清夏 太陽の香りがする人だった。あるいは夏を宿して生まれた人。スペルビアの名を奪われながら、スペルビアの陽の面、強く気高く名を馳せる大国としての光を存分に象徴して胸を張っている女だった。少々詩的な表現に過ぎるかもしれないが、ジークがメレフに抱く印象は、概ね夏の一言に終始する。 太陽のろくに届かない万年雪の大地に降り立ってなお、鮮やかな印象は薄れなかった。「さっむ! ルクスリア、寒っ!!」 巨神獣船が着港し、ゲンブ港に足を踏み入れるまでの甲板で、ニアが早々に騒ぐ。「冷える言うたろ。お言葉に甘えてホムラかカグツチにくっついとき」 ジークが言うが早いか、ニアは機敏にホムラの隣を陣取った。「振られたな」とメレフがカグツチに囁き、カグツチは苦笑する。自身も慣れない寒さにぶるぶると震えながら、レックスがニアとホムラを見てビャッコを無言で慰め、彼の足元では同じように寒がるトラが、ハナに触れられて、冷えた機械仕掛けの指に悲鳴を上げていた。 港の外に広がる雪景色を眺めていたサイカが、騒ぐ一同を振り返り言った。「テオスアウレまで、結構距離があるんよ。出発は明日やね。今は雪も激しいし」「陸路とは聞いていたが、港と街がそんなにも離れているのか?」 メレフが問う。どこの国でも首都機能に港は不可欠だ。グーラのトリゴやインヴィディアのフォンス・マイムでは首都に港が隣接しているし、スペルビアのアルバ・マーゲンにおいても、アナンヤム港から帝都への移動に半日も掛からない。どの国においても、経済は自国のみでは完結しない。ゆえに、他国から人や物を受け入れ、また輸出するために、港湾都市であることは、アルストにおいて都会の前提条件だ。「鎖国しとるからな。他の国みたいに、物流の無駄とか考えとらん。逆に離れとるほうが、人の出入りがのうてええくらいなんやろ」「距離が開いとったらそうそう脱走しようとか思わへんし、ノポンの商人かてなかなか来ぃひんからな。まあ、出ていく側の話するなら、王子は違うたけど」「ワイの情熱がこんな距離ごときで折られるかいな」「ルクスリアにいた頃から、何回も外に出てたんだっけ、ジークは」レックスが言う。「興味あるなら教えたろか? そんときの王子の話」とサイカ。「いらんいらん」ジークは顔の横で手を振る。 わいわいと話しながら、ゲンブ港の端にある、宿泊施設とも呼べない待機所に入る。常駐する人もいないが、定期的に人の手は入っているらしく、設備は清潔で、暖房器具は問題なく稼働し、燃料の備蓄も充分だ。保存食もいくつかあった。どうせ食べられるものもないだろうと、数日前にアヴァリティア商会に立ち寄って食料を買い求めていたので、それらには手を付けずに済みそうである。待機所を利用する人間も自分たちだけだったので、部屋は適当に、遠慮なく選んだ。 変わらへんな、とジークは人知れず息をつく。ああ母国だ。古臭く、黴の生えて、未来を見つめる術を忘れた国だ。スペルビアやインヴィディアなら、主要港がこんなにうら寂れてはいない。すぐそばに首都があって、そこにはいくつもの宿屋やレストランがあり、各国の料理が自信満々に振る舞われている。港には船が引っ切り無しに出入りして、船員や運び屋、整備員が足早に行き交い、観光客やその国の子供が巨神獣船の大きさやこれから向かう街の喧騒に顔を明るくしている。埃の積もった静寂など、どこにも存在しない。 ジークが出ていった十年、この国に進化のための時など流れていないことが港にいるだけで分かる。いや、何百年も。この国は過去に留まることを選び続けている。 温かく美味い食事にありつけたのはホムラ様々である。手分けして片付けを済ませた後は、薄緑のエーテルランプと、ホムラが火を付けたオイルランプの光が灯るばかりの室内で(スペルビアのような電力発電という現代文明そのものがルクスリアにはない)、ルクスリアの寒さがそうさせるのか皆解散しようとはせず、自然とサイカによるジークの昔話が始まっていた。皆の興味を引き、面白がらせるため、サイカの出す話題は主にジークが衛兵の目を盗んでは時折来る食料輸入船に紛れて他国へ脱走し、そのたびにゼーリッヒに叱られていた話ばかりで、仲間たちは笑ってくれているが、ジークとしては面白くない。 一同を見るともなしにぼうっと眺めていたジークは、話が一段落した頃合いで、メレフがカグツチに何か耳打ちして席を外したのを認めた。「やんちゃというか、豪胆だったんだな、昔のジーク」「いまの亀ちゃんと一緒じゃん」レックスとニアが口々に言い合うのに「お前らに言われたかないわ」と適当に応える間も、メレフは戻らない。「お茶を淹れましょうか」とホムラが立ち上がり、皆を見渡した。「……あら? メレフさんは?」「メレフ様なら外に。少し歩きたいのですって」「えー、こんな寒いのに。メレフも物好きだな」 返すカグツチにニアが横槍を入れるのをなんとなしに聞き、ジークも立ち上がる。「ホムラ、ワイの茶はいらんわ」「ジーク、もうねむねむも?」大きな耳をぱたつかせてトラが言う。「眠うはないけど、おどれの昔話聞かされてもおもろないっちゅーねん」 廊下に出れば石造りの壁が発する冷気に身震いする。手提げのオイルランプを手に、エーテル光が薄暗く照らす廊下をまっすぐ突っ切り、外に出た。暖熱が届かないとは言え、外気を遮断していただけ廊下の寒さはまだましで、ドアを一歩出れば突き刺す冷気に頬が痛んだ。一瞬考えて踵を返し、玄関口の衣装棚からクロークを一枚引っ掴んで再び外に出た。 ゲンブ港の外に出れば雪は止んでいた。大地に凍りついた雪の上に、一人の足跡がある。目線で追いかければ見える位置にオイルランプの明かりと、照らされる見慣れた軍服の背中。外套を持たずに外に出たのか。ようやる、と目をすがめたところで、メレフが唐突に蹲る。ジークは驚いて、早足で彼女の許へと向かった。寒さに倒れられては洒落にならない。しかし心配を裏切って、辿り着いてみればメレフは足元に纏わりつく妙に人懐こいユーキド・バニットを眺めていた。「ジーク」気付いたメレフがジークを見上げる。「どうした?」「逃げてきた」 早とちりを口にはせず、端的に答える。察したメレフが立ち上がりながら笑う。肩に掛けていた一枚のクロークを、彼女に渡した。「ルクスリアの夜を舐めたらあかんで、いくらごっつい軍服着とる言うて、スペルビアの生地やろ、それ」「すまない。確かに、思っていたより寒くて驚いていたんだ。しかし、いいのか? お前の分だろう」「ワイはええねん。ルクスリア人やさかいな。寒さには強いで」「そんなものなのか?」「メレフかて、スペルビアの日中でも、ずっとその服やん? 暑うなかったん、あれ。ワイなんか暑うて上着脱いで、サイカに叱られるんやけど」「私はスペルビア人だ。暑さには強い。そしてジーク、その服を更に脱ぐのはやめておけ」 そこまで言って、お互い同時に噴き出した。笑声を上げるまではいかず、くつくつと喉の奥で笑い合う。「そういうことなら、厚意に甘えよう」メレフはクロークを身に纏い、安堵したように息を吐いた。「何しぃ外に出たん。寒いやろ」「雪を見たくて」リザレア広場を見遥し、メレフは答える。「見えんやろ。夜やし。暗いし」「ああ。恥ずかしながら、ここまで何も見えないとは思わなかった」 ゲンブに流れるエーテル光が、先程の石造りの廊下と同じように、薄ぼんやりと周囲を照らしてはいるが、拭いきれない暗闇が、音を吸い込む雪の中口を開けるばかりの雪原。二人の手元にあるオイルランプの光だって、そう遠くまでは届かない。ルクスリアの夜は暗闇だ。スペルビアの夜にはない漆黒。スペルビア人の感覚で夜の雪原を出歩かれて、メレフに限ってそんなことはないと思うが、うっかり遭難されてはたまらない。「スペルビアに雪は降らないから、どんなものかと気になったんだ」「グーラにくらい降るやろ? 初めて見る言うわけでもないやろうに」「それはそうなんだがな。まあ、なんというか。お前の国だろう」 ふうん、とジークは鼻を鳴らした。「スペルビア人からしてみれば未開の国みたいなもんちゃうんか、ルクスリアなんぞ。そんでグーラみたいな自然があるわけでもなし」「そういう意図ではない。ジーク、お前、何か拗ねていないか」「事実や」 ルクスリアとスペルビアを単純に比較すれば、スペルビアのほうが終焉に近い。巨神獣の寿命は目前に迫り、解決の決定打のないまま日々は過ぎ、未来への不安から国内に抱える問題も多い。メレフの後ろに口を開ける、スペルビア帝国の暗い影。しかしそれでも、ジークからすれば、あの国は未来を見ようとしている。それが悪足掻きに過ぎないとしても、足掻くことで踏みにじる他者を黙殺するとしても。過去に縋り、今日に手一杯なルクスリアの、ジークが一番嫌いな部分からすれば、ある意味では余程ましだ。少なくともあの国は、自国と民を救うことを考えている。そして未来を見つめる国としての側面を切り取った人間が、ちょうどいまジークの隣にいる。 名誉と悪名の双方が名高いスペルビア帝国の、光のみを集めて凝縮したのがメレフ・ラハットという人間だとジークは思っている。強く、気高く、泰然と、自信に溢れて動じず、自国を愛して胸を張る。少々褒め過ぎかもしれない。付き合いだって特に長いというわけではない。テンペランティアの一件では、ジーク個人としてはスペルビアを見捨てようとして、その台詞をメレフも聞いている。けれど旅の仲間として短くも毎日顔を合わせ言葉を交わし背を預け合えば、日の短さを補ってあまりあるほど互いを近く感じるものだ。 知れば知るほど、夏だと思った。 遠く高く透明な空が世界中を輝かせる夏の日のような人だと。「ルクスリアのことが、嫌いなのか? お前の国だろう」 お前の国、という言葉を、メレフは再び口にした。「全部が全部嫌いちゃうで。作物が育たんのは勘弁してほしいけど、この寒さも言うほど嫌いやない。めったにないけど、たまに晴れた日はずっと向こうの山脈まで見渡せて綺麗なもんや。こんな環境で生きとるから、人も結構たくましい。ちゅうか、ワイはルクスリア自体は好きやねん。ただ、何百年も続いた在り方が気に食わんのや。……ま、ルクスリアの問題なんぞ、王都に着いたらすぐ分かるわ」 メレフに愚痴を零したところで、自国の恥を伝えるだけだ。いや、少し違うか。ジークは単に、メレフに、まだ足を踏み入れた直後のこの国に、必要以上の悪印象を持たれたくなかったのだ。だから逆に、ルクスリアの良い面を懸命に思い出して説明した。テオスアウレは街そのものに暖房機構を備えてあり、凍えない程度には暖かいこと。スペルビアのような温泉はないが、その暖房機構の副産物で足湯が多くあること。子どもたちの雪合戦が、作戦を立てチームワークを駆使しなかなかどうして見ごたえがあること。メレフは微笑みながら興味深そうに耳を傾けてくれた。「ルクスリアになんぞ、そうそう来れるもんとちゃうやろうし、色々見てったらええ。ま、ワイが即位したら鎖国なんぞ真っ先に解いたるから、そのうちそんなに珍しいもんでものうなるやろうけどな」「勘当されているのではなかったのか、放蕩王子」「そんなもん、世界救うて帰ったらいくらでもどうにでもなるやろ」「世界、か」ジークの大言壮語を、メレフは笑わなかった。「そうだな。もし、そんなことがほんとうに出来たら。我がスペルビアも安泰だろうな」 メレフは目を伏せた。彼女は軍帽を被ってはいなかったが、凍てついた風がゆるく吹き、長い前髪が表情をジークから隠してしまった。声が柔らかいから、リアリストの特別執権官殿に、言い分を唾棄はされなかったらしい。「スペルビアと言えば、ジーク。当然スペルビアにも来たのだろう? お前は、陛下の国を見て、なんと思った?」 私の国、ではなかった。彼女の事情を知っているジークは、無意識に目を細めていた。スペルビア帝国。彼女の国に、なるはずだったと聞いている。幼い頃の彼女は、その名を背負っていたとも。取り上げられて、奪われて、メレフがいま背負う姓はラハットだ。「せやなあ、お前の国は」 あえて言い直したことに、メレフは気付いただろうか。 十年前を思い出す。ルクスリアを出奔して、最初に訪ねたのがスペルビア帝国だった。アナンヤム港に降り立った時の衝撃。肌を焼く熱、赤土に吹きすさぶ乾いた風。運ばれていくいくつもの積荷。人々の活気。あの頃は、戦争の足音を聞きながら、しかし人々は快活と笑っていた。蒸気機関の街を見上げ、力強い現代機械文明に胸が踊った。 そして見上げた、押しつぶされるような一面の空。「空が」一息区切って、続ける。「第一印象は、空が広いなあ思うた」「空?」 思っていた答えと違ったのだろう、メレフが首をひねる。「ゲンブじゃ空は殆ど見えへんから」ジークは何もない上を指差す。真実何もない。指先を辿れば、ただ、ゲンブの天蓋に行き止まるだけだ。「知識はあったけど。空がずうっと広がって、お日さんが照り続ける国がほんまにあるんや思うて、感動したのを覚えとる」 スペルビアへ初めて降り立ったのは、そういえばちょうど夏だった。 ルクスリアの真逆。太陽に愛され、愛されすぎて、大地が耐えきれず、過酷な夏の続く国。 だからスペルビアを切り取ったメレフへ抱く印象もその記憶を引きずって太陽や夏の眩しさなのだろう。 十年ぶりに降り立った母国を思う。日の差さない厳冬が育む貧しさ。五百年前の技術や遺跡を大事に抱えて新しいものを生み出せず、雲海の寒さにくるまって得られる一時の安寧を守ることに腐心する。生きることに手一杯で生産活動さえ満足にできないまま国ぐるみの貧困から抜け出せない。 ジークが嫌うルクスリアの部分をそっくりそのまま裏返したのがスペルビアだ。照りつける太陽。自らが生み出し進化し続ける機械技術に支えられた豊かな生活。グーラ領を有しているからとはいえ、戦争を間近に控えながらインヴィディアのような食料配給に頼る必要もなく、子どもがボードゲームに熱心になる余裕がある。 比べても仕方がない。逆に、その豊かさと引き換えに他国を踏みにじらんとする業を、ルクスリアは背負わずに住んでいるとも評すことだって出来る。 それでもだ。眩しいものは眩しい。ないものねだりと知っていてなお。「ああ、せやな。ええ国やなあって、素直に思うたで」「恐縮だ」「嘘やん。当然やいう顔しとるくせに」「む。そうか?」 メレフが自身の頬に触れた。今気付いたが、メレフは普段嵌めている手袋を、こんな時に限って外していた。すっかり冷え切った指先は青白くなっている。それを指摘すると、メレフははあと手に息を吐きだした。二、三度閉じたり開いたりを繰り返す手の動きがぎこちない。彼女の持つオイルランプが、ゆらゆらと揺れた。「帰ろか。風邪引かれたらかなわん」 彼女のランプを奪って促す。手ぶらになったメレフは、毛布にくるまるように、クロークを纏い直した。踵を返す。足元にいたバニットも、とっくに寝ぐらへ帰っていた。「良い国なのだろうな。ルクスリアも」 自分たちの足跡を逆に辿りながら、メレフは言う。「お前の話を聞いていると、そう思う」「悪いところを言うてへんからな」たとえば闇市のこととか。十年の間に市場が清浄化していることを可能性に、欠片も信じていないくせに一応賭けて、あえて話題に上げなかった。どのみち、テオスアウレにひとつ足を踏み入れれば即つまびらかになる事実だ。「たぶんメレフの想像の十倍くらい貧乏やからなうちは、覚悟しとき」「まあ、それはそれとして、だ」 メレフはジークを見上げた。微笑んでいた。炎の輝公子と呼ばれる麗人ではなく、冷徹な特別執権官でもなく、ただの彼女がそこにいる。ジークは我知らず息を呑んでいた。ゆっくりと瞬きをする、長い睫毛に、釘付けになる。背に広がる闇夜のリザレア広場を肩越しに振り返り、次いでもう一度ジークを見つめて、メレフは大きく息を吸い、吐き出した。「第一印象として、私はこの静けさが嫌いではない。風の冷たさも。少々痛いくらいではあるが……身体の奥に淀んでいたものを凍らせてくれるのか、なんだか清々しい気分になれる」 メレフからそんな感想を貰えると思っていなかったジークは、きょとんと目を見開いてしまった。会話が途切れる。さくりさくりと雪を踏む音ばかりが、凍てつく夜に響きもしない。メレフは特に気分を害した様子もなく、むしろどこか上機嫌だ。「……そりゃあ、おおきに」 迷いに迷って素直に感謝すると、メレフはくすりと笑って、そのまま小さくくしゃみをした。ぶるりと震えて、クロークにくるまるように前を閉じる。鼻が赤い。悠然としていたが、やはり寒いことは寒かったのだろう。スペルビアでは一生体感しなくていい気候だ。グーラになら冬に雪くらい降るだろうが、ジークに言わせてもらえればグーラの冬はまだ生温い。 ジークは無言でメレフを窺った。 吐き出す息が白い。 対比するように耳が赤くなっている。 クロークから覗かせた手に息を吐きかけるため、肩が少し丸まっていた。 慣れない雪道で転ばぬためだろうか、歩幅はいつもより控えめで、足元を見るため目線も低い。 どうやらとっくに冷え切っていたらしく、少しでも熱を作ろうと身体が縮こまろうとしている。 せやな、寒いもんな。寒かったら人間、そないなるわな。 でも、だから、違う。 そう、違うのだ。 メレフ・ラハットという人間。少年だったジークが憧れたスペルビアをその身に移して立つ人。太陽のよく似合う人。背筋は伸びて、肩を張って、未来を見据えるように目線は少しだけ遠くにあって、威風堂々と歩く人。 相応しくない。 その答えは、すとんと心の真ん中に収まった。 とある自覚がある。ジークはかつてスペルビアへ抱いた憧れを、メレフ個人へそっくりそのまま横滑りさせてしまっている。大人になったジークは彼の国の暗部に思い至れるようになっており、現実のそこには確実にメレフもいるのだと――たとえそれを正そうとする側であっても、だ――知っているのに、それでも、綺麗なだけのスペルビアを、彼女の横顔に眺めている。メレフがつまらない人間であったなら、馬鹿げた夢も早々に冷めてくれるものを、言葉の正しさと、公人としての抜け目のなさと、性根の優しさと、私人としての妙な幼さに、うっかりなおのこと捕らえられてしまった。こんなに面白い人間だと最初から知っていれば、距離の取り方にもう少し警戒したのだが、常識的な距離感を保とうとしたメレフにずけずけとジークがちょっかいを掛けたのが実際のところだ。とんだお笑い草である。 正直に言おう。もはや少年の憧憬は、下心込みの好意に上書かれつつあった。 だからこそジークは心から笑った。くしゃみをからかわれたと受け取ったメレフが眉根を寄せた半眼でジークを見上げた。「すまんすまん」とジークは笑いながら謝罪したが、なおのこと棘のある視線が突き刺さるばかりだった。「ちゃうねん。ただな、メレフ。お前はルクスリアでは暮らせへんやろうなあ」 意図を測りかねたメレフが無言で首を傾けたが、ジークはそれ以上の補足をしなかった。 正直ついでに懺悔すれば、たとえば、を描いたことがある。眠りに落ちる瞬間のゆめうつつで。たとえばこの感情がはっきりと名のつくものになったとして。何かの間違いで実を結んだとして。そこまでは、都合のいい妄想を多分に含みながらも、描くことが出来た。ただその先、運命の悪戯が過ぎたとして、たとえば、ほんとうに、たとえば未来が交わったとして。そこから先が見えなかった。メレフがルクスリアで目を覚ます。ルクスリアで眠る。ルクスリアで老いて、そして死ぬ。――想像できない。 当然だ。 凛と伸びた背も。 自身に満ちて張られた胸も。 真っ直ぐに遠くを見つめる眼差しも。 疑わずに前へ踏み出す一歩も。 全て自然に表象されるそれらが、この国に立った瞬間、メレフから失われてしまった。 ルクスリアはメレフの魅力を致命的に損なうのだ。 もちろん、表立って身を丸めているわけではない。今だって初対面の人間が見れば背筋の伸びた人と認識されることだろう。だが、それはメレフが普段どおりの自分たろうと意識しているからであることが、隣に並ぶジークには分かっていた。それでは駄目だ。無意識でないと駄目なのだ。これっぽっちも自覚されぬまま内側から溢れ出す美しさがそこには決定的に足りないのだ。 太陽の元でこそ活き活きと花開くメレフこそがジークには眩しくて、だから、そんな未来では、意味がなかったのだ。 ジークはひとつ咳払いをした。ゲンブ港に戻り、足元が雪から石畳に変わる。石を積み上げた壁が風を遮り、待機所に戻れば寒さはひと心地つける程度のものになった。廊下の突き当りの食堂にはまだ複数人の気配がある。一度は断ったが、ホムラがまだいるようなら、温かいお茶を貰おうと思った。 クロークを畳むメレフを見て、そうだ、と話そうとしていたことが一つあることを思い出す。「テオスアウレな」メレフがジークを振り返る。「街全体の建築様式が、結構昔のまんまやねん。そういうん、メレフ好きやろ? テオスカルディア――王宮から城下を一望できるテラスがあるんや。せっかくやし案内したるわ。たとえ開国して観光客がぎょうさん押し寄せても、滅多には見られん特等席やで」「ほう、それは……いいな。楽しみだ。礼を言おう」「王宮かてそう悪いもんやないと思う。いや、スペルビアにも負けへんのちゃうかな」「ジーク、それは、私と我が国への挑戦と受け取っても?」「おう、スペルビアに勝てるかもしれへんもんが、ルクスリアにあったと思うとらんかったけど、結構いけると思うで」「よし。それでは、是が非でも案内してもらわねばな。覚えておけよ」 メレフの負けず嫌いを存分に刺激しながら、ジークは哄笑する。 そのときまでにはメレフへ向けるまだかろうじて名前のつかない好意が、下心を廃して正しく友情へ切り取られていることを期待しながら。 太陽の香りがする人だった。あるいは夏を宿して生まれた人。 だからこんな冬の王国に相応しいはずがなかったのだと知ったとき、ジークは途方もなく安堵していた。2018/09/09 [8回]PR