別人 スペルビアの帝都に鎮座する皇宮ハーダシャルを、二名のブレイドが歩いていた。一人は泰然と慣れた道を歩き、もう一人は物珍しそうに辺りを見渡しながらその後ろを付いていく。ドライバー不在のブレイド二人へ、兵士たちは敬礼と共に道を開ける。前を行く一人はそれを当然のように受け取り、続く一人は興味深そうにその様子を眺めていた。「ここの主要施設は二階に集中しているの。一階は巨神獣兵器の格納庫や、兵の訓練場、文官の執務室なんかが多いわ」 青い癖毛を乾いた風に遊ばせながら、カグツチは傍らのブレイドへ語り掛ける。軍事国家スペルビアの要たるこのハーダシャルは巨大で、かつ内部構造も複雑を極めている。設計がどうとかいう問題ではなく、単純に施設としての機能が多すぎるのだ。「一階にはあまり用ががないと思うから、二階から説明していくわね」「よろしく頼むよ。しかし、話に聞いていたより遥かに立派な要塞だね。覚えきれるか心配だ」 ワダツミの言葉を背に聞きながら、昇降機エレベーターを呼び出す。到着までは少々時間がかかる様子だ。「大丈夫よ、今全て覚えろなんて言わないわ。然るべき時が来たら改めて説明する。今はただ、こういうものだと認識する程度でいい。メレフ様だって、そのおつもりでしょうし」 言いながら、カグツチは既視感に捕らわれた。そう言えば、ワダツミにハーダシャルを案内するのはこれで二度目になる。一度目の時にも、ワダツミは同じようなことを言っていた。その時カグツチは、「次は私が案内される番になるでしょうから、しっかり覚えて頂戴ね」と軽口を返した記憶がある。 ちくりと、つまらない感傷が胸を刺した。それはスペルビアの乾燥風に浚われて、すぐに霧散する。次の瞬間には、痛みはもうない。「そう言ってもらえると、少し気が楽になるね。……ところでカグツチ、君が持っているそれは何だい?」「え? ああ、ただの野暮用よ。貴方には関係ないものだから、気にしないで」 昇降機が到着する。行きましょう、とカグツチはワダツミを促した。 ワダツミは、カグツチと同様、帝国に受け継がれてきたブレイドである。カグツチに次ぐ力を有し、代々のスペルビア皇帝のブレイドとしてスペルビアの歴史に名を刻んでいる。過去の記録を見る限り、カグツチとワダツミが交互にその時代の皇帝と同調することが慣例であったようだ。当代のカグツチはその慣例を破って傍系の皇女であるメレフをドライバーに頂いている。そして当代のワダツミもまた、現スペルビア皇帝ネフェルではなく、その従姉で臣下たるメレフのブレイドであった。 つい先日と言っていいほど最近まで、ワダツミは慣例通り皇帝、すなわちネフェルのブレイドであった。けれどノポンの政商バーンの起こしたテロリズムにより、ネフェルの心臓は一度完全に停止した。ネフェルは回復の力に優れたニアによって一命を取り止めたが、その時ワダツミはコアに戻り、当代の記憶に幕を下ろした。その後ネフェル本人の強い希望によりワダツミのコアはメレフに譲渡され、メレフはスペルビア史上初の、カグツチとワダツミの両名を扱うドライバーとなった。「カグツチ。ワダツミにハーダシャルを案内してやってくれ」 天の聖杯と行動を共にする旅の途中。スペルビアに立ち寄り、ついでに残してきた仕事を片付けてくると仲間たちに告げたメレフは、当然行動を共にしようとしていたカグツチにそう命じた。ワダツミは初めての――メレフがワダツミと同調したのは旅の最中の話であり、だからワダツミは、自身がスペルビアのブレイドであるとは説明を受けながら、スペルビア帝国そのものを全く知らなかった――帝都を興味深そうに眺めていた。 了承を示したカグツチに満足そうに頷いて、メレフはワダツミに語り掛ける。「何か見覚えのあるものでもあるのか? ワダツミ」「いや、凄いなと思ってね。今まで見てきたどの街よりも栄えている。これが我が帝国かい」「はは。観光客と同じようなことを言うのだな」 さして落胆を見せるわけでもなく、メレフは軽く笑った。「そうだ。これが君の国だ。私の守るべき国。そして、ネフェル陛下――君の、前ドライバーの国だよ」 ワダツミがまだネフェルのブレイドであるワダツミであった時、カグツチはしばしば彼と言葉を交わしていた。ドライバーが従姉弟同士の関係と言うことで、カグツチとワダツミは他の者たちよりずっと親しかった。基本的には仕事の話ばかりだったが、たまのプライベートに交わす話題はおおむねメレフとネフェルのことに終始していて、我が敬愛するドライバーの自慢と心配を交互に繰り返した。お互いを大事に思って仕方がないのに、それがなかなか相手に上手く伝わらない二人を一歩離れたところで、親のような心境で見守ることも多々あった。ドライバーとブレイドという立場であったが、メレフもネフェルも既に親を亡くしていて、だからカグツチとワダツミは従者兼保護者のような役割を頂いていたのだった。後は、味覚が似ていることから美味しかったスイーツの情報交換をたまに。 他愛ない日々。それでもカグツチにとっては穏やかで優しい思い出として、ワダツミとの会話を幾つも日記に書き残した。ドライバーの年齢差を考えると先にコアに戻るのはカグツチの方で、だからいつか彼との記憶を失くした自分が後にこんなこともあったのだと知れるように、と。かつての自分も同じように、その時代のワダツミとの関わりをしばしば記述していた。 そのはずだったのに、先に忘れてしまったのはワダツミの方だ。 今カグツチと共に歩くワダツミに、それらの記憶は一切残っていない。消えてしまった。冷たいコアに戻り、全ては呆気なく失われ、あれほど愛おしそうに語っていたネフェルの存在も、毎日を過ごしていたハーダシャルの構造も、共に誇ったスペルビアの街も歴史も、ワダツミは綺麗に忘れてしまった。 今のワダツミは、歩を進めるたびに物珍しげに周囲を見渡す、ただのメレフのブレイドであった。「出来ればここは覚えておいて。メレフ様の執務室なの。私の待機室でもある。今後は貴方もここで過ごすことが増えると思うから」 ここは会議室、ここは謁見の控えの間、この廊下の先は書庫、と、真紅の絨毯が敷かれた廊下をかつりかつりと歩きながら、一つ一つ説明していく。すれ違う兵士や文官たちが、二人を興味深そうに、あるいは無関心に、あるいは少々痛ましそうに目を伏せながら見送っていく。「かつての私は当然、ここを自在に歩いていたのだろうね」「……ええ、そうね。大丈夫よ、構造なんてすぐに慣れるし覚えるわ」 こんな台詞も以前ワダツミに告げた。ネフェルと同調したばかりの、まっさらだった前代のワダツミに。不毛だ。何の生産性もない繰り返し。ワダツミは何も悪くないのに、ついそう思ってしまったのは、薄々感じているブレイドの"個"の儚さを突きつけられたような気がしたからだ。「君にとって、かつての私は何だった?」 更に上層へ至る昇降機の中で、唐突に問い掛けられて、カグツチは「え?」と声を上げた。「どうしたの、急に」「いやね。私のドライバーはメレフだ。けれど、前ドライバーの皇帝も生きていると聞く。当時のことを知りたいと思う気持ちは、君なら誰よりも理解してくれると思うがね」「……貴方が過去の記録を知ることは、陛下の命により禁じられているわ」「ああ、知っているとも。だからあくまで、君にとっての以前の私を聞いているんだ」 それを知ってどうするのと聞きそうになって、やめる。愚問だ。過去の記録を望めないなら、もっと個人的で、無価値で、つまらないところから、それでもかつての自分の痕跡を求めようとするのは当然の欲求である。カグツチだって同じ立場に置かれたら、おそらく同じように振る舞うだろう。「そうね」 上階にたどり着く。ハーダシャルの説明は続けながら、その合間に答えた。「私たちはブレイドだから、この表現が正しいのかは分からないけど、いわゆる同僚、といったところかしら」「……つまり、今とさほど変わらなかったと?」「そうね。"私たちは"変わっていないわ」 何の気なく返す、カグツチの真意にワダツミは気付いているだろうか。人型ではあるが表情の読み取り辛い彼は、態度も常に泰然自若としていて、何を思っているかを把握しづらい。 カグツチとワダツミの関係は変わらない。交わす言葉も、声に乗る感情も、拍子抜けするほど過去を綺麗になぞって現在に紡いでいる。日記に残る限り、過去をどれだけ遡っても、ワダツミとはそういう間柄だった。代々の皇帝に交互に同調していたということは、つまりどの時代においても自分たちは皇帝陛下と皇太子殿下のブレイドであったということで、この国を頂くドライバーのためにと、その立場は極めて似偏っていた。繰り返し、繰り返し。長い年月の中で、互いにそれを忘れながら、同じ言葉を繰り返してきたのだろう。 メレフと同調したばかりだった頃のカグツチも、ワダツミに尋ねた。その時のワダツミは、前帝陛下のブレイドだった。以前の私と貴方はどういう関係だったかと尋ねたカグツチに、当時のワダツミは答えた。人間の関係に喩えるなら、良き同僚だったよ、と。 その記憶も、当然ながらワダツミにはない。「何代も前からこんな感じらしいわよ、"私たちは"ね」「含みがあるね」 揶揄するようなワダツミの声はしかし柔らかい。 忘れた側と言うのは案外気楽なものだ。自分が忘れてしまったことを知りたいとは思うが、そこに痛みは感じない。かつてカグツチもそうだったように。 カグツチも悠然と返す。「ごめんなさい、どうしてもね。以前の貴方とネフェル様を知っているから」 自分の死後、ブレイドが自分を忘れてしまうことを酷く嫌うドライバーもいるという。遺産として受け継いだ親のブレイドと、同調したくないと言う人間もいるらしい。その気持ちが、今のカグツチにはなんとなく分かる。忘れられるのは悲しい。大切だったはずのものを忘れてしまった姿を見るのは、更に言葉にしづらい哀愁がある。 けれど、やがてカグツチもこうなるのだ。メレフのこともスペルビアのことも大事に大事に抱え込んだ思い出も全て忘れて、全く新しいカグツチが生まれるのだ。そうしてメレフと今の自分を過去にして、こんなに大切に思っているメレフを、かつて大切だったらしいものという名前の箱の中に詰め込んで、後はその名を日記を紐解くまでは殆ど思い出すこともしないまま、また大切なドライバーと共に、新たな思い出を築いていく。 ブレイドとはそういうものだ。 それを、悲しいとは思わない。 ただ、その時はワダツミも一緒にコアに戻るから、今カグツチが覚えているつまらない感傷をワダツミは知らないままで済むことが、少しだけ、ずるいと思う。「……そう、以前の貴方と言えば、ここ」 いつの間にかハーダシャルの最上階だった。許された一部の人間しか降り立つことすら許されない階。昇降機前で微動だにしない警備兵が、カグツチとワダツミを認めて敬礼する。二人はここに入ることを許可された数少ないブレイドであった。「この階はね、皇族直系の方の居住区。メレフ様は生まれ自体は傍系だから、別に離宮があるのだけれど。ネフェル陛下はこちらでお過ごしになられていて、それで、以前の貴方の控室もある」 迷いなくその部屋の前まで行く。機械仕掛けの錠はワダツミがコアに戻った際に初期化されていて、所定の手順で呆気なく開いた。「不法侵入かい?」「家主はもういないから」 からかう声を涼しい顔で受け流し、カグツチはその中へと入っていく。照明を点け、ランプにも火を灯す。 屋内は質素だった。備え付けの家具。読んでいたと思しき本たちと、それらと並べて本棚に押し込められている幾つかの日記。カグツチが日記を残し継承しているのを見た前代のワダツミが、それを真似たものだった。落ち着いたらあれも継承してもらえるよう手筈を整えねばならないと考えながら、本棚の隣に並ぶ木製の棚の前に立つ。「それは?」 後ろからワダツミが興味深そうに棚に並んだ人形を見た。 ずっと手に持っていたそれらと同じ一体を、空いていた場所に並べてやって、カグツチは言う。「モッテコラ人形。以前の貴方はこれの収集が趣味だったの」 可愛いとも格好いいとも言い難い、やや間の抜けた顔とボディの人形。なぜかアルスト全域にその店は立ち並び、地域によって意匠や扱いも違う。職人の一点ものまで存在するという意外に深い世界だそうだが、カグツチには全く興味がない分野であった。何が楽しくてこんなものを集めるのかと依然聞いた折には、君の化粧品と一緒だよと笑われたものだが、実用品であるコスメと一緒にされるのは未だに納得がいかない。 それでもカグツチは彼の趣味を尊重して、他国へ赴いた際、特別探すような真似はしなかったが、見かければコレクションの一つにと買って帰ったものだ。 これは、その最後の一つ。「以前、リベラリタスへ行く用があってね。その時、以前の貴方へのお土産にと思って買ったのよ。結局渡す暇もなくて、そのままだった」 まるで供え物だ、とカグツチは思った。最早この世界のどこにもいない、ネフェルのブレイドであったワダツミに向けて。メレフのブレイドになって今カグツチが言葉を交わすワダツミとは別の、その代の彼だけが持っていた、思い出という名の魂へ向けて。 そんなつもりで買い求めた訳ではなかったのだけれど。 それでも心残りとしてずっと手元に持っていたそのモッテコラ人形を、手渡すことが叶っていたらここに並んだのだろうとコレクション棚に置くと、何か胸の中で凝り続けていた感傷が、確かにふっと溶けて和らいだような、そんな気がした。 ワダツミは整然と並べられたモッテコラ人形を興味深そうに眺めている。手入れをする者がいなくなって、うっすらと埃を被っていた。うちの一体を手に取り、指で汚れを払う。「……それは、私にはくれないのかい?」 彼の意外な言葉に、カグツチは首を傾げた。「気に入ったの?」「ああ。興味深い人形だ。この意匠が違うのは地域による差かな。こういう風に集めて並べるにはなかなか良いものじゃないか」 くすり、とカグツチは笑う。 不思議だ。命を投げ打ってでも守りたいと思ったはずのドライバーのことは綺麗に忘れてしまうのに、自身の嗜好は受け継がれる。カグツチもそうだった。甘味を好んで食べる自分は日記にもたびたび現われる。近い時代の自分が特に好んでいたスイーツを今食してもとりわけ好みだと感じるのだから、この部分に変化はないらしい。 そんなくだらないことだけを自覚もせずに受け継いでいる。 笑い話のようで、救いのようで、喜ばしいのか嘆かわしいのか、カグツチには分からない。 ただ、そうやって。初期化リセットされながら、それでも間違いなく自分として、この命は永遠に続いていく。「だったら、このコレクションを受け継げばいいんじゃないかしら? 元々貴方のものだもの、誰も文句は言わないわよ」 モッテコラ人形の群れを指さしながら言う。処分する手間が省けるだけ大歓迎だろう、と他人事として思う。「勿論、今の旅が全て終わったら、になるだろうけどね」「そうだね。それまでの間にこれが処分されてしまわないように、誰かに頼んでおかないと」「メレフ様にお願いしておけば、その辺りは問題ないと思うわ」 思い出を失くして、こんなものだけ受け継いで、そうやって未来も自分たちは会話をしているのだろう。同じような言葉をそれと知らず繰り返して、同じような喜びと痛みをその都度感じて、カグツチもワダツミもスペルビア帝国の歴史に名を刻み続けるのだろう。 それはきっと約束された未来の事実で。 痛みはなくて、むしろ優しい。 喋りながら人形たちを置いて部屋を出る。これでハーダシャルは一通り案内し終えた。メレフの執務室に一旦戻ろう。そしてメレフの仕事が落ち着いていたら、今度はメレフも一緒に帝都を案内しようと思った。メレフが守るべき街で、だからカグツチと、今のワダツミにとっても守るべき誇らしい街。何よりかつてのワダツミが、ネフェルの治める国の中心地として愛していた街。そして一通りを回り終えたら、かつてのワダツミがお気に入りだったスイーツショップへ行こう。そこで許されている限りの思い出話をすればいい。ネフェルのこと、この街のこと、かつてのワダツミとネフェルがどんな日々を過ごしていたか。今のワダツミに受け継がれるべき、前代のワダツミが大事にしてたもののことを。注文するメニューはもう決まっている。カグツチにはワダツミの嗜好を、今の彼より正確に把握している自信があった。2018/02/04 [2回]PR