らのブレイドは困惑気味に顔を見合わせ、エルノスは父親の言葉に驚いたように声を上げた。 そして彼らは一様にメレフを見た。帝国の決定権を有する彼女を。 奇妙な静寂が広がる中、メレフはひとつ息を吐き出して、いかにも軍人らしく泰然とロッホの眼前に歩み寄り、そして、「ロッホと言ったな。貴様を拘束する」 馬手に構えたサーベルの切っ先を、グーラ人の喉元へ突き付けた。「サマン・アラミアット上級議員殺害容疑、及び貴様達ブリューナクが関わったと思しき、帝国と皇帝陛下への悪逆行為の数々。また、特別執権官たるこの私の殺害をも為そうとした大逆。これら全て国家に対する反逆行為である。……許されると思うな」 そのときジークはメレフの後方で剣を構えており、彼女の表情は見えなかった。それはレックスたちも同じだ。ただ、普段であれば耳に心地よく頼もしいばかりの低い声が、廃倉庫の中に冷酷な色をして響き渡った。ジークの視界の隅で、ニアが小さく後ずさった。メレフ怖いも、と空気を読まずに呟いたのはトラ。聞こえているだろうに、メレフは子どもたちに一瞥もくれないまま、剣先を反逆者へ突きつけたまま微動だにしない。彼女の傍に控えるカグツチも同じで、気絶して倒れているテロリストたちを注意深く警戒していた。 冷淡なスペルビア軍人に、望み叶わぬことを悟り、ロッホと彼のブレイドは頭に血が上ったのか再び臨戦態勢を取ろうとした。途端、メレフは突きつける切っ先に蒼炎を宿した。青い熱が廃倉庫に揺らめき、テロリストを後ずさらせる。 顔は見えなかった。けれどその声から、彼女が凄絶に笑ったことだけははっきり分かった。「……君も息子の未来が惜しいなら、大人しくすることだ」 それは旅の仲間には決して見せることのなかった、為政者としてのメレフだ。 帝国に仇為すものを排除し、国と皇帝を守護する、その役割に生きる彼女。「私の力をもってすれば、彼の処遇などいかようにでも出来る。ドライバーとは言え、属領出の新米兵士。まして身内に反体制組織のテロリストがいるなど、どのような仕打ちを受けようと誰も文句は言うまい。放っておいても良くて除籍だ。……君の共謀者として、拷問のひとつでも受けるかも知れぬな?」 脅迫は朗々と響く。メレフの言葉を受けて慄いたのはロッホではなく当のエルノスだ。帝国兵となったからこそ弟妹達を学校にも行かせてやれるし楽な暮らしをさせてやれるようになった、と、事件の調査を共にする間、彼は嬉しそうに語っていた。それがいま自身の責任ではどうしようもない理由で失われようとしていることに怯えたのだ。「だが」 それがロッホにも見えたのだろう、抵抗しようとした腰が引ける、メレフを睨む目に躊躇が生じる、その隙に、メレフは敢えて幾分か柔らかくしたのであろう声で囁いた。「逆に言えば、私が手を回せば彼を保護することも可能だ。彼の望む未来を、これからも帝国兵として、彼を含めた君の子どもたちを養うのに満足な給金を得られる、その暮らしを保証してやろう」 この時ジークはちらりと子どもたちを一瞥し、強張りながら事態の行方を見守る顔を見て、この事件に関わった自分の選択を後悔した。ワイらには関係のないことや、暇なら情報屋から聞いた伝説のドライバーを食ったモンスターの存在の有無でも確かめてみようやと子どもたちを促すべきだったのだ。メレフ一人で奔走させるよりはと思ったが、その方がメレフにとっては余程良かったに違いない。当初は敵対していたとは聞くものの、レックスたちに対して、メレフは良き大人、頼れる保護者として接し、子どもたちもそんなメレフに懐いていた。このような振る舞いなど、見せたくはなかったはずである。「言っておくが、私は君より遥かに強い。君が抵抗するなら、最早容赦はしない。そうなれば彼の未来は閉ざされるな。……息子たちの未来くらい、最後に守りたくないか?」 それが決め手となった。ロッホは無言のまま武器を手放し、諸手を挙げて降参の意を示した。がらんがらんと無慈悲な金属音が大きく反響する。その残響の中メレフはサーベルを引いた。「レックス」「えっ!? え、な、何? メレフ」 納刀はせず構えたまま、数歩引き、ロッホと相対したまま、メレフはレックスへ呼び掛けた。緊迫の面差しで事態を見守っていたレックスはいっそ可哀想なほど驚いて裏返った声を上げた。 メレフは硬い、けれど先程まで反逆者へ向けていた声音より遥かに優しい声で告げる。「すまないが、軍を呼んできてくれないか。今回の件、ある程度話は通してある。私の名を出せば、応援に来てくれるはずだ」 そしてレックスたちの連れてきた首都常備軍によって反逆者たちは捕縛され、今回の一件は無事解決した。一連の当事者として事情聴取を求められ軍施設まで同行し、長丁場を覚悟したものの存外あっさり解放された。証言としてはメレフのものがあるからそれで充分、ジークたちへの事情聴取は形だけのものという側面もあったのだろうが、帝国の事情に本来無関係であるはずの仲間たちに余計な負担がないようにとメレフが気を回した影響もあったのだろうとジークは見ている。当のメレフはまだ報告があるからと軍に残った。「今日はすまなかった。君たちの協力に感謝する。せめてもの礼に、夕食くらいは私が奢ろう」 施設入り口までジーク達を見送りに来たメレフは、普段通りの優しい顔でそう言った。それまでには戻れないだろうからと、メレフは店の名前と簡単な地図を書いたメモをレックスに手渡した。「店には私から話を通しておく。遠慮なく好きなものを頼むといい。……ああ、ドレスコードは要らない店だから、気楽に行ってくれ」 そしてジークに頼んだぞと言い置いて、制服の群れの中へ姿を消した。 その背中を見ながら、レックスたちは普段の底抜けの明るさを欠いていた。ジャルカマロ――殺人事件はあったが、そのおかげで宿代が著しく安くなっていて、あまり細かいことを気にしないタチの一行はそこに宿を取っていた――への道を行く、アルバ・マーゲンの喧騒の只中で、堪えかねたようにぽつりと呟いたのはニアだ。「許してあげることって、できなかったのかな」「さあ……。人が死んでるわけだし」 レックスが硬い顔で返す。「でも、あのおっちゃん反省してたも?」 グーラ出身のニアとトラにとっては同情してしまう部分もあるのかもしれない。真摯に反省してごめんなさいと謝れば、それでやり直せると信じている純粋な子どもたちだ。その純真さにジークは、そしておそらくはメレフも、惹かれて旅に同行しているわけだが、今その透明な心はあまりに眩しすぎて陰を作り出そうとしていた。「でも、まだ許されないって決まったわけじゃないし」 だからジークはレックスの言葉に大人として首を振る。「難しいやろな」 子どもたちは傷ついたような顔をしてジークを見上げた。守ってやらねばと強く思う彼らの純朴な精神に、大人の理屈を説かねばならぬことが心苦しい。だが、彼らの優しい期待は、叶わなかった時にメレフへの落胆へ姿を変えかねない。それは役割と社会正義を果たした彼女にあまりに酷だ。庇ってやれるのは、同じ大人のジークだけであった。「あの場にメレフがおらんかったら、もしかしたら見逃すことも出来たかも分からん。軍に突き出したとしても、自首っちゅー体裁でなんぼか罪が軽くなったかもしれん。せやけど実態は、特別執権官に刃向うての返り討ちや。帝国にとって抒情酌量の余地があらへん」 なんなら公務執行妨害とメレフ殺害未遂の分だけ罪が上乗せされている。「メレフが反逆者を見過ごすなんぞできる筈もないからな。そんでそれは、なんも間違うとらん。正しい判断や」 子どもたちの優しさは、表裏一体の甘さでもある。その類の甘さを、特別執権官として生きる彼女は決定的に捨てている。それはジークが[[rb:国 > ルクスリア]]を出ての十年で、救いたいと願ったはずの世界の泥に塗れて甘さと弱さを捨てざるを得なかったのとおそらくはちょうど同じように。 大人になるとはそういうことだ。 けれど同時にジークは、眼前の子どもたちがそんな大人にならなくていい世界を心底願っている。「……そっか。まあ、そうだよね」 意外なことにニアは反発らしい反発もせずにジークの言葉を素直に飲み込んだ。彼女らとしても、テロリズムが許されぬ罪であると理解はしているのだ。それ以上に目の前にいる個人の命をどうしても優先しようとしてしまうだけで。「ま、考えても、もうワイらには関係のないことや」 レックスとニアの背を同時に叩く。驚いてたたらを踏んだ二人の抗議の目線を受け流して、ジークは軽い声を作った。スペルビア特有の乾いた暑い風が頬を叩いた。「せやね、どうせ考えるなら晩御飯のことのがええわ」ジークに合わせて笑ってくれたのはサイカである。「メレフの薦めてくれた店なら味にも期待できるやろうし」「まあ言うてスペルビア料理やけどな!」 ジークの言い草にレックスが噴き出す。ニアが半眼で「亀ちゃん、それメレフに聞かれたら鉄拳制裁ものだよ」と呆れた息を吐き、ビャッコが無言で首肯する。ホムラは声を殺して苦笑し、トラとハナは暢気に食べ放題だもー、ですもーとはしゃいでいる。ちなみにスペルビアの飯が不味いことはアルスト全域で伝わるエスニック・ジョークだ。事実としてそういう面もあるが、全てではないことくらいジークとて百も承知している。サイカの言う通り、メレフのお墨付きなら美味いだろうとは思っているのだ。 そんな会話をしながら、アルバ・マーゲンの喧騒の中をのんびり歩いた。 そして夜、食事を終えて帰って来たジークたちを、先に戻って来ていたらしいメレフはジャムカマロで出迎えた。「なんだ、帰って来ていたならメレフも来ればよかったのに」「先程戻ったばかりなんだ。夕食はどうだった? 気に入ってくれたかな」 レックスの言葉に首をかたむけるメレフはすっかり普段の――レックスたちにとって、普段の――彼女に戻っていた。子どもたちから美味かったと礼を聞き、満足そうに頷いている。頼んだ料理のあれが旨かったこれが珍しかったと感想を言えば、メレフはその料理名や食材、歴史や逸話を補足してくれた。ぜひ食事中に聞きたかった内容である。「それで、さ。メレフ。聞いちゃ駄目なら別にいいんだけど……あの人、どうなるの?」 楽しい会話がひと段落し、奇妙に漂った遠慮の空気の中で、恐る恐る声を上げたのはニアだった。あの場では話を終わらせたが、やはり気になっていたのだろう。レックスやトラも同様の表情だ。その様を黙して眺めやるジークに、メレフは一度視線を向けた。何を思ってなのかは分からない。気付いたジークが合わせる前に逸らされて、メレフは彼らを部屋に入るよう誘導した。流石に人通りのあるロビーでする話ではない。「まあ、君たちは当事者だからな」 四人部屋に十人を超える大所帯が詰め込まれ、酷く窮屈だった。腕を組んで壁に背凭れたメレフは、少々言葉を探すように瞑目し、おもむろに口を開いた。その間、誰も言葉を発しなかった。「――まず、スペルビアは法治国家だ」 静寂に落ちる声は淡々と淀みない。ただ事実をなぞるだけの声音。「彼の処遇についても、帝国法に基づき、裁判に掛けた上その罪と量刑が決定される。各種の証言と証拠を精査した上で、な。勿論、弁護人も付く」 メレフはいつも、基本的には結論を先に置く話し方をする。その彼女が要領を得ない物言いをすることを訝しみ、レックスたちは顔を見合わせる。そんな子どもたちを眺め、メレフはひとつ大きく呼吸をした。「だから現時点で、私が彼の処遇を断ずることはできない。……が」 結論を先に言うメレフが結論を先送りにして話す、それこそが結論であるとその時ジークは既に気が付いていた。「過去の判例に倣えば、死刑は免れないだろう」 ジークにとって、それは当然の帰結だった。要人暗殺を行った反逆者を帝国が許すはずがないのだ。だが子どもたちにとっては、もしかしたら、という一縷の望みがあったのだろう。その顔が途端に暗くなる。レックスたちは、エルノスの弟妹、つまり反逆者ロッホの子どもたちに実際に会って言葉を交わしたことがあるのだ。道を間違えて許されない男と、そんな父親を失うグーラの少年少女を思っているに違いない。 メレフがゆっくりと目を閉じる。呼吸を数えて三つ分。「だが」 彼女以外の言葉を失った部屋に、意志の声が低く響く。「今回の件、元を糺せば、国同士の関係の歪みがその原因だ。過去にスペルビアが起こし、そして今なお引き摺っている軋轢が」 ふと、メレフの睫毛か堪えるように震えた気がした。気のせいかとも思ったが、カグツチを見やればメレフを見つめて痛みを覚えるように口許を結んでいる。ジークより余程メレフの感情の機微に敏く気付くカグツチがそんな顔をするのなら、気のせいではなかったのだろう。「その問題は必ず解決せねばならないし、私はそのために全力を尽くすつもりだ。――今、私から言えるのは、この程度だ」 メレフはゆっくりと目を開けて、ふいに纏う気を緩めた。同時に口元が綻び、眦が下がる。俯いてしまっていた子どもたちを順に見やり、最後にジークと目が合う。ジークは無表情を保っていたが、メレフはどこか安堵したようにくすりと吐息を漏らした。そして再度、レックスたちへと語り掛ける。「……落胆させてしまったかな」「いや。それが、メレフの仕事だろ?」 首を振ったのはレックスだ。サルベージャーとして社会に出ている彼は、その辺りをきちんと弁えている。昼間にジークが語った言葉も、多少は影響しているのだろう。「うん。間違ってないって、アタシも分かってるよ。ごめんね、メレフを責めたいわけじゃなかったんだ」 ぴょこぴょこと耳を動かしながら自身を見上げるニアに、メレフも笑みを深くした。「そう言ってもらえると、助かる」 その会話の後、明日の段取りを共有して解散した。ジークも男部屋に戻ってしばらくは時間潰しに購入した雑誌を眺めていたのだが、カードゲームデュエルキングダムで遊ぶレックスとトラが白熱して煩くなってきたので、子どものお守りはビャッコに任せて部屋を出たのだった。さりとて行く当てもなく、屋上に出てみたりもしたが結局暇を持て余し、街を歩くかと思い立って階下に降りる最中でメレフが目に入り、今に至る。 距離は遠く、細かな表情の機微など見える筈もない。背を伸ばし、脚を組み、生真面目な顔付きでページを繰るその姿は、ちょうど彼女の前を横切った女性を見惚れさせている。一見、いつも通りのメレフだ。けれど、この場所から識別できるはずのない目付きが憂いを帯びているのがどうしてだか分かる。纏う空気は硬く、近寄りがたい雰囲気を漂わせている。他者を拒絶しているように。「……難儀な奴やな」 呟く。小さな声は、誰にも届かない。 生き辛いだけやろ、そんなん。 続ける言葉は、音には乗せない。唇も震えない。 テロリストと相対し、今日メレフは冷酷な為政者としての顔を見せた。スペルビア帝国特別執権官。その肩書は伊達や酔狂ではなく、絶大な権力とそれに見合った責任、役割がある。そんな彼女は、命の優先順位をはっきりと付けている。役目を果たす為、守るべきものの為、それを危ぶませる命を切り捨てることに躊躇いがない。それは間違いなく、メレフの持つ顔の一つだ。この旅の仲間に加わるまでは、その顔をしていることの方が多かったに違いない。 けれど、それがメレフの一面かと言えば、違うのだろうとジークは思っている。あの冷淡な声も、凄絶に笑う脅迫も、突きつけた切っ先も、確かに彼女の振る舞いの一部ではあるが、本質の一部ではないはずだ。 正義のために泥に塗れるには、メレフは少々優しすぎる。 ――許してあげることって、できなかったのかな。 ニアが呟き、レックスとトラが同意を示した。その後ろで、ホムラもハナも、言葉にはせずとも彼らと似た顔をしていた。純真で、透明で、真っ直ぐで、それゆえ甘い、そんな子どもたちの優しさと、全く同じ類の慈悲を、メレフもまた有している。出会ってから決して長い時は過ごしていない。それでも、ジークはそれを疑わない。 子どもたちが無知ゆえに語る分かったような理想論を、メレフはただの一度も否定したことがない。微笑みながら真摯に耳を傾け、理想としての正しさを首肯する。その理想論が、彼女やスペルビアの言動を遠回しに非難することがあってさえ、だ。戦闘で成果を上げ褒めてくれと調子に乗るレックスを笑いながら認めたり、強くなりたいトラに強さとは何かを語ったりと面倒見が良く、ジークが投げかける冗談にも生真面目に反応する。見知らぬ他人の困りごとへ手を貸すことに躊躇いがなく、そのために奔走することを苦に思わない。傲慢で聞こえるスペルビアの権力者でありながら、メレフの性根は恐ろしいほどに善人だ。 けれど、その優しさゆえに生じる甘さを、彼女は成長過程で上手に切り捨てて大人になったのだろう。優先順位を間違えない。私情で禍根を残さない。後顧の憂いは絶つ。その全てはスペルビアの為、帝国に仕える自身の役割の為に。たとえば、メレフ自身は反戦派であるが、それでもスペルビアがどこか、たとえばルクスリアと戦争になれば、メレフは涼しい顔で眉ひとつ動かさずにジークへその炎を向けるのだろう。ジークが見るメレフという人間はそういうひとだ。 ならばいっそのこと優しさも同時に切り捨てて、芯から冷たく在れた方が、メレフはもっと楽に呼吸が出来るだろうに。帝国に仇為す者など死して当然だと涼しい顔で言い放てるような彼女であれば、読書の体裁を装って一人で憂いを抱え込むこともないはずだ。 そしてそんなメレフであれば、ジークは彼女を気に掛けずに済んだのだろう。 ――君。……エルノスと言ったな。 ジークの耳に、メレフの声が蘇る。昼日中、アマダー格納区地下倉庫。レックスがニア・トラと共に、メレフに請われて首都常備軍を呼びに行った。その直後、地下倉庫入り口付近でどうしようと躊躇っていた――彼はまだ経験が浅いらしく、戦闘にも参加できていなかった――グーラ人の新米ドライバーを一瞥してメレフは言った。反逆者ロッホから注意は逸らさないまま。 ――まず、お父君のことについては同情しよう。今回の件、身内たる君にも疑いは向くかもしれない。だが、君は自身の潔白を自信をもって話せば良い。君の上官にも、私から話は通しておこう。何、心配はいらない。訓練記録を洗い出せば、君のアリバイも証明されるだろう。 淡々と告げるその声は、柔らかさを取り戻していた。ジークの傍で、サイカが、ああ、やから、と何か悟ったように呟いた。メレフが応援要請をエルノスではなくレックスに頼んだその意味に、ジークもまた気が付いていた。まずは、軍内で辛い立場に立たされる新人兵士を慮って。そしてまた、父親を息子が軍に付き渡し、死刑への第一歩の背を押すことのないように。 ――さて、それで君の処遇だが、君には首都常備軍から親衛隊所属へ移ってもらうことになるだろう。親衛隊ならば、私の手が届く。しばらくは私の直下に置こう。その後については追々考えるが、お父君のことで、君は君の立場に何も心配することはない。 本来ならば、メレフがそんな気を回す必要などどこにもなかった。メレフ自身が語ったように、身内からテロリストを出した属領出の新米ドライバーなど、さっさと除籍にしてそれで終いのはずなのだ。その後は彼と同調したブレイドを回収するため何らかの悪意が働くかもしれないが、そうなってしまったとしても、メレフが責められる所以などどこにもないのである。エルノスは反逆者の父親ともども切り捨てられて誰からも文句の出ない命であった。 その彼をメレフは帝国軍において保護すると言う。エルノスが理不尽な圧力に晒されて折られることのないようにと。信じがたいほどの慈悲に、当のエルノスが戸惑っていた。 ――メレフ特別執権官……。…どうして、一介の兵士たる、この私にそこまで…? ――君がスペルビアにとって必要な人物だからだ。 エルノスを振り返り、メレフは笑って言い切った。 ――まだ未熟だが、熱心で真面目なドライバーであると聞く。君の力を、これからも帝国のために振るってほしい。 そのやり取りを黙して眺めながら、ああこりゃあ人気も出る筈やわとジークは腕を組んだのだ。メレフの帝国内における支持は厚く、どころか国外においてさえ好意的な評価を下す者は多い。炎の輝公子と、彼女自身も自称するその二つ名も、元はと言えば誰からともなく言い出したそんな好意の表れであるのだろう。 そしてジークは確信する。 メレフの優しさは、レックスの純粋さと同じように、どうにかして保たれねばならない、世界が得難い美徳である。 これまで幾度も、泥に塗れてきたのだろう。他人の命を切り捨てることに慣れてもいるのだろう。それでも、そうやって切り捨てたものを思って、優先順位を付けた命が、けれどそんなものはメレフの恣意的なものでしかないと理解して、一人で憂いてきたのだろう。そうして為した正義を、むしろ罪の一つとして数えてすらいるのかもしれない。そうやって、正しく、甘くなく、間違えず、冷淡に、当然のように、メレフは生きてきて、けれども持って生まれた温かな優しさが擦り切れることはなく。 勿論、これはジークの想像だ。だが、他人を気遣う心など、そんな思い込みで充分だと彼は思っている。 だが、かと言って、それがジークの守ってやれるものかと言えば、そうではない。メレフは大人で、レックスのように庇護されるべき子どもではなく、むしろジークにとって対等に立つ存在だ。何より立場が違う。優先すべきものが違う。運命の掛け金が何か間違ったら、自分はルクスリアの王子として、メレフの優しさを傷つける側に立つ。ジークは彼女の柔らかな本質を守り慈しみ保護することはできない。その権利を彼は持たないし、メレフも許さないだろう。では友として寄り掛からせることが出来るかと言えばやはり違う。対等な友であるからこそ、メレフはジークに対して平気な顔で笑いたがる。ジークがメレフに対して弱音を零したいとは欠片も思わないのと同じように。彼女が誰かに寄り掛かるとしたら、それはカグツチの領分だ。 だから今、カグツチに甘えることはせず、一人で呼吸をしているメレフは、ジークの励ましを決して受け入れないだろう。紙を一枚一枚捲りながら、自意識の中に沈み、何か答えを探している。本は孤独の媒体メディアだ。紙の束と、印刷された活字、それによって開かれる世界。本メディアと二人きりで孤独に沈み、自我の奥底で剥き出しの自分と向き合う。そのための道具ツール。ジークもそういう風に本を利用したことが何度もある。孤独に沈みたい時。誰にも関わられたくない時。そうやって自分の中に答えを求める時。静かに本を開く人間に無遠慮に語り掛けるような、空気を読まない行動を、普通の人間はそうはしない。 けれど。 ジークは笑う。 わざと足音を立てて階段を下りる。 空気を読まない人間。それこそが仲間から認識されているジークの人物像キャラクターだった。「おうメレフ、ええところにおるやんけ」 さも今初めて気が付いたという素振りを装って呼び掛ける。本から顔を上げたメレフが、迷惑そうに眉根を寄せた。孤独と思考を強制終了させたジークに物言いたげな目をしていたが、ジークはそれを無視して口の端を吊り上げる。「なあ、アルバ・マーゲンのええ酒場教えてくれや」「酒場?」「飲み行こう思うてな。適当に入ろうかと思うとったけど、メレフがおるならちょうどええ。ぼったくられるんも嫌やし。なんかええ店のひとつやふたつあるやろ?」 言いながらメレフの隣にどっかりと腰を下ろし、無造作に肩を組む。迷惑そうな顔をしてその腕を振り払い、メレフは溜息を吐いた。「夕食の時に飲まなかったのか?」「あんなん子どもしかおらんところで飲めるかいな。一応保護者役やで」 メレフは無言で肩を竦めて、開いていたページに栞紐スピンを挟み、本を閉じた。卓上のメモ用紙と筆記具を手に取り、店名と地図を書こうとするのを文句で止める。「なんや、一緒に行こうや」「遠慮しておくよ」 肩を竦めるメレフだが、ジークは追撃を緩めない。回避が得意なことは知っているが、雷轟のジーク様は諦めが悪いのだ。「一人で酒飲んでも何も楽しいことあらへんがな」「お前なら、その場で話し相手の一人や二人簡単に作れるだろう? なんならサイカと共に行けばいい」「今から呼びに行くのもめんどいやん。ちょうどええやんけ、行こうや」 笑いかける。不機嫌そうに顔を顰め、更に拒否を告げようとしていたメレフの唇が、軽く開いて、ふっと止まった。琥珀色の双眸が宿す色が翻り、何かに気付いたようにぱちりぱちりと瞬きを繰り返しながらジークを映す。「……私のことなら、気を遣ってもらわなくて結構だ」 不機嫌顔が、一転、戸惑うような微笑に変わる。ジークは彼女に気取られないよう、内心だけで息を吐いた。聡いことだ。もう少し鈍感な方が、きっと色々やりやすいだろうに。たとえばメレフの人生であるとか、ジークが測る距離感であるとか、そういうものが。 そんなメレフでないからこそ、手を伸ばしたいと思ったのだ。その光が翳らないように。 少なくとも今のジークには、仲間として彼女を案じる権利くらいはあったから。「何の話や? ワイは酒飲みの相手が欲しいだけやぞ」 メレフの言葉の意図が全く分からない。そんな顔を作って、意識して何度か瞬きをする。 痛みを紛らわせるなら、孤独の中に沈むより、アルコールに溶かしてしまうほうがいい。そんなことはまるっきり考えていない、そういう素振りで立ち上がる。今ここにいるジークは、酒が飲みたいだけの、それでたまたまメレフを見かけたから絡んで連行しようとしているだけの、空気の読めないお気楽な男だ。「まだ九時やで、時間は大丈夫やろ? 案内料がてら、一杯くらい奢ったるがな」 その言い草に、メレフは降参と言うように目を閉じた。五つ数えてジークを見上げ、倣って立つ。傍らに置いていたポーチの中に、先程まで開いていた本を仕舞いながら、メレフは普段ジークに向ける、強気で、少々呆れて、どこか挑発的な、そんな笑みを浮かべていた。「そこまで言うなら、相手をしてやろう。私の好みの店で構わないな?」「そうこんとあかん。よっしゃ、頼むで」 メレフの先導でジャムカマロを出、夜の最中でも昼のように明るい帝都を並んで歩いていく。食事時はとうに終えているのに、道行く人影は途切れない。流石、アルスト最先進国の帝都である。ルクスリアとは大違いだ。二人の体を叩く風だけは、日中の熱を忘れて冷たい。「ジーク」 その中に、呼び掛けに満たない声が零れた。 ジークを見ないまま、言葉は続く。「すまないな」「何がや」 彼もまた、メレフを見ないまま応じた。 隣り合う距離は腕を伸ばせば触れられる程度に空いていて、伸ばすことは互いにないまま、保たれる距離の只中を、新たな風が渇いて吹き抜けていく。「何でもない。独り言だ」 そうか、と気もなく返す。 後は、スペルビアの名酒だとか、それに合う肴だとか、今から行く店の評判だとか。そんな他愛ない、くだらないことばかりを話しながら、二人は夜を歩いて行った。2018/01/29 [6回]PR