溺愛 ノックを軽く一度だけ。ドアはスペルビアでは到底手に入らないような重厚な木製の一枚板で、部屋の主人の身分の高さをこの段階で明らかにする。当然だ、スペルビア帝国特別執権官兼第一皇女殿下の居室である。返事はない。あらかじめ許可されているので30秒ほど待ってから入る。不必要に音を立てることはせず優雅に。それを成せる程度には来訪者の立ち居振る舞いも洗練されている。 ワインレッドの布張りソファにぐったりと身を預けていたメレフが視線だけを投げて寄越す。首をかしげる会釈でそれを受け止めて、カグツチは傍に歩み寄り、その下のタイを緩めたのみで未だ堅固に纏っている軍服のボタンをひとつ、ふたつと外していく。 「きちんとベッドでお休みにならないと、お風邪を召されますよ。お化粧も落としませんと」「うん。……カグツチ、疲れた」「はい、お疲れ様です」 目を閉じたままされるがままのメレフから軍服の上着を脱がせて衣装掛けに吊るす。傍らに放り投げられていた軍帽も型崩れしないように。「湯を張らせていますから、よく温まってくださいね。明日のことは私の方で全て支度しておきますので、あとはお休みになって頂いて結構ですよ」 手を取って立ち上がらせる。バスルームに誘導して、侍女に引き渡して、その間に諸々の準備をと段取りのパズルをぱちぱち嵌めていたカグツチに、メレフは緩く首を振る。「明日。午前中の予定が飛んだ。先方の都合で」「承知いたしました。では、明日は少々のんびりして頂けますね。朝食も予定より遅らせましょうか」「そうしてくれ。だが、それより」 ドアノブに左手を掛けたカグツチの、右手をメレフは控えめに引く。同じ位置にある目線で、しかし見上げるように見つめられたと感じるのは、幼い頃から言い訳のしようもなく個人的な要望を伝えたい時の主人の癖だ。 「甘やかしてくれ」 要するにそういう気分の時。「ご所望は?」「とびきり」 カグツチは基本的にメレフを全肯定する姿勢だが、その命令に他の言葉で返したことはない。 深く微笑む。「承知いたしました」 世俗的な形容をするならば長女気質とでも呼ばれるのだろうか。メレフは人に甘えることが下手だ。立場と矜持が彼女の内外からそれを許さなかったゆえであることは想像に難くないが、幼い時分からそんな彼女を全力で直球に甘やかしてきたカグツチは、メレフが疲れ切った時、全身で寄りかかられる特権を頂いている。 今晩のメレフのスケジュールは元老院におけるとある一派との会食だった。開戦派で保守派で、男は政治に女は家にといった旧来然の価値観に重きを置き、皇帝陛下は幼く自分たちの庇護という名の教育が必要と考えている、端的に言ってメレフの政敵。二時間に及ぶ会食で何があったかカグツチは知らない。カグツチはメレフのブレイドで従者で秘書だが、政治――国を治める政まつりごとではなく、比喩表現としての側面を強く持つ政治――要するに権力争い――の渦中からは一歩遠ざけられている。メレフに意見を求められることもあるし、カグツチの言葉がメレフの決断を後押しするはことはままあるものの、策謀渦巻く伏魔殿には来ないで欲しいというのがメレフの意向で、だから今晩も大人しく彼女の帰りを待っていた。ブレイドであるこの身が人間の政治に関わる権利を持たないというのは対外的な理由で、カグツチに見られたくない自分がメレフにあるのだろうとカグツチは考えている。メレフがそれを望むなら、メレフの精神が摩耗しきらない限りにおいて、カグツチの側に否やはない。 ひとまずは明日朝の予定を調整し直して、メレフが上がるのを見計らいブランデー入りのホットチョコットを用意する。料理は食べる専門であるが、飲み物については歴代の自分と比べてもなかなかの腕になったと自画自賛している。 湯上りの世話は侍女に一任してあるが、帰ってきたメレフは髪から雫を垂らしていた。侍女が手を抜くわけがないのでメレフが触るなと命じたに決まっていて、なぜ人の仕事を奪う命を下すかといえばカグツチにさせたい我儘だ。予期して用意していた新しいタオルで何も言わずに水気を取る。「スキンケアは?」「任せる」 もうメレフは自分のために動くつもりが皆無らしい。くすくす笑って、ドレッサーの前に案内する予定をソファに変更する。ケープを余分に一枚持ってきて肩に掛けてやってからドレッサーに置いていた基礎化粧品一式をローテーブルの上に広げる。先日封を開けたばかりのもちもち化粧水をたっぷりとコットンに含ませて、火照る顔にパッティングした。同じようにして乳液も。メレフは気持ちよさそうに目を閉じている。 指先やデコルテまでボディクリームを馴染ませ、髪に巻いていたタオルをほどく。先程のホットチョコットを手渡し、飲んでいる間に髪の世話をする。コームで丁寧に梳いてから、ヘアオイルを馴染ませた手で濡れ羽の黒髪を撫で付けた。炎のエーテルエネルギーを変換し調整した熱が髪の含む水分を奪っていく。失敗は許されずそれなりに繊細さと根気を要する作業であるが、肩の力を抜き切ってメレフが身を預けてくる、この時間がカグツチは好きだった。「今日は」「はい」「特別疲れた」「……はい」「私が邪魔なのはいい。私の権力が欲しいのは分かる。あわよくば利用できる部分だけ利用したいのもよく理解できる。だから、もう面倒だ、いっそ真正面からそう言えばいい、受けて立って叩き斬ってやる」 珍しく吐き出された愚痴は具体性に欠けて投げやりで品がいい。メレフは自身が攻撃された程度では罵倒も雑言も決して言葉にしない。むしろ物言いから察するに、いっそ攻撃してくれば反撃できるのにという御行儀良い発想をしている。この二人きりの部屋で愚痴なら愚痴らしく思い切り空想上の仮想敵に宣戦布告を伴わない個人攻撃を仕掛ければストレスも減るだろうにとカグツチは思う。その折には喜んで悪口の掃き溜めになる所存である。 現実にはその役目を頂けそうもないので、カグツチは黒髪が完全に水気を失ったのを確認するとそれを束ねて慣れた手つきで一つに纏めた。部屋の光量を間接照明だけに落とし、メレフの左隣に腰を下ろす。コームを置いたその手でマッサージオイルを手に取る。メレフの手を預かって、ヒートオレンジの香りを擦り込むように指を動かす。手の甲で撫で付けるように円を描き、指の一本一本を優しく引っ張り、きめ細やかなてのひらへ親指を押しつける。特に親指の付け根の張りを入念にほぐす。左手を終えたところでメレフは既にうつらうつらと船を漕いでおり、自身に寄りかからせて右手に移る。 メレフの呼吸をすぐ傍で聞く。その中に紛れて、肌と肌が擦れ合う音とも言えない音。「お前には理解しがたいだろうが」 現から半分解脱に成功した声が脈絡もなく言う。先の愚痴の続きだと認識するのに四秒要した。「人間はな。自分が自分であると認識し確認し証明するのに、権力を求める習性がある。歳を取るほどそれは加速する。男性の方が顕著かな」 鑢やすりを手に取り薄桃色の爪の白く伸びた箇所を削る。細かく生じる粉をハンカチで綺麗に拭いながら短く整えた爪の先に完璧な角度のカーブを描いていく。 ブレイドであるカグツチにとって、人間が帰属意識アイデンティティと存在証明レゾンデートルに躍起になる姿はメレフの言う通り理解の範疇外にある。ブレイドにはブレイドなりの自己同一性アイデンティティの揺らぎがあるが、ブレイドが人間を理解しきれないのと同程度に、人間は理解できないししなくていい悩みだ。ひとまず確かなこととして、ブレイドは意識が生まれ落ちた瞬間から居場所と存在理由がドライバーに定められてその通りに生きる。話をカグツチに狭く特定しても、過去の日記と現在頂くドライバーさえあればカグツチはカグツチを保っていられる。暫定的に、という注釈は、おそらく必要になるけれど。「だが、まあ、お前がいてくれて、私自身が望んでいるのと同じ私をお前が望んでくれるなら、私はそういうものにならずに済む気がする。お前にふさわしい私でいることが、私を私たらしめるのだと思う。先の場で話を聞き流しながら、そんなことを考えていた」「光栄です」 紙鑢で爪表面を磨き上げ仕上げにクリームを塗り付ける。柔らかな布で馴染ませると鏡面のように光を弾き始める。出来上がりに満足し、諸々の道具を手早く片付けた。 凭れ掛かるメレフの背を軽く叩き、立ち上がるよう促す。幼い頃のように抱え上げて寝台に運んで差し上げることは、残念ながら流石にもうできない。メレフは素直に従った。 ベッドまで十歩に満たない。後はメレフを毛布に潜らせ、額に一つキスをさせて貰って、おやすみなさいと就寝の挨拶、間接照明のスイッチを切って部屋を後にする、予定だったのだが、ベッドに腰を下ろすまでは大人しく誘導されたメレフは、甘える子供のようにカグツチの腰にしがみつき、困惑したカグツチ諸共に背中からぴんと張られたシーツに倒れこむ。自然バランスを崩したカグツチは、小さな悲鳴とともにメレフにのし掛かった。弁明させて貰えば、その体制を主人に強要された。「……メレフ様」「明日朝の予定は飛んだんだったな」 カグツチの抗議を受け流してメレフは笑う。見詰める瞳が眠気から既に溶けかけている。「つまり今夜は多少夜更かししても問題がないということだ」「駄目ですよ。お疲れではありませんか」「大丈夫だ」 頬を撫でる程度で満足して貰えないかと思ったが、その頬を擦り付けられて逆効果を知る。その安心しきった表情は、スペルビア特別執権官ではなく、炎の輝公子でもなく、一人の人間、ただの女性としてのメレフが有するものだ。こんな顔を晒せる相手がカグツチ以外にいないから、メレフはほんの時折今夜のように、信じられないほど甘えたがりになる。普段はカグツチを気遣うばかりで要望を小出しにできないところが甘え下手を如実に証明しているが、こうなるとカグツチは自分でもびっくりするくらい嬉しくなってしまって良識が容易く蓋される。「お前に触れて貰ったら、ちゃんと起きる」「まあ」 カグツチは口を尖らせた。「どこで覚えたのです? そのような誘い方」「さあ。どこだと思う」「他の誰かと言うのなら、私は其の某殿を嫉妬の炎で燃やしてしまいかねませんわ」「帝国の宝珠は恐ろしいな」 首の後ろに手が回り、笑いながら唇が触れた。リップのパックを忘れたことに思い至ったが、どうせこうなるならしなくてよかったとただの忘却の結果を正当化する。眠ってしまわれたらその時点で切り上げようと決めて舌を絡め、夜着の下に手を這わせた。 誘ってきただけあって、身じろぎ始めるまで早かった。合わせた唇の隙間からくぐもった声が溢れる。普段なら息継ぎを許すタイミングで更に深く貪り、予想を外した痩躯が息苦しさにもがくのを押さえつけてもっと深く。いいだけ翻弄してやっと離す。はー、はー、と大きく上下する胸はまだはだけてさえいない。眦に浮かびかけた涙を親指の先で優しく拭い、唇に抗議の気配を感じてまた噛み付いた。蹂躙はしない。激しくもしない。柔らかく頭を撫でて、それでも怯えるようなら触れるだけに加減する。余裕が見えたら再び絡める。今夜の趣向はこれで行こうと決めた。この凛々しい主人が、ブレイドで、従者で、自分の言うことを何でも聞いてくれるはずのカグツチにいいようにあしらわれて震えることに倒錯した歓びを覚える質であることを知っていた。自覚があるのかどうかについては定かではない。上顎の裏を舐めて、鎖骨の窪みをつい…と撫ぜて、しがみつかれたその隙にボタンを外して胸の頂きをいじめて、上がるはずだったその全ての悲鳴と矯正をひたすら飲み込んだ。くぐもった呼吸だけが皺を増やしていくシーツに落ちていた。ベッドにきちんと寝かせ直してくすぐった。太腿をその場所に押し付けてみたら、もどかしそうに腰が揺れた。自分に翻弄されるばかりのメレフを見て背中がぞくぞくと粟立つ程度にはカグツチもまた倒錯していた。自覚はある。相性が良くて結構だと開き直っている。何と言ってもカグツチは従者サーヴァントで、メレフは主人マスターなわけだし。「ぁ、…か、カグツチ……」 息継ぎの合間に響いた溶けた呼びかけを無視してまた食った。ねえメレフ様。代わりに胸中で呼びかけ返す。脇を、臍を、内股をさすり、撫でながら。この戯れも、結構不毛だと思いません? 人間とブレイドで、極め付けに同性で。勿論あなたに望んで頂けるなら、私は何だってしますけれど。もしもあなたに本気で拒絶されたら、私はきっと3日くらい全霊で拗ねてしまうに違いないのですけれど。 私の思うあなたでいてくださると仰って頂きましたけれどね、メレフ様。 私はあなたが思うよりは身勝手にあなたを愛しているのですよ、それでよいのですか? メレフが固く閉じていた目を開く。至近距離で、視線が交わる。何かが伝わったかのように。動揺のままに放置していた急所に触れた。線の細い肩が大袈裟に跳ねる。背中にしがみついた細腕の緊張具合から長くは持たないと判断してそのまま責め立てる。先ほど綺麗に削った甲斐あって引っ掻かれても痛くはない。そんなつもりでケアしたわけではなかったが。 小刻みに震えるばかりの右手が、上手く動かないながらに一度、カグツチの頭を撫でた。 甘えているのはどちらなのだろう。 そう自問した瞬間、メレフは声もなく汗ばんだ肢体を仰け反らせた。カグツチが食った声はなかった。絶頂の時、いつもメレフから声は失われていた。柔らかな肉体は次いで弛緩してシーツに沈み、ここでやっと呼吸を解放する。荒い息を落ち着かせようとするカグツチを遮って不規則な喘鳴が熱く響いた。瞼は閉じられていた。頬を撫で、汗を拭っても反応はなかった。快感が弾けた衝撃に合わせて、意識を手放し眠りについたようだった。「だから、駄目ですよと、申し上げたではありませんか。お疲れだったのだから」 呟く。ただの言い訳である。あるいは責任転嫁。 手早く汗を拭いて、抜がしはしなかった衣服を整えて、メレフの肩まで毛布を引き上げた。そのまましばらく背をさすっていると、呼吸は穏やかな寝息に変わっていく。ここで眠ろうか自室に戻ろうか一瞬迷って前者を選択した。甘えているのがどちらであろうとそれで正解のように思えた。自身の寝支度を手早く整え消灯して空いたスペースに失礼する。 長い前髪を掻き上げて額にキスを落とさせてもらった。本来これで終わる予定だった就寝の挨拶。返事のように何かの反射でメレフの手がカグツチの夜着の裾を柔く掴んだ。「……私の望むあなたでいてくださる必要なんてないから」 その手を外し、繋ぎ直す。「明日は善い日だといいですね」 あらかじめ明日の日付の日記でも書いてみようかと思ったが、思うだけで頭を枕に沈めた。そんな予言を行わずとも、カグツチはメレフが強がらずとも一人で眠れる明日を全力でスケジュールし、作り上げるつもりだった。2018/05/03 [3回]PR