やさしいひと なんというか、持って来られるたびに書類の量に笑ってしまいますね。文字通りの紙の山だ。取り敢えずそこに置いておいてください。サイン済みのものと紛れないようにだけお願いします。 辟易しないこともないですが、愚痴を言っていても始まりません。これでも従姉あねとカグツチと貴方が帰って来てくれてから、私が処理しなければならない案件の割合は減ったのですよ。同時に処理すべきことの絶対量も増えましたが。ですが、精神的に楽です。貴方たちがいてくれる方がやはり。従姉をレックスさんに同道させたのも、コアクリスタルの状態だった貴方を従姉に委ねたのも私の判断ではあるのですが。 でも流石に少々疲れました。昼食にサンドイッチを頂いてから、今何時でしょうか。……三時間四十分。そんなに経っていたのですか。どうりで。いえ、先程からペンを持つ指が痛くて。うん、休憩しますよ。あまり連続で働いても能率が落ちては意味がない。戻ったら従姉にも進言していただけますか? あのひと、私以上に休まないから。 ああ、そうだ。せっかくです。休憩がてら話し相手になってください。貴方の話をしましょう。私が貴方に貴方の過去の記録を見ることを禁じてから、貴方も私に聞きたいことがいくらでもあったでしょうし。でも、今はもう目を通しているでしょう? 貴方の役割。過去の貴方。貴方は歴代の皇帝のブレイドで、歴史の幾つもの場面において、私の祖先を支え続けた。カグツチと同じように。貴方たちはブレイドだから、このスペルビア帝国軍において決まった役割があるわけではありません。貴方たちの優秀さを考えれば指揮官の席くらい差し上げてもいいのですが、貴方たちがコアに戻った時にその席が突然空白になって困るのは兵士達ですのでご容赦を。基本的にはドライバーの補佐が貴方たちのあるべき仕事で、カグツチが分かりやすいですね、従姉の秘書をしている。ただ従姉にはカグツチがいれば充分なので、貴方は私の補佐役に回されましたが。貴方のドライバーでなくて申し訳ない。ただ、こんなでも一応、貴方の前ドライバーです。今更言うのも何ですが、仲良くしてくれると嬉しい。 なぜ貴方の知る権利を奪っていたのかについては、カグツチと貴方で話をしたと聞きました。私の不在で、そこの玉座のすぐ前あたりで。ええ、カグツチ本人から。その時辿り付いた答えでいいと思います。思い切り見当外れなわけではないですし。正確な理由については、少々気恥しいので、また今度でいいですか? 今回は、そうですね、私が貴方を従姉に譲渡した三つの理由、なんてどうでしょうか。 貴方はかつて私のブレイドだった。貴方に記憶はないでしょうが、知識として知っているはずだ。従姉とカグツチから聞いているでしょう? だから私付きになった時も文句を言わなかった。もとよりその心積りが出来ていたから。ふふ、これでもね、ひとの心の内はある程度読めるつもりですよ。そうしないと色んな建前に騙されて誤ってしまいますので。貴方は人間ではないし、表情も読み辛いけれど、それはほら、貴方の前ドライバーとして、これくらいは。 今更もいいところですが、自己紹介から入るのが定石でしょうかね。何のでしょう。まあいいか。 改めまして。私はネフェル・エル・スペルビア。スペルビア帝国の皇帝をやっています。君主としての業績は今のところ、あまり華やかなものはないので割愛させてください。その程度の私の来歴プロフィールは、貴方なら既に把握していることでしょうし。貴方に関係の深いトピックと言えば、貴方の前ドライバーであること、かつて貴方が今の貴方と同じように私の補佐役をしてくれていたこと、そして、貴方の現ドライバーであるメレフ・ラハット特別執権官の従弟おとうとに当たること、くらいでしょうか。補足しておきますと、貴方のドライバーとは血縁上従姉弟の間柄ですが、従姉は幼い頃私の父に養子として引き取られましたので、正式には義理の姉弟になります。何が変わるかと言えば、まあ、あまり変わりないかもしれません。 あとは、そうですね、スペルビア皇帝としては珍しく、私はドライバーではありません。正確に言えば、私はドライバーであることを自らの意志で放棄しています。とある事件の折、一度心停止して、貴方との同調が途切れて以降、私は他のどのコア・クリスタルとも同調を試みていません。誤解しないで欲しいのは、貴方を責めているわけではないのです。私を守ることができなかったとは、どうか自責しないでください。前の貴方は私の命を忠実に果たして、私以外のあの場の全ての人間を守ってくれました。あれは私の無力と無謀が招いた滑稽な悲劇であって、むしろ貴方の記憶を無為に失わせてしまったことを、私の方こそ謝罪させてください。 元々私はドライバーとしての適性はありましたが、資質には欠けていました。父帝陛下が亡くなり、私が帝位を継いで、父のブレイドであった貴方を継承しましたが、私はと言えば貴方が覚えていないことが残念なくらい貴方の力を持て余していた。ドライバーとしての稽古は、従姉が付けてくれたのですが、まあからきしで。カグツチは炎で貴方は水で、反属性なのだから属性相性で言えば有利でも不利でもなかったはずなのに、経験や年齢の差では説明しきれない差が従姉と私にはあった。センスの有無と言い換えていい。主君や家族としての欲目を抜きにしても、従姉はこの帝国スペルビアで、いえ、世界アルストで、当代一、二を争う程の、ドライバーとしての天賦の才を有しているのだから。 従姉はどうでしたか? 世界を救う旅の中で、従姉は貴方の力を十全に引き出してくれたはずだ。従姉について胸を張る貴方を見てもそれは分かる。私には決してできなかったこと。それが為されただけでも、貴方を従姉に譲渡してよかったと心から思える。 もし貴方が勘違いをしているのなら、この場で正しておきましょう。 私が貴方との再びの同調を拒んだのは、全く以て貴方のせいではない。 私が貴方に相応しくなかったのです。スペルビアが誇る貴方というブレイド資源を、無才の私の下で遊ばせておくわけにはいかなかった。 これが、まず一つめの理由。 私についてのことを、何かひとつでも覚えていますか? いえ、詫びなくて結構。それが有り得ないことくらい、私だって分かっている。ブレイドはコアに戻れば、それまでのすべての記憶を失う。子供でも知っている常識です。ただ、世界を救った大いなる奇跡の、そのほんの端っこ、たったひとかけらのおこぼれを私も預かれていないだろうかとくだらない夢をつい見てしまう。だからそんな顔をせずに、むしろ笑い飛ばしてくれたら有難い。 では、従姉やカグツチから、私についてのことをどれだけ聞きましたか? 私は貴方に過去の記録を閲覧することを禁じていましたが、彼女たちが貴方に話す内容は何も干渉しませんでしたし、指示のひとつだって出しませんでした。彼女たちに私がどう見られてどう思われているのか、仔細を聞くのは少々恐ろしいので、話していただかなくて結構ですが、再会――いえ、失礼。出会った時、貴方は真っ直ぐな敬意で私に膝を折ってくれましたので、良いように話してくれていたのでしょう。実物はどうですか? 期待を裏切っていなければ良いのですが。 実は貴方に忘れられるのは、これが二度目になる。 先程説明した通り、貴方はかつて私の父のブレイドだった。二代前の貴方だ。父は私とは違い、と言っても私が異例イレギュラーなのですが、亡くなるまで貴方のドライバーだったから、当然私は父のブレイドだった時代の貴方とも会っている。偉大なる父の大きな背と、父に付き従い泰然と立つ貴方の姿をよく覚えています。父は忙しく、父親と子どもとしての時間はあまり持てませんでしたが、代わりに頻繁に貴方を寄越して私の様子を窺っていました。私は貴方を通して父の愛を確認し、父は貴方を通して私の成長を知った。物心付く前に母が亡くなってから、私たちは貴方を通して家族として成り立っていた。勿論、貴方本人にも可愛がってもらいましたよ。モッテコラ人形をね、ああ、今の貴方も集めているのですか? そういうところは変わらないのですね。少し安心します。そのモッテコラ人形を、貴方から幾つか頂きました。私の部屋にまだ飾っています。暇な時にでも見に来たらいい。 貴方が私のブレイドになった時、貴方はそれらの記憶を全て失っていた。 貴方と同調して、貴方が私に初めましてと言った時、恥ずかしながら、私は泣いてしまったのです。五年ほど前のことです。私が10歳で皇位を継いで数ヶ月経った同調式の場で。従姉とカグツチのフォローで式そのものはどうにか終わり、貴方も私の様子について説明を受けたらしいが、彼女たちがいなければどうなっていたことか。 あの時私は、貴方のドライバーになれば、再び父に会えると思っていたのです。貴方を通して見ていた父を、その幻影を、また貴方に求めようとして、そして、中継点ハブとしての貴方が諸共に失われていたことに、私は私のブレイドであった貴方に出会って初めて気付いた。父親と、父親代わりが一度に消えて、新しい父親代わりが現れた。 そうですよ、貴方は私のブレイドで臣下でしたが、私は貴方を父親のように思っていた。従姉がカグツチを姉のように慕っていたのと同じように。 そしてこれが、貴方を従姉に譲渡した二つめの理由になります。 何のことはない、私は恐ろしくて仕方なかった。私を忘れた貴方を、再び私のブレイドとして受け入れる自信がまるでなかった。以前は、父のブレイドから私のブレイドになったのだから、それまでの記憶を失っていて当然だ、と、自分に言い聞かせることで、貴方の、父のブレイドだった貴方の喪失をどうにか受け入れたのですが、今度は違う。私のブレイドだった貴方が同じく私のブレイドとして、けれどそれまでの全てを忘れて新しい貴方として私の目の前に現れた時、私はその二人の貴方を別個の貴方として認識する自身が全くなかった。私は貴方と貴方を混同して、私の良く知る貴方を、面影どころではなく重なる貴方に貼り合わせて同一視するに決まっていた。貴方が失った貴方の言葉を貴方の中に探し、ひどければなぜ忘れたのだと癇癪を起こしたかもしれません。悪いのは貴方ではなく完全に私であり、全てが私の責任であるに関わらず。 その程度にはね、私だって私のブレイドだった貴方のことが大切だったのです。 今こうして話が出来るのだって、貴方が従姉のブレイドでいてくれているからだ。貴方はもう私のブレイドではなくて従姉のブレイドだから、私のことを忘れていて当然だ。うん、完璧な理屈ロジックです。明瞭だ。 それでもなお私が私のブレイドだった貴方と従姉のブレイドである貴方を重ねようとしてしまったら、遠慮なく指摘してください。命令と受け取ってもらっても、お願いと認識してもらっても、どちらでも構いません。私が従姉のブレイドである貴方の記憶にない、私のブレイドだった貴方の思い出話を始めようものなら、一言告げていただきたい。「私のドライバーはメレフだ」とね。 物言いが冗長で申し訳ない。私はいまこの瞬間も私のブレイドだった貴方と従姉のブレイドである貴方を重ねないよう結構必死なのです。いちいち言葉にすることで私の中の貴方と今目の前にいる貴方を分離しているのだと理解していただければ有難い。 そして最後にもう一つ、私が貴方のドライバーであることを辞めた理由。……その前に、この場に誰もいないことを再度確認願えませんか。これは、ちょっとね。人に聞かれると、だいぶまずい。従姉やカグツチにさえも、だ。これはね、ワダツミ。かつて私のブレイドだった、そして今は従姉のブレイドである、貴方にしか言えないことなのです。あとは、そうだな、遠い遠い未来に、カグツチが従姉のブレイドでなくなったら、その時まで私が生きていたら、次の彼女には言えるかもしれませんが、まあそういう類のものだ。法王庁アーケディアが墜ちて以降、こういう懺悔がどこにもできない。いえ、アーケディアがあったとしても、言えはしないのですが。私のブレイドだった貴方にならかろうじて言えたかな。だから、かつて私のブレイドだった、そしていま私のブレイドではなくなって、けれど私の側付きになった貴方になら言えるし、それに、貴方にはこの告白を知る権利がある。 大丈夫そうですか? うん、よかった。 繰り返しますが、貴方は父帝陛下のブレイドだった。祖父のブレイドはカグツチで、曽祖父はまた貴方だった。スペルビア皇室の歴史は、カグツチと貴方のドライバーの歴史と言い換えることが出来る。スペルビア初代皇帝エフィム。雲海の果てに新天地を目指した長い旅の終着点で、そのひとはスペルビアの巨神獣アルスを発見し、降り立った。記録に残る限りの、最初のカグツチのドライバーです。その旅の道連れだったクレタスのブレイドだった貴方は、病気か、無理のし過ぎか、当時のスペルビアの過酷な環境に耐えられなかったのか、とにかく、惜しくも早逝したクレタスから、エフィムの息子へ受け継がれた。以降、貴方たちは交互に歴代の皇帝に継承されている。 その歴史から鑑みれば、この現在は異常と言っていい。まずカグツチが、血筋で言えば傍系に当たる、しかも女性に、同調していること。貴方とカグツチが、同じドライバーのブレイドであること。臣下たる従姉が貴方たち二人を従えている一方で、皇帝たる私がもはやドライバーではないこと。 従姉の生い立ちは知っていますね。当時の皇弟ヘンドリクス公、従姉の実父で、つまり私の叔父が、物心つく前の従姉を遺して亡くなり、皇位継承者に相応しい男性を失った皇室は、従姉を引き取り、男として、皇子として、次期皇帝として育てた。カグツチとも同調し順調に皇位継承者として成長した従姉は、私の誕生によりめでたく玉座を取り上げられた。 私は従姉の生きる意味を奪って生まれてきました。 従姉に貴方を渡した日も、こんな話をしました。あの玉座。このスペルビアで、最も高い位置にあるあの椅子。本来ならば従姉のものだった。私が生まれて来さえしなければ。あるいはこのスペルビア皇室が、男子継承などという慣例を持っていなければ。従姉は為政者として充分な教育を受けていましたし、ドライバーとしての才も折り紙付きだ。機械技術や戦術への造詣も深い。この軍事国家を統べるに足る資質を、従姉は存分に有していた。私はただ、血のみによって従姉からこの帝国くにを簒奪したのです。 特別執権官としての従姉の手腕をご存知ですか? 特別執権官。父が死の間際、私に皇統を譲ると同時に、従姉のために新たにあつらえた地位。幼い私を補佐し、スペルビアを導くために、通常の執権職よりも遥かに強い、殆ど皇帝同等と言っていい権限を従姉は預けられています。従姉はその気になればいくらでもこの国を牛耳れる。私を傀儡にする必要すらなく。従姉はただ私を教育しないだけで良かった。従姉がいれば私は無知で無能な皇帝でも誰も困らなかった。私を操りたい一部の議員や貴族は困ったかもしませんが、それはいまも一緒ですね。従姉が私を強固に守ってくれたから、彼らは私に干渉できず、権力を私から奪えなかった。そのせいで従姉は敵が多い。私が従姉の多くの敵を作ったと言っていい。まあ、その話は一旦置いておきましょう。とにかく、従姉は自分から玉座を奪った私から、逆にスペルビアの統治を取り上げることが出来た。けれど従姉はそれをしなかった。それどころか従姉は心から、私が佳き皇帝になることを望みました。従姉は従姉の受けた教育と持ち得る知識を全て私に伝えてくれた。皇帝としての判断と責任と知識と振る舞いとその他色々なことを従姉と、私のブレイドだった貴方に教えられて、私は傀儡やお飾りではない一人の皇帝としてこうして立てるようになりました。 それでも私の奥底で渦巻く従姉への罪悪感と劣等感コンプレックスは、私より従姉の方があの玉座に相応しいとずっと思っていた。 貴方のことだ。そろそろ察しているのでしょう? 私は、歴代皇帝のブレイドであるカグツチを既に有する従姉に、同じく歴代皇帝のブレイドである貴方を同時に同調させることによって、あの玉座を従姉に返したかった。 どこかで望んでいたのです。カグツチ、あるいは貴方のドライバーであること。歴代の皇帝陛下が前提のように有していたその事実。私がドライバーでなくなって、従姉が貴方とカグツチのドライバーであるなら、そしてまた、従姉がこの世界を救う英雄の一人になったなら、その時こそ、真に従姉の方がスペルビア皇帝に相応しいと、誰かが主張してくれるのではないかと。正当な理由で、正式な手順で、従姉に皇位を返せるのではないかと。もっとも、目論見は外れて、誰もそんなことは言ってくれませんでしたが。当然、従姉本人もね。血や性別というのは、私が思っていたより重要な要素ファクターのようだ。 ははは、ほら、こんなこと誰にも言えない。貴方にしか。ほんとうは貴方にも告げてはいけないのかもしれない。私は心のどこかでまだ、貴方を私のブレイドだった貴方と混同しているのかもしれない。 なぜそんな顔をするのです? 叱らないのですか? 私は一国を統べる者として、相当に私情を挟み込んだ判断をしたのですよ? どうしてそんなに言葉に迷っているのですか? ……うん、やはり、そうだ。思っていた通り。 もう少し、私の話に付き合っていただけますか。 いまの話の続きです。あるいは否定と言っていい。 いましがた貴方に教えた三つめの理由、最近になって私は、それが間違いだったと気付いたのです。もっと言えば、たったいま、間違いであった確証を得ました。それでも、一つめと二つめの理由によって、貴方が従姉のブレイドでいるべき妥当性と正統性は担保され続けるのですけれど。 その書類。貴方が持ってきてくれたものに紛れてしまっているかな。どれだったかな、署名サインが必要なものではなくて、ただの報告書だったのですが。ああそうだ、それ、貴方が今左手に触れている、その書類の二つ下。グーラ人の写真が挟まれている。それです。内容に心当たりがあるでしょう。半月ほど前、貴方が従姉と共に鎮圧した、グーラ領における反乱についてです。その前段階にあったものを事前に火消ししていただいたと表現した方が正しいでしょうか。軍は殆ど出動せずに済みましたね。貴方たちのおかげです。ここで改めて、礼を言わせてください。 レックスさんや従姉や貴方の活躍によって世界は変わり、終末こそが終わって世界は新しく開けた。再編された世界で、私たちは楽園を手にした。豊かな豊饒の大地。新大陸の調査団によれば中には痩せた地もあるそうですが、まあ環境の一言で済む範囲でしょう。硬く足元に安定して、沈むことはない。それを縁取るのは雲海よりも多くの水棲生物が住まう水の海だ。激動し変転した世界の中で、新たな世界に適応するため、我がスペルビアは現在インヴィディアと手を結んでいる。まだ表面的なものであるにせよ、いがみ合ってばかりだった二国が、です。ルクスリアとの国交も良好。そういえば、これは私の業績になってしまうのかな。完全に従姉のお土産でしかないのですが。 まあとにかく、スペルビアは、そしておそらくは世界も、良い方向に変わろうとしていて、けれど、変化に取り残された者たちは確かにいる。拒んだ者も。法王庁アーケディアのマルベーニ聖王も、その一人だったと聞きました。 そういう人たちの名前。その書類にも、書いてあるでしょう。未遂で終わったテロの実行犯。アントン、ロヴィー、メンノ、ヴィム……。既に変化を終えた世界で、その変化を旧来通りの事件の一つとしてしか認識できず、混乱に乗じてスペルビアに反旗を翻そうとした。共に変わっていかなければならない世界で、自分たちだけが変わろうとして、そして従姉の手で防がれた。これから変わっていく世界の不穏分子、地図の染み、書く価値のなくなった歴史、そういうものとして。 少し、昔の話をさせてください。 とある夏。まだ皇帝でない私とまだ特別執権官でない従姉が、まだただの姉弟だったころ。グーラの避暑地で、主に私の発案で少々やんちゃをしまして。詳しくはカグツチにでも聞いてください。あの頃彼女は既に従姉のブレイドで私たちの面倒を纏めて見てくれていましたので、よく知っているはずです。私と従姉が別荘を抜け出して彼女や侍従たちを大騒ぎさせた事件も、それ以降ちょくちょく現地の子どもたちに混じって、勿論私たちがスペルビア皇族だということは伏せた上でですが、あの太陽にきらきらと輝いていた深緑の草原で遊んでいたことも。 その中にね。うん。いたんですよ。彼ら。同じように子どもで。世界のことも未来のことも何も知らなくて。泥だらけになって、一緒に。特別親しくなったわけではなかった。あの時遊んでくれた近隣の村の子の、その一部に過ぎなかった。でもね。冒険に行きました。洞窟に。なんだったかな。確か、珍しい石があるとか言って。ジレンマロックか何かを探しに。私が一番年下で。怖くて半泣きの私が従姉にしがみついているのを彼らはからかってきた。でも従姉が一番年上で、且つドライバーだったから、従姉が一睨みしたら逃げるような。そんな子たちだった。 昔の話です。私も、思い出すことさえ忘れていた。 従姉は、その報告を私に上げることを躊躇していました。私が何かの話のついでに報告を催促するまで、従姉の口からこの件は出なかった。あの従姉が、ですよ? 「陛下のお時間を取らせるような件でもありませんでした」なんて言って。まあそうなんですけどね。反乱が起こりかけた、特別執権官の手によりあらかじめ鎮圧された。その事実があれば私には充分で、事の仔細を知る必要はなかった。けれど、従姉の様子が気になって、皇帝の名を以て命じました。そうすると従姉も報告しないわけにはいかないでしょう。ただ、報告を受けたその時、私はなぜ従姉がこの件を隠そうとしたのか分からなかった。従姉が私を気遣うような顔をしていた理由も、本当に何のこともなくて拍子抜けした私を見てどこか安堵していた理由も、その従姉の横でカグツチが、あの美貌に乗せていた憂いの色をそっと消して、音もなく息を吐いた理由も。四日経って彼らのことを思い出しました。それでやっと繋がった。 現場で、従姉はそのことに気付いていましたか? 少なくとも貴方の目には普段通りの従姉だったのでしょうね。だったら従姉も、取り押さえてから知ったのかな。どちらにせよ、従姉は知ってしまった冷徹な事実を私から遠ざけようとした。 従姉はね、私が傷つくと思ったんです。幼い頃、ほんの一時とはいえ共に遊んだ、友達だった、彼らがテロの実行犯で、私と従姉は彼らを罰する立場にいて。未遂であったし、取り押さえる従姉にも従姉が率いた小隊にもさしたる被害は出なかったと聞くから、死刑にはならないとは思うのですが。でも、見せしめに一人くらい、もしかしたら。その判断は私ではなくて司法ですけど、もしそうなったとき、執行の手続書にサインをするのは私か従姉で。その時にその仕事を私からあらかじめ取り上げておくために、従姉はこの件を私に伝えたくなかった。従姉が知っていて、従姉が片付ければ終わるから。特別執権官あねにはその権限があるから。 でも、正直に言いますね、私は、さして傷つきはしなかった。 ああそんな子たちがいたなと。そんな思い出があって、懐かしいなと。こうなってしまったことを、寂しいとは感じましたけれど。でも、仕方がない。うん、だって、私はスペルビア皇帝で、この国と民を守る立場にあって、彼らはそれを脅かした。それが事実だから。 その結論に至った自分を、私は私の内側から冷静に観察していました。そこに感情はなかった。私を納得させるに足る理屈だけがあった。私はそれで、現実を呑み込めてしまえた。従姉が心配したような傷を一切抱えることなく。 同時に気付いたのです。 私は従姉が思うより、そして従姉より、優しくない。 守るということは、切り捨てることと表裏一体だ。 自国の為に、敵国を。我が帝国民のために、他国民を。五人を助けるために一人を。百人を生かすために五人を。その判断によって踏み躙った数多の命を意志を、生涯に渡り背負い続けること。それこそが皇帝たるものの唯一絶対の責務であると、教えてくれたのは私のブレイドだった貴方でした。 私にはその資質がある。ドライバーとしての才は、足りなかったけれど。 傷つかずに切り捨てられる。正しいことの為に。 幼い日の思い出を割り切れる。理屈が通ってさえいれば。 私は、きっと、もう何年も前に、たった一夏、それでも友達だった、彼らの死刑執行書に真顔でサインができる。 どうして貴方がそのような顔をするのでしょうね。慰めの言葉を探してくれているのですか? あるいは否定? 不思議だ。私の知る貴方なら、私のブレイドだった貴方なら、よく成長なさったとこの私を褒めてくれるはずなのに。それでよいのですネフェル様、と。それこそが皇帝たるお人としての正しい姿です、と。貴方はね。前の貴方は。そんなブレイドだった。厳しくて正しくて。正論ばかりでよく泣かされました。ワダツミなんか嫌いですとべそをかく私に、嫌いで結構、それでもいいからご理解くださいと重ねて説教をするような。ふふ、何ですか、その顔は。ひとつ前の自分がそんなに信じられませんか? でもね、うん、ほんとうに。前の貴方は。私のブレイドだった貴方は。嫌いだなんて言いながら、私が好きだった、私の貴方は、そんなブレイドだったのですよ。 ひとつ前の貴方と、いまの貴方の、その違いこそが、私と従姉の違いなのでしょう。 貴方が私のブレイドだった頃、私は従姉が羨ましかった。優しいカグツチをブレイドに持つ従姉が。ワダツミは厳しいばかりなのにといつも思っていた。けれど、貴方をそうさせたのは、きっと私だったのです。正しくありたいと思った私の願いが、あるいは、従姉ほど優しくはない私の本質が、優しいカグツチと厳しい貴方という対比を作り上げた。なぜなら従姉のブレイドである今の貴方は、私のブレイドだった貴方より優しいから。 優しさと正しさは二律背反トレードオフだ。私は従姉より優しくない分、従姉より自然に正しく在れる。勘違いしないでくださいね。従姉が正しくないとは決して言わない。軍人として、為政者として、まだ甘さや我儘の残る私より、従姉は間違えずに正しい。でもね、優しくて正しい従姉の、その両立による歪みは、従姉を傷つける。従姉は、遠き日の友人を検挙したことに対して私が傷つくことを恐れた。自分が傷ついたから、私もそうだと信じた。私も従姉と同じだけ優しいと勘違いして。 だから今は、こう思っているんです。 私が帝位を継いでよかった、と。 もしあの玉座が予定通り従姉のものになっていたら、従姉はきっと傷つき続けた。あるいは痛みに耐えきれず、あの美しい優しさをどこかで捨て去ってしまった。そんな気がするのです。 私は従姉より優しくない。 その一点のみにおいて、そしてその一点のみによって、きっと従姉より私の方が、皇帝に相応しい資質を持って生まれてきた。 私はさして傷つかず、正しく在り続けることが出来ると思います。私はこれからの私の治世を、それなりに佳いものにしてみせる自信がありますよ。勿論、従姉や貴方を始めとした臣下が私を支えてくれて、私が貴方たちに恥じぬ君主であろうと思えているからこそ、ですけれど。 ここまで話してしまったんだ、邪推される前に、いっそのこと、もうひとつだけ、貴方に秘密を打ち明けておきましょう。以前ドライバーとブレイドだった者同士のよしみとでも受け取ってもらえればいい。 私は従姉に憧れています。 単なる憧憬ではなく、もう少し身勝手で邪で人間的な感情が付随していると思ってくださって全く構いません。 全てを奪った私に心から尽くしてくれる不器用さが。私の言葉を全て受け入れてくれる少し危うい素直さが。優しくない私を優しいと信じてくれるあの底無しの優しさが。愛しくて、守りたくて、保ちたくて仕方がない。 本人に告げるつもりはありません。幸いなことに、おそらく気付かれてもいないでしょう。カグツチはどうだろうなあ、彼女の観察眼は鋭いから。でも彼女なら、悟ったとしても、同時に私が従姉にこの感情を知られたくないと思っていることも分かってくれるはずだから、まあいいでしょう。 不思議そうな顔をしていますね。単純な話ですよ。私と従姉が結ばれることを、このスペルビアの法は許さないのです。まず書類上姉弟だ。義理ですけど。そしてよしんばそれを破棄できたとして、従姉弟という血縁関係が残る。この国は従姉弟の婚姻を認めてはいません。皇室の家系図を見れば、この程度の近親婚いくらでも前例はあるのですが。むしろ貴方やカグツチとの同調適性を保つため、皇室はある程度意識的に近親婚を繰り返してきました。そのせいで少々血が濃くなりすぎていましてね。従姉を男として育てなければならないほど後継者がいなくなったのもその影響でして。皇室の血を引く、ある程度直系に近い男児くらいいたのですよ。ただ、少々障害が。あるいは、大人になれなかったり。行き詰りかけた血を打開するため、何代か前に、スペルビア全土を巻き込んで四親等、要するに従姉弟までの婚姻が禁じられました。その甲斐あってか、偶然か、私も従姉もある程度血が薄れていて、健康そのものだ。これからも、よそから血を取り込んで、皇室は無事続いていくでしょう。私が努力する必要は大いにありますが。だから、それを考えれば、私と従姉が結ばれないことくらい、安い代償だ。お釣りがくるくらい。何と言っても、従姉の方は私のことを可愛い従弟としてしか認識していないわけですし。最初に言ったでしょう、義姉弟でも従姉弟でもあまり変わりがないと。こういう個人的事情です。 手には入らないけれど、その分どうか幸せにと、私は本気で願っています。けれどそれとは別のところで、私は従姉を、政治の道具にできるでしょう。従姉を、愛しい人ではなく、優れた軍人ではなく、凄腕のドライバーではなく、ただの皇女として使い潰す選択を、それが最善手であるなら、きっと私は選べる。スペルビア帝国内において繋がりの深い家を増やすために。インヴィディア烈王国との和平の一環として。グーラ領の支配をより強固にするために。ルクスリア王国との新たな関係の礎として。その時私は玉座に在って初めて傷つくんだ。正しさと身勝手の狭間で。けれどそこで私を切り刻もうとするのは優しさではないのですよ。私のものにならないなら、それを望めないなら、誰のものにもせずにただ臣下として私の傍に置いておきたいこの我儘エゴだけが私に牙を立てる。 うん、ほんとうに。 法が私の恋を禁じてくれていて良かった。 あの優しいひとと、この優しくない私を、絶対的に隔ててくれる。 その分だけ正しい私は、そこに引かれた一線を決して超えない。 少々話しすぎましたね。そろそろ仕事を再開しますか。次の書類の束が来るまでにある程度これらを崩さないと、紙の中で溺れてしまう羽目になる。 そうだ、釘を刺すまでもないとは思いますが、いましがたの話は全体的に内密に。とりわけ、従姉とカグツチには。とは言っても、貴方は従姉のブレイドだから、従姉が具体的に指示をして請うたその時は、喋ってしまっても怒りはしませんが。でも、私は貴方のポーカーフェイスを我が国自慢の巨神獣兵器群より信頼しているのですよ。なにせ私は、貴方が父のブレイドだった頃から貴方にノポンチェスやカーストポーカーで勝ったことがないのです。今度やってみますか? たぶんまた負けると思うなあ。従姉と勝負しても、おそらく勝ち逃げしているでしょう、貴方の方が。それで従姉がいつもの負けず嫌いでリベンジするんだ。目に浮かびます。 これはスペルビア皇帝としてではなくて、貴方の前ドライバーとしてのお願いです。私との全てを忘れてしまった今の貴方が、それでも私との間に、絆とか縁とかそういった類のものを、ほんの少しでも覚えてくださるのであれば。 あの優しい心を、こんな私のために無意味に傷つけてしまわないように。 どうか、よろしくお願いします。 2018/05/06 [3回]PR