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Dear, my dear.

ゼノブレイド2非公式二次小説置き場。 ジクメレ・カグメレ等メレフ中心。 管理人:琉

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未完にピリオド


 俺の最初のファンは、物語の完結を待たずに死んだ。
 彼女自身がクライマックスシーンで失われる役回りだったと言い換えてもいい。
 共に過ごした時間は二ヶ月に満たず、俺たちの関係も物語に発展する類のものではなかった。彼女には生まれついての自分より大切な人間がいて、俺も俺でその頃には世界を斜に見下ろす姿勢に慣れきっており、ドライバーを見限ったブレイドとして、彼女がスペルビア皇帝に寄せる全幅の敬愛を幸せなブレイドもいたものだと眺めていた。無色を努めた俺の視線の中には、一割に満たないほど、羨望のかけらが紛れ込んでいたことを自覚し、認めたのは、百年ほど経った思い出の中においてだ。
 顔さえ見たことのない同僚と、ブレイドを制御できない既に別れたドライバーの尻拭いという義務感に駆られてイーラの王子様の一向に加わったが、俺は彼らと特段お友達になるつもりは毛頭なかった。マンイーターとして世界に独立していた俺は、しかしマンイーターであるからこそ人間とブレイドのどちらの領分にも属さない。それでいいと思っていたし、俺をこの体にしたことについてはマルベーニを全く恨んでいない。人の輪の只中から一歩外れた立ち位置を好むのは俺の生来で、だから彼らとの旅路が、俺に何かを刻むことなどはなから期待していなかったのだ。

「あなたも日記を付けているの?」

 予定が早々に外れたのは、ハイベルの村のうらびれた宿でのことだった。
 村の規模に相応しく部屋数が充分でなかったのでベッドはアデル達と同室だったが、あのうるさい空間で落ち着けるはずもなく、一人になれる場所を探してロビーの隅でノートを広げていた。そこに近寄ってきたカグツチがそう問うた。夜の散歩に出かけようとして偶然俺を見かけたらしい。キャンプで俺が書物をしている姿を見てから、自分と同じなのかと思って気になっていた、だそうだ。言葉を交わすのはやや億劫だったが、一応仲間の一人であったし、何より席を立ってアデル達の部屋に戻ってどうする(ヒカリとミルトの喧嘩の傍では、おちおち考え事もできやしない)というのが本音だった。

「いや、日記とは違うな。日記と呼ぶには脚色と捏造が過ぎる。ただの趣味さ」

 ペンを走らせながら答えた俺に、カグツチは「趣味……?」と首を捻った。
 物語の執筆が俺の趣味だった。マンイーターになる前からの趣味だ。自分の存在を次の自分に残そうと日記を書くブレイドは少なくないが、俺は俺自身の記憶より創造物としての俺の記録が後世に残ることを選んだ、というのはブレイドの価値観に理解されやすい建前で、半分以上はただの習慣だ。静かな夜に、あるいは思考を沈めたい日に、何か思い出を俺自身に刻み込みたいときに、俺は俺の視点を捨て俯瞰で言葉を紡ぐ癖があった。

「小説、ということ?」
「ん、そう呼ぶのは憚られるな」

 小説と呼ぶほど、俺の物語は登場人物の心情にフォーカスしない。執筆者たる俺が、他人への興味が薄いのだから仕方がない。演劇の脚本と評するのが近いか。演者のあてもないが。

「読んでみるか」

 そう言って既に書き上げていた本を渡したのは、口頭での説明が面倒くさかったからだ。加えてその日の俺は機嫌が良かった。記念撮影だなんて愉快な経験をしたせいだ。馴れ合うつもりはないと言いながらその時既に俺は意志薄弱を起こしていて、彼らの仲間として振る舞うのも思ったより悪くはないかもしれないと考え始めていた。世界の命運を委ねるにはいささか若すぎる面子だったが、傍で眺める分には愉快な奴らで、それは眼前のカグツチも例外ではない。ヒカリとの棘の籠もった売り言葉と買い言葉のぶつけ合いが、俺は結構お気に入りだった。勿論、巻き込まれるのは御免こうむる。
 カグツチは黙って本を受け取り、俺の向かいに座った。俺も黙したままペンを動かし続ける。紙にペン先が擦れる音と、繊細な所作で紙を捲る音だけが聞こえた。書き連ねる文字の、記念撮影のシーンに移行する繋ぎの描写に迷い、ペンが止まる。思考が途切れれば途端に眼前の女の反応が気になって様子を盗み見る。
 俺の本は読者を想定したことがない。俺自身のためだけに書いているのだから当然だ。そして広く世界に流通することも望んでいない。想像しないでもないが、それを夢と呼ぶ熱量は俺にはなかったのだ。だから、億劫から本を手渡した、カグツチが最初の読者だった。
 普段は穏やかに閉じられた瞼が開き、静かに文字を追っている。ふうん、紫なのか、と瞳の色を記憶する。視線に気付かれる前に執筆に戻る。しかし妙にそわそわして落ち着かない。面倒を嫌って本を手渡したが、これなら適当に説明したほうが楽だったかもしれないと後悔する。
 俺の後悔は正しく、説明の面倒を省いた結果が更に面倒な事態になった。

「――素晴らしいです、ミノチさん!」

 最後の一ページを読み終えて、三分ほど呆けていたカグツチは、唐突に身を乗り出してそう言った。

「うおっ⁉」
「ああ、この感動をなんて言葉にすればよいのでしょう。物語に没入させる軽妙な台詞、それでいて全てを言葉で説明せず読み手の想像に委ねる手法、ああ駄目、こんな技術的な話ではなくて……。……あの、続きはないのですか?」

 俺の物語の何が彼女の琴線に触れたのかは知らないが、幸いなことにお気に召してくれたらしい。しかし少々気に入られすぎている。身を乗り出してまで伝えてくれる感想が所々書き手おれの意図の範疇を超えていた。この時の台詞が後の心情に繋がっていくのですねなどと言われても、そこまで考えて書いていない。上半身を引いた俺を無視してカグツチの熱気は止まず、出会ってから見ていたはずの冷静沈着な女はどこに行ったのかと俺は慄きながら感心していた。

「続きは、これだ。今書いている」

 続きというほどの続きではないが、メツを倒すまではシリーズとして続くだろう。世界を守る天の聖杯に選ばれた英雄が、世界を壊す天の聖杯に打ち勝つ筋書きは、物語として完成されすぎていて見逃す手はない。

「そうですか……」と、カグツチはやや残念そうに身を引いた。俺はほっと息を吐く。
「……望むなら、書き終わったらまた読ませてやる」
「本当ですか⁉」

 カグツチは喜色満面で手を叩いた。

「単なる手慰みだが、読み手がいないのも張り合いがないからな。ま、あまり期待してないでくれよ」

 そうして俺は最初の読者兼ファンを手に入れたが、読者が増えるのに時間は掛からなかった。なんせカグツチがあんまり熱く語ってくれる声が聞こえたらしいカスミがその夜のうちにカグツチと同様「何をしているのですか?」と話しかけてきて、まだ近くにいたカグツチが「カスミも読んでみたら?」と手元に持ったままだった俺の本を渡した。その直前視線で構わないかと確認してきたあたりで俺は彼女が気に入った。細やかな気遣いができる奴はありがたい。
 俺の本はカスミにも無事お気に召され(カスミもカグツチ同様熱く感想を語ってくれた。二人揃ってそれだったので、俺はどうやら才能があるらしいと自分を再評価した)、そうなれば仲間全員に俺の趣味が知れ渡るのに時間は掛からなかった。カスミが面白いって言ってたとラウラが、カグツチのお気に入りの作家が気になってとユーゴがそれぞれ俺の本を求め、知らないうちにシンとワダツミにも回覧されていた。となればアデルが放っておくはずもなく、興味がない振りをしてヒカリの手にも本は渡った。

「すっかり"先生"だね、ミノチ。ところで新作はまだかな?」

 アデルには直接そうからかわれたこともある。

「ほっとけ」

 笑顔をぞんざいに無視しながら、案外嫌ではなかった自分がいた。ちょうどその時切りの良いところまで書き上げた物語を、さて今度はカグツチとカスミとどっちに先に渡してやろうかと考えている始末だった。



 出会いに始まり、砂漠超えの冒険。辿り着いた王都にて破壊の聖杯の生みの親であり救いの聖杯をアデルに託した助祭と再会する(俺はその場にいなかった。嫌な予感は的中し、奴と顔を合わせずに済んだことを俺は何より安堵した。だからその物語はアデルやラウラから聞いた話を元に特に脚色が酷い)。安寧のアウルリウムを襲撃した数多のデバイスとメツとの邂逅。ラウラの叙勲については当然と言うべきかカスミに特に気に入られ写本を申し出られる始末だった。最終決戦に向けた日々の今はまだ儚い安寧、それでも英雄を騎士を信じて未来を託す人々を何としても守り抜かねばと決意する――そこまでを描いて結んだ俺の本を誰よりも早く読み切ったカグツチは、わざわざ俺の部屋まで高揚した様子で感想を言いにきた。そのくせ「この喜びをどう表現したらいいものか……」とうっとりと声を詰まらせており、夜分に男の部屋まで赴いて言葉にならぬ高揚を全身から溢れさせる女というなかなかに勘違いを全力で誘発する図が完成したのをサタヒコに見られたあたりでロビーに連れ出した。

「お前さんの好きそうな構成になったような気はしていたが、そこまで気に入ってもらえるなら、作家冥利に尽きるってもんだな」

 彼女の様子から素面で感想を受け止めきる自信がまるで湧かず酒を入れた俺よりも何かに酔った様子でカグツチは俺の最新作を称賛した。何かを守るというテーマそのものが、彼女にはとても尊いようだった。皇帝を守ることを絶対の命題として生まれたブレイドという立場がそうさせるのか、カグツチ本人の気質なのか。敵の攻撃を身のこなし一つでいなすワダツミさえ凌駕して、彼女の守りの力は仲間内で誰よりも強かった。
 また、今回の物語ではアデルやラウラもさることながらユーゴを称賛する記述を意図して増やしていたことが大きいのだろう。敬愛するユーゴ・エル・スペルビアの讃歌にもなり得る筋書きをカグツチが気に入らないはずがない。イーラ王国の存亡のためにイーラの王子と、彼に見出され武功を以て叙勲に至ったイーラの騎士が奔走する姿は、物語の王道かつ自明の筋書きであったが、そこに他国の皇帝が入り込めば彼のお人好しと善性が強調された。物語と切り離した俺自信としては、ユーゴお坊ちゃんの行軍は無私でも奉仕でもありえず、シヤの消えた今アルスト有数の軍事国家に繰り上がったスペルビア帝国の、戦後の"英雄アデルと共にメツを斃した皇帝の治める国"としてのステータスを上げる意図もあるのだろうと考えている。物語においてもその側面からの描写はあったが、それ以上にお話としてまとめるにはやはりユーゴは善き隣人として舞台に置くのがしっくりきた。その結果が想定した第一読者の琴線に存分に触れたのなら、創作物として正しい判断を俺はしたのだろう。

「カグツチはずいぶんユーゴのことが好きなんだな」

 彼女の感想、それは俺の物語を称賛しながら半分くらいはドライバー自慢が入り込んでいた、がひとしきり落ち着いた時、俺から零れ出たのはそんな独り言だった。
 カグツチは俺の感慨がまるで分からないと言いたげな顔で俺を見た。

「当然です。私は陛下のブレイドなのですから」
「ところが俺はアーケディアのとある助祭のブレイドでありながら奴と決別している身なのでね」

 俺が皮肉を意識して口元を歪ませると、カグツチははっとした様子で言葉を飲み込んだ。しまった、と思った。奴について深く語るつもりはないのに、奴が赤子の呼吸を眉一つ動かさずに止めたのを目の当たりにして奴が理解できなくなり別離したという俺の来歴が彼女たちに愉快な感情を抱かせるわけはないと分かっていたのに、まるで水を向けるような真似をしてしまった。

「言い換えましょう」しかしカグツチはそれ以上を問うてこなかった。俺の表情から、何かを察してくれたのかもしれない。「陛下は私にとって無二の方です。私は陛下の御為に存在し、あの方をお守りすることこそが私の喜び。あるいはそこに、理由などないのかもしれません」
「そうだろうな、お前にとっては」

 彼女の気遣いに安心して、俺は目を伏せた。
 思えば俺たちは真逆の存在だった。生まれた時にはブレイドとして同じようにコアから目覚めたのだろうに、彼女は純粋なブレイドで、ユーゴを全身で愛していて、彼の傍に在る自分を誇っていて、高慢とさえ見える振る舞いとは裏腹に、健気なほどにユーゴに対して献身的だった。一方の俺は、人の細胞を取り込んだマンイーターで、マルベーニを見限り、奴と鉢合わせすることさえ拒み、世界を斜に構えては、彼女やシンが謳歌するブレイドとして当然の幸福を皮肉交じりに眩しがっていた。
 だから俺にはカグツチと二人で交わす会話がむず痒く居心地が悪くて仕方がなかった。俺たちの関係は仲間の他には作者と読者に終止していてそれ以上のものが発生する余地そのものが存在し得なかったが、俺ははじめから俺がそんな風になれるわけのなかった完璧で幸福なブレイドの姿をカグツチに見ていた。俺はもともと単なるブレイドであった時からドライバーを無条件に愛する性質たちのブレイドではなかったし、それが完璧なマンイーターにさえなれなかった今となっては、俺はどっちつかずの紛い物でしかなかった。そんな俺が俺自身を廃してしかし世界に爪痕を残すために、こんな時でさえ物語を書いているのかもしれないとふと思う。

「あの」カグツチが躊躇いがちに口を開く。「この本を頂くことはできませんか」

 ええ、と思わず声が漏れた。ずいぶんと気に入られたものだと高次の視点からしみじみする。

「すみません、その、カスミが写本したと聞いたので、私もと……」
「いやまあ、駄目とは言わんが……もう少し後にしてくれないか。メツを斃すまで」
「それは当然」カグツチは頷く。メツが具体的な数字を出さずに切った期限はじきに切れるという確信が皆の中にあり、あと数日のうちには最終決戦へ向かうだろうと予測された。だから写本などという時間はその後でしか物理的に取れない。「ですよね?」カグツチが首を傾ける。
「そういうことだ。それに、次の話が最終巻だからな。そっちに合わせて少し改稿するかもしれん。だから今のそれはあくまで草案なんだ。ま、こいつの完成形を写すのは、最終巻を書ききるまでの時間潰しに取っておいてくれ。ただでさえカスミもうるさいのにお前にまで急かされたらたまらん」
「そんなことはしませんよ」
「どうだか」今回の話だって遠慮がちにだが急かされた。直接催促されたわけではないが、視線や気配がそわそわと暇を見ては俺を捉えていたのだから察するに余りある。
「……ですが、私がユーゴ様とスペルビアへ戻るまでには書き上げてくださいね。最終章だけ読めないなんて耐えきれません」

 小さな声で補足するカグツチを見れば彼女の言をそのまま受け取れないことは丸分かりだ。メツを斃して王都に帰り、イーラ王に事の顛末を報告して。歓待と称賛の日々を経て、ユーゴはスペルビアへ凱旋する。その日が近づくにつれてカグツチはまたそわそわと俺を見てくるのだろう。目に浮かぶ。

「どうせ全部終わったらスペルビアにも行くさ、あの王子様も騎士様もな。そのうち持って行ってやるよ。それに俺だってアデルのブレイドになったわけじゃない。全部終わったら気ままに生きるつもりだしな。まあどんな形であれ、お前には最後まで読ませてやる。俺の最初の読者だ、大事にしないとな」
「ミノチさん……」

 カグツチは手を自分の前で組み、感動の声音で俺を呼んだ。大げさだ、と俺は笑ってみせる。ふいに俺は、眼前で俺を見詰める女の顔立ちがいたく美しいことに気が付く。髪と一体化して揺らめく炎が激情ではなく優しい燃え方をしているのを知る。なんだか妙な居心地の悪さを思い出し、殆ど空になっていたグラスを煽った。僅かな量の酒が舌に落ち、足りなくなって手酌する。ここで俺に酒を注ぐなんて真似を彼女はしない。カグツチはいつだって、ユーゴ皇帝陛下ただ一人のために存在している。それでも俺の物語を読む時、その一瞬、彼女の意識は俺の言葉で占められる。物語を書くとは誰かの人生の一部を貰う特権を得るということだ。俺はこの旅の中で八人分の時間を俺の物語に捧げさせた。そこに潜む熱量には個人差があったが、しかし時間は等しく時間だ。
 カグツチはその最初の一人だった。
 その事実を噛みしめると俺は形容しがたい万能感に包まれ、にわかに気分が良くなった。酒が回り始めたのかもしれない。気付けば俺は頭の中の物語の種を一つ摘まみ取ってカグツチに差し出していた。

「天の聖杯の物語が終わったら、そっちの皇帝陛下をネタにさせてもらおうかと考えている」
「本当ですか⁉」

 思っていた通りの食付きに、得意になって俺は鼻を鳴らした。

「別に大したもんじゃない。どうせメツのことに片が付いたら、そっちの国の作家どもはこぞってユーゴを称える話を書くだろう。そのうちの一人に、勝手になってみようってだけさ」
「いいえ、いいえ! ミノチさんがユーゴ様の物語を書いてくださるなんて……それだけで他にどれほど高名な作家の話より、私にとっては価値があります!」
「はは、そうしたら、編集と駄目出しがてら、お前が一番に読んでみてくれ」
「是非! 喜んで……お願いします! ああ、なんてことなの、夢のようだわ……」

 歓喜を全力で伝えてくるカグツチに、大げさだなあと繰り返して笑った。言葉にしてしまったからにはほんとうに書かないとなあと決心する。俺自身のためだけに続けていた趣味だったのに、今や読んで欲しいと思える読者がいる。何も期待していなかったこの旅の中で、俺は俺が思っていたより大切なものをたくさん得ていたらしい。
 そうだ、と、打算込みの悪戯心で、俺は何の気なしに呟いてみせた。

「賄賂でもくれたら、出来る限りペンを早めるし、なんならこの次の話を一番にカグツチに読ませてやってもいいな」
「賄賂……ですか?」

 カグツチが秀麗な眉を寄せる。皇帝の側付きとして潔癖な彼女が受け容れられる単語ではないのだろう。だが俺が中身を明らかにすると、愁眉は呆気なく開いた。

「以前、香水を作ってくれただろう」いつも楽しませていただいているお礼です、とはにかみながら。彼女の意外な特技に感心し、香りの完成度の高さに二度感心した。そう言えば俺はあの時にも、白い頬が俺の物語を思って――敢えて断言する、俺自身に対してではない――紅潮していたのを、美しいと感じたのだった。「あれはいい。集中できる。気に入ってしまってな。だがそろそろ無くなりそうなんだ。同じものをくれるなら、俺は普通に書くより頑張れるかもな」

「そんなことでよろしければ。今は手持ちの素材が足りないのですが、メツを斃した折には必ず」

 カグツチはほっとしたように息を尽き、俺の気が変わることを恐れるように念を押した。「約束ですよ、ミノチさん。必ずですからね」
「おう」

 鷹揚に頷き酒を傾ける。
 他愛のない約束というのも悪くはないものだなと思った。

 
 この時は、そう思っていた。
 

 そして約束は果たされなかった。約束の前提になるハッピーエンド自体が訪れなかったのだから約束が果たされるわけもない。メツではなくヒカリのデバイスが打ち出した光線の流れ弾で、ユーゴは死んだ。俺たちは前方にばかりシールドを張っていて、がら空きだったアデルの背後に、死の光線は唐突に放たれた。幸か不幸かユーゴだけが気が付いて、皇帝は死に、英雄は生き残った。俺がそれを知ったのは、シールドに掛かる負荷が唐突に重くなった瞬間だった。守りの力に長けたカグツチとワダツミが同時にコアに戻ると、俺たちの張るシールドは段違いに脆くなった。それを維持するのに精一杯で、足元に転がったコアを見る余裕さえなかった。だから当然、最期に彼女は愛する皇帝陛下を守れなかったことを悔いる余地を得たのかどうかさえ、俺には知る由がない。
 それきり彼女には会っていない。彼女の日記もあの時イーラと共に沈んだのだと思う。願わくば過去を文字で留め置くこと重きを置いた彼女の、失われた時間が叶う限り短ければいい。どこかの時点でスペルビアの艦船に日記を避難させていればいい。どのみちあの約束は最終決戦から直近過ぎて、後世に残る可能性は限りなくゼロだった。俺の物語が好きだった事実さえ、あるいは失われているのかもしれなかった。
 イーラ沈没後、俺達はばらばらになった。共に傷を舐めるには、俺達は幸福な思い出を共有しすぎていた。近くにいることそのものが傷口を抉る行為だった。彼らと一番絆と因縁の浅かった俺が真っ先にパーティを抜けた。ここで言うパーティとは、生き残った者の集合体のことだ。ユーゴの遺体と二個のコアクリスタルは、とうにスペルビア本国へ輸送されていた。
 彼らともそれきり会っていない。アデルはホムラと名と姿を変えた天の聖杯と共に歴史の混沌に消えた。母国を引き換えにそれでも悲壮な英雄は破壊の象徴を滅し、天の聖杯を封印して消えたと、どこか物悲しい英雄譚が後には残った。ラウラ達については風の噂にさえ聞いていない。聖杯大戦後に内乱を起こしたらしいスペランザのイーラ駐屯地にいなければいいなと願うばかりだ。カスミについてのみ、百年以上後にアーケディアの女神と呼ばれていることを知った。生前――ラウラのブレイドだったカスミの、マルベーニの評を思い返して、この筋書きをもしも神様とやらが書いているのだとしたら、悪辣にも程があると唾を吐いた。ファン・レ・ノルンと名を改めていることについて不審と嫌な予感を抱きはしたが、マルベーニを問い詰める気も起きなかった。俺はマルベーニから離反したが、しかしメツとは決定的に異なり、マルベーニに反逆するという発想が俺からはあらかじめ失われていた――奴のブレイドとして、俺は奴に害を為す存在になり得なかった。だからだと思う。法王庁が秘密裏に行っていたマンイーター刈りの対象に、俺が選ばれなかったのは。奴だって俺が奴に何を出来るわけもないと知っていたのだ。
 傭兵として路銀を稼ぎ、ひとところに定住はせず、たまに人間と人間同士としての絆を結びながら別れて生きた。その間も物語を書いては荷が嵩むからと手放した。流通はさせなかった。俺はとうに読者を失い、他に読んでほしい誰かもいなかった。
 しばらくした頃訪れたスペルビアで、カグツチを見た。新たなドライバーを得て顕現する彼女は、失敗作としてゆっくりと齢を重ねていた俺の一方で、あの日と変わらず美しかった。見回りか任務かプライベートか、スペルビア帝都ですれ違った俺に彼女は気付かなかった。気付くはずもない。彼女は俺を忘れ、記憶を、あの日々を失い、もはや俺の読者ではなかった。
 その夜、なんとなく持ち続けていた空っぽの香水瓶を処分した。香りは完全に揮発していた。それきり俺は、彼女がくれた艶美の香には出会えていない。そのうちどんな香りだったかも忘れた。嗅いだら思い出せるかもしれないが、そのための触媒が存在しなかった。好きな香りだったという印象だけが俺には残り、やがてそれさえ薄れていった。
 


 それからの数百年は、語るに値しない。

「劇場を譲りたい」

 その一言を受けるまで、儂はただ、生きるためだけに生きる日々を繰り返していたからだ。
 ヴァンダムという若者と意気投合し、血気盛んな彼といくつもの戦場を駆け、その最中で人々に手を差し伸べながら暮らしていた。儂はもはやただの人間として生きており、人間が人間を助けるのに理由はいらなかった。勿論、路銀稼ぎという現実的な理由は存在していたが。
 そんなある日のことだった。とあるインヴィディア人の老人が依頼を持ちかけた。依頼そのものはモンスターの討伐と素材の採取というありふれたものだった。成果物を手渡しながらの世間話の最中に、老人が劇場を経営していることを知った。本公演の合間に子供達向けの劇をすることが決まり、元ネタを探しているということだった。

「ならじいさん、こいつの脚本はどうだ? 結構いいもん書くぜ、こっちのじいさんも」

 ヴァンダムは快活に笑いながら儂を指さした。
 唐突に水を向けられてたじろいだ儂に、老人は言った。「ほう、お前さん、物書きかね」
「無名だよ。下手の横好きにすぎん」
「俺は気に入ってるんだがな。売りゃあいいのにって言ってるのに聞きやしねえ。なあ爺さん、報酬代わりにこいつの売名手伝っちゃくれねえか」儂の趣味は続いており、その頃にはヴァンダムがたった一人の読者だった。
「おい、ヴァンダム」
「いいじゃねえか」

 外見で数十年、実年齢で数百年歳下の男の勢いに負け、儂は結局老人に手持ちの本を差し出した。「まあ、出来によるな」と丸眼鏡を光らせた老人を放っておいて、儂はヴァンダムと今後の予定を会話した。儂はもう若き日々のように一読者の反応を気にはしなかった。

「お、おい、あんた」手持ちの金を確認し周辺の地図を広げ他の依頼を確認していた儂たちを、老人は声を上ずらせて呼んだ。「あんた、名は」
「儂のか? コールだ」ミノチという名を捨てたのがどれだけ昔のことなのか、儂にはもう思い出せなかった。
「コール、お前さん、ほんとうに無名なのか。惜しい、あまりにも勿体無い、その歳まで――」儂より老けて見える老人に言われたくはなかったが黙っておく。「いや、もはやこれは才能に対する冒涜だ」
「おいヴァンダム、何だこのご老人は」
「じいさんの書いたもんを気に入ったんだろ、よかったじゃねえか」

 老人の熱気と儂の困惑を飄々と受け流し、ヴァンダムは言った。
 老人に請われ、儂は彼のために物語を書いた。彼の求める、子供向けの舞台の脚本だ。十日ほど使い、彼からの依頼で行ったモンスター退治とその旅路を、とあるヒーローの冒険譚として作り変えた。男二人はむさ苦し過ぎるのでヒロインを創造し、見せ場にはヒロインのピンチとそれを助けるヒーローの王道の筋書きを軸にした。我ながらありふれた物語だったが、老人はそれでも満足した。儂の才能は筋書きそのものよりも構成や台詞回しにあるらしいと、儂はとうに自覚していた。それを自覚させたのは、そういう風に儂の物語を褒めた、もう500年も前の、そして今猶老人の敵国のてっぺんで輝いている女だった。
 それから老人が寄越すのは儂への執筆依頼に偏った。ヴァンダムが傭兵団を立ち上げるのと同時に彼とは別れ、また一人で生きるようになった儂に、それはちょうどいい身銭稼ぎだった。儂は儂自身の500年を、平凡で淡々と続いた日々のうちから適当な思い出の石ころを取り上げて研磨し、組み合わせ、豪勢な飾り台に乗せて、老人に渡した。儂は儂の才能がそれで食えるだけの質を持ち合わせていることを今更知った。時には老人の舞台を見に行った。儂の筋書きが舞台上で演出され、演じられ、多くの観客に受け入れられていた。儂は500年ぶりに、誰かに物語を喜ばれる幸福を思い出した。
 そんなことを繰り返したある日、老人の経営する劇場を儂に譲りたいと打診された。

「できんよ、そんなこと。これはお前さんの劇場だろう」
「いや、是非コール、あんたに譲りたい」老人は熱く語った。「私も年だ。死後まで劇場を持っていくことはできん。だが、私が育てた劇場と劇団を、このまま潰してしまいたくはない。だからコール、あんたに託したいんだ。あんたの脚本ほんは素晴らしい。あんたが脚本を書くのなら、この劇団は今以上に素晴らしいものになる」
「買いかぶりだよ、それは」
「役者たちも納得している。皆あんたの脚本を演じたいんだ。経営の細かい部分は事務員に任せながらおいおい覚えてくれればいい」
「そんな簡単なものじゃないだろう、劇団経営なんて。多くの人間を食わせなきゃいけない」
「あんたにはその才能がある」
「歳と言うなら、儂も歳だ。長続きさせたいなら、若いもんに譲れ」
「ヴァンダムはあんたは見た目ほど老けていないと言っていたがの」

 あいつ、と儂はインヴィディアの僻地で拠点となる村作りに勤しんでいるだろう友人を恨んだ。
 突然差し出されたものはあまりに大きく、儂は驚天動地にたじろいでいた。断る理屈を探せば真っ直ぐな熱意で返され、困り果てる。その間にも老人は儂の才能を褒めた。

「あんたの脚本はいつ読んでも最高なんだ」

 その言葉に、儂は我知らず息を止めていた。

 ――ミノチさんの脚本は、いつ読んでも素晴らしいです……!

 忘れ去っていた声だった。思い出の中で風化した女だった。それが突然、鮮やかに、頭蓋骨の内側で、あの頃のように頬を高揚させて言い募った。かつて女が儂に語った言葉が次々と浮かんで弾け、儂は唐突にあの頃抱いていた自身の才能に対する万能感を思い出した。女と少女が感想を言い合うのを遠目でむず痒く見つめた夜を、それを見ながら真白のページにペンを走らせ、文字ではなく誰かに実際に演じてもらうのもいいかもしれないと夢物語を描いたことに思い至った。誰かの時間をほんの一瞬独占できる特権を回想し、それは儂の脚本を儂自身が客として見ていたあの劇場の景色に重なった。あの場に並び座る人々の時間を儂はあの時手にしていた。演出や細部の味付けは、老人のものだったにしても、だ。それが今度は全て儂のものになる。その誘惑に気が付いた時、儂は分かったと頷いていた。

「出来る限り努力しよう。そうだ、思い出したよ。もうすっかり忘れていた。儂の書くものを好きだと言ってくれた者たちがいたんだ。そしてお前さんもそう言ってくれるのなら、年寄りの冷や水でも、挑戦してみて悪いことはない」


 
 儂はついに安住の地を得た。老いていたことが幸いし、儂の老化が人のそれより遥かに遅いことに気付く人間はいなかった。「元々老けていたのが、やっと歳の方が追いついたな」と劇団員たちは二十年の後に笑った。その程度の反応だった。
 老人の劇場はフォンス・マイムの一等地にあり、評判も上々だった。世代交代直前の舞台の脚本家が次の座長、と見聞され、儂の最初の公演は順調な滑り出しを見せた。儂は儂が思っていたよりインヴィディアの人々に物語が受け入れられていたことを知った。評判が評判を呼び、客も役者も増えた。前座長の成果にフリーライドしただけと儂を妬み嫉む声もあったが、どうでもよいことだった。儂がこの劇場を得るきっかけとなった張本人となったヴァンダムは、後に劇場を訪れながら「まさかこんな大成するとはなあ」と他人事のように感心した。儂はヴァンダムをどついたが、ヴァンダムが保護した戦争孤児の一部を引き取って欲しいとの頼み事を快く了承した。傭兵団に世話をされていても、傭兵になりたくない子ども、教育を受けて戦いと無縁に街で暮らしたい子どもは存在していて、儂はその子達の受け皿になった。その選択には、遠い昔に柱の陰に隠れて聞いた、優しい女性の細やかな願いを思い出した影響が多分に含まれていたことは認めよう。
 経営と評判が安定してきた頃、儂は500年前を思い返しながらペンを取った。天の聖杯の物語を、思い出の中から再構築しようとした。あの頃日記のように書いた草案はとっくに手放してしまっており、儂は錆びついてなお、内側に黄金色の気配を宿す記憶を丁寧に掘り起こした。天の聖杯、そして英雄アデルの物語だけは、前座長に請われても、劇団員に提案されても、彼らのためには書かなかった。儂の才能は換金可能なものだったが、あの日々だけは金のために描かれてはならなかった。そんな義務感で儂のためだけに5年の歳月を掛けて完成させた物語は、500年遅い彼らへの鎮魂歌でもあった。幸いなことに儂は儂の発想を、描写の細部はともかく核の部分を忘れず覚えておく才能に長けており、それは大筋を500年前彼ら自身に読まれた物語と同じくした物語だった。ただひとつ、最終章だけを500年の時を越えて書き下ろした。いつもの物語と同じように、脚色と必要な捏造を加えて。ハッピーエンドにすることは歴史に拒まれたが、きらびやかに飾り付けることは可能だった。世界を駆け抜けることの叶わなかった、ほんとうは英雄などという大それたものではなかった、もっと等身大だった彼らの悲劇を塗り潰してせめて美しい結末を描くための、それは真実英雄譚となった。
 一つだけ不満足が残るのは、その物語からユーゴの存在がオミットされたことだ。
 インヴィディアの舞台の演目として、過去の人物とは言え仮想敵国たるスペルビア皇帝を讃歌する内容は許されなかった。英雄アデルと天の聖杯の物語に、あるいはイーラの騎士と王国の秘宝の物語に、どちらにしても、スペルビア皇帝の存在は不要だった。実際の日々には彼の機転が、戦力が、叡智が、勇敢が、実在の儂たちに必要不可欠なものだったとしても、物語に落とし込んだ時、それらはこのインヴィディアにおいては、枝葉末節の蛇足でしかなかった。パジェナ劇場がスペルビアの劇場であったなら、ユーゴの存在を描くことは出来たはずで、儂はこの劇場の立地を一晩だけ恨んだ。劇場を譲り受けなければ完成させようとさえしなかったはずの物語であることを棚に上げた、実に勝手な恨み節だった。

 
 そうして完成させた天の聖杯の舞台を、まさか当の天の聖杯に観覧されるとは夢にも思っていなかった。
 それからの数日間の一連、イオンの誘拐、メツの復活(復活自体は遥か昔から為されていたというが、儂はこの時初めてその事実を知った)、ヴァンダムの死、ヒカリの復活の仔細を今は語らない。それはレックスに請われたヴァンダムのための物語の中で描くべき事象だ。
 儂は彼らの物語を知らない。世界樹を目指すレックスに、マルベーニならあるいは道を知っているかもしれないと、ただの一度もドライバーには使用されていない銃剣(それを用いて儂と共闘したのは、マルベーニではなくアデルだった)を託し、その背を見送った。
 黄金色の瞳の輝きがラウラに似ていた。無条件に信頼したくなる笑顔にアデルを重ねた。小さな体躯に抱く心の大きさがユーゴを思い起こさせた。
 そんなレックスが、かつて地上でただひとりマルベーニのみが到達した世界樹の天頂へ、楽園へ辿り着いた時、何が起こるか想像を膨らませた。マルベーニはメツとヒカリを持ち帰り、聖杯大戦の引き金となった。儂の人生であるいは最も幸福なひとときは、しかしそのおかげで訪れた。あの少年は何を持ち帰るのかと咳き込むばかりになった体で期待して、もはや登場人物ではない儂は、それきり平凡な昼と夜を繰り返した。
 繰り返して、また繰り返して。
 
 そして、レックスは未来を持ち帰ったと知った。
 フォンス・マイムを襲撃したデバイスと機械人形が一斉に停止したのを見て。
 雲海が晴れたと兵士達が叫ぶのを聞いて。
 地響きと地震が収まった数日後、見たことのない大陸と接地しているらしいという国の報告を聞いて。
 
 かつて儂らが辿り着けなかったハッピーエンドに、ヒカリは今度こそ、レックスと共に辿り着いたのだと知った。


 
 その仲間に今度も彼女がいたと知ったのは、更にしばらく経ってからのことだった。
 新大陸と呼ばれる広大な大地を得て以降、アーケディアの滅んだアルストで、インヴィディアとスペルビア、開国したルクスリアは盛んに首脳会談を行っていた。議題は山程あるだろうことは想像に難くないが、庶民に詳細を知る術はない。ただ今度の会談はフォンス・マイムで行われると報道され、儂自身はそれを聞き流して意識せずに迎えた、その日のことだった。

「コールさん!」

 明るい声に呼ばれて振り返ればレックスだった。フレースヴェルグ傭兵団を受け継いだ彼は、とある依頼でフォンス・マイムへ訪れ、挨拶に来たという。

「調子はどう?」
「お前さんたちのおかげで、体はだいぶ楽になっている。もうしばらくは儂は生きるぞ」
「そっか、よかった」

 ほっとしたように笑ったのはニアだ。レックスはその隣で「へへっ」と破顔する。彼の背後にはホムラとヒカリがいて――彼女たちが分裂していることに儂は心臓が止まるほど驚き、咳き込んでトラとハナに心配された。背中を擦る手に礼を言い、今日はどうしたと問いかける。ふと、子供達を見守るように三歩後ろで一連を眺めている大人たちに気が付いた。見知らぬ顔ばかりの中に一人だけ、見知った炎が紛れ込んでいた。

「オレたちの仲間だよ。一緒に楽園へ行ったんだ。左から、ジーク、サイカ、メレフ、カグツチ」

 最後の名前だけ知っているとは言えずに「そうか」と頷いた。
 聞けばジークはルクスリア王族だという。黒髪、青目。イーラ王家の特徴を受け継いだ男に自然と笑みが溢れた。こんなところで、500年前と現在がまだ繋がっていた。傍らのメレフの名は聞いたことがあった。スペルビア特別執権官。新大陸時代の到来以降、スペルビアとインヴィディアは和平条約を結び、敵対関係を現時点では凍結していた。だからこんな王都の真ん中まで赴けたのだろう。ぴんと伸びた背中に、ユーゴの面影があった。そして何よりも、その斜め後ろに当然の顔をして立ち並ぶ蒼炎が、口の中いっぱいにほろ苦い懐古を広げさせた。
 彼らとは久しぶりに会ったのだとレックスは言う。ジークは父王に随従して、メレフは皇帝の側付きとして、会談のためインヴィディアを訪問し、レックスたちはフォンス・マイムに来る用事があった。大人たちがスケジュールを調整し、久々に仲間が集結したらしい。再会を喜び、彼らに出会う前のレックスの人間関係を紹介したい目的もあって、儂の劇を見に来たのだと言った。現在の演目は"天の聖杯"。天の聖杯の新たなる活躍によって世界が一変した今、かつての英雄アデル伝説を再考したい需要は多く、予定よりも公演期間を延ばしていた。
 レックスとの会話が一段落したところで、軍服が眼前に歩み寄ってきた。

「お初にお目にかかります、コール殿。スペルビア特別執権官、メレフ・ラハットと申します。素晴らしい舞台でした。拝見できてよかった」

 スペルビア軍人は一瞬帝国式敬礼をしかけ、はっと気付いて握手を求めた。「構わんよ、儂はインヴィディア人ではないのでな」握り返しながら儂は笑ってみせた。
「あなたほどの人にお気に召して頂けるとは、長生きする甲斐もあるものですな」
「ご謙遜を」

 メレフが双眸を和らげる。目の色は琥珀色。ユーゴの青とは違う。けれど眦の下げ方が似ていた。

「我が国にもあなたのような才能が欲しいものだ。彼女など……失礼。私のブレイドなのですが、ほんとうにあなたの劇を気に入ってしまって。幕が下りて照明が点いた瞬間の彼女の顔を、あなたにも見せて差し上げたかった」
「メレフ様」

 やや恥ずかしそうにカグツチが口を挟む。あの頃より呼びかける声が柔らかい気がする。メレフが話題に出してくれたので、自然な動作でカグツチを眺めることが出来た。変わらない。顔立ち、鼻筋、毛先にいくにつれて淡さを増す長い髪。高慢な印象が消えた、ように思う。すました顔は変わらないのに、だ。メレフに対して困ったように眉を下げ、コールの視線に気づいて会釈する。その一連の動作がそう思わせただけかもしれない。

「ほほう、それはそれは。勿体無いことをしたかもしれませんな」

 嘘だ。知っている。儂の物語に没頭し、熱中し、高揚した彼女の顔を知っている。あの頬の美しさを、知っている。

「お気に召して頂けましたか」

 聞くまでもない。当然だ。儂の物語は、500年の昔に、とうに彼女の称賛を得ていたのだ。
 そうだ。儂はお前より知っている。儂の物語を好いてくれたお前のことを知っている。それさえ失われたかもしれないお前の日記に残る文字などではなく、儂自身の思い出として抱えている。

「ほんとうに、素晴らしい舞台でした。演技も演出も勿論ですが、脚本の完成度が……台詞回しの一つ一つが丁寧で、想像と考察の余地を残していて……これほど心震わせる舞台が存在するなど、失礼ですが思ってもおりませんでした」

 ありがとうございますと受け取りながら、くれる感想だって知っていた。仔細は忘れた。当時の言葉の一つ一つは忘却の砂にとっくに埋もれ果て、けれど彼女の褒めてくれる内容が500年前と同じことだけはっきりと分かった。
 ああ、お前はまた好きになってくれたのか。儂の物語を。儂がミノチであるとさえ知らずに。あるいはミノチという者と出会っていたことも、その男の書く物語をいたく気に入ったことさえ忘れて。
 聞いてみたかった。まだ日記を書いているのかと。ミノチという名に心当たりはありませんかと尋ねかけてみたかった。そうしたらカグツチはどんな反応をしただろう。どうしてそのことをと訝しむだろうか。ミノチという響きに反応するだろうか。全く初耳と言いたげに眉を顰めるだろうか。ひとしきり想像してみて、想像だけで満足する。ふと視線を感じればヒカリが微笑ましそうに儂たちの遣り取りを眺めていた。

「この通りでして。あなたの舞台は我が国のどんな芸術よりも、彼女を虜にしてしまったようだ」
「メレフ様。申し訳ありません、そのようなつもりは……」
「ああ、いいんだ。責めているわけではない。この舞台はほんとうに良かった。それに、そうやってはしゃぐお前の顔を見ることが出来て、私は嬉しいよ」

 二人の会話を聞きながら、ふいに、果たせなかったことさえ忘れ果てていた約束が叶えられたことに気が付いた。
 最終回を読まずに死んだ最初の読者。
 自分のためだけに物語を書いて誰の目にも触れるはずのなかったそれを、世界に知らしめた小さすぎるきっかけの女。
 今日、届いた。それは彼女が楽しみにした物語そのものではなかったけれど。彼女が特に気に入っていたユーゴの描写をまるで省いてしまった話だったけれど、それでも、これが完成稿で、絶対に読みたいとあの夜に彼女が力説した最終巻だった。
 我知らず、笑っていた。「コールさん?」傍でやり取りを見ていたレックスが尋ねる。メレフとカグツチが不思議そうに儂を見る。ひとつ咳払いをして、「いや、何」と感傷を誤魔化した。

「それほどの反応を頂けるとは、作家として、また座長としてこんなに嬉しいことはない。……ああ、そうだ。どうせなら。少し、待っていてくだされ」

 後半は芝居だった。我ながら下手だ。役者の才能は儂にはないようだった。さも今思い出したように振る舞いながら、カグツチに物語が届いたのだと気が付いた時で、儂はもう一つの約束の存在に、とうに思い至っていた。
 本棚に詰め込んだ数多の脚本。それは儂自身の書いたものもあるし、古典作品もある。背表紙をじっと眺め、その背に何も書いていない手閉じのそれを見つけ出した。書き上げて以降、他の誰も読んだことがない。見せたことがない。そんな[[rb:脚本 > ほん]]だ。

「よろしければ、これを」

 それを、メレフに手渡した。ほんとうはカグツチに手渡したかったが、ドライバーを無視するわけにもいかない。

「これは?」
「……かつてのスペルビア皇帝、ユーゴ・エル・スペルビアについてを、儂なりに物語にしてみたものです」

 メレフとカグツチが同時に息を呑んだ。まさかそんなものが、儂の本棚から出てくるとは思っていなかったのだろう。
 天の聖杯の物語からオミットされた勇敢なる皇帝、ユーゴ・エル・スペルビア。英雄アデルの物語がアデルの生存で終わるのも、彼の犠牲の成果でしかない。一つの物語から追い出さざるを得なかった彼のことを、儂は彼自身の物語として書き残した。紛うことないスペルビア皇帝讃歌の内容となるため、政治的理由で、演じさせようなどとは考えたこともない。けれど。優しくも、為政者としての底の知れなさを兼ね備えた善き少年だった。彼の傍には常にカグツチとワダツミが控えており、信頼し合う彼らを一歩離れて眺めることが、儂は密かに好きだった。
 ユーゴの物語を書いたら、お前に一番に読ませるよと、カグツチに言った。
 カグツチは大層喜び、必ずですよと念を押した。
 500年前の、雑談だ。

「書いてみたはいいが、インヴィディアでは上映できんものでして。今も、まあ、まだ難しいだろうなあ。人の心は、そう簡単には変わらない。だから、儂の舞台を気に入ってくれたお前さん方に、これを差し上げましょう。好きにしてくだされ。帝国の宝珠カグツチについては話に組み込ませて貰ったから、少々気恥ずかしいものですが。もし失礼なことを書いていたら申し訳ない。前もって謝っておきましょう」
「良いのですか?」メレフが問う。
「構いません。このまま日の目を見ずに、儂が死んだら処分されるのを待つだけの状態より、ある意味当事者のお前さん方の暇潰しにでもなれば本望だ」
「……良かったわね、カグツチ」

 ヒカリが話に割り込む。ヒカリだけは、儂の意図を知っている。あの夜の会話を知らないにしても、あの頃のカグツチが儂の物語を好いていたことを、ヒカリだけが知っていた。
 カグツチはヒカリを見て、次いでメレフを見た。思わぬ幸運に頬が紅潮している。胸のコアクリスタルの辺りで右手の握りこぶしを作り、気持ちを静めているのが手に取るように分かった。あの頃儂は、彼女が儂の物語に傾けてくれる熱量を、作者であるがゆえに誰よりも近くで感じていた。

「カグツチ。お前に。お前が最初に読むといい」

 メレフは本をカグツチに手渡した。

「メレフ様! そんな、よろしいのですか?」
「お前の方が、コール殿の舞台を気に入っていた。それに、ユーゴ様はお前の過去のドライバーだ。より当事者なのはお前だろう? まだ誰にも読まれていない物語……お前が、最初の読者になればいい」

 最初の読者。
 そうだ、それだけは変わらない。
 お前が何度思い出を失って、新しいドライバーを得て、何度目のお前になっていたとしても、その事実だけは儂にとって書き換えようがない絶対だ。

「ただし、私が読むまで感想は控えてくれよ。私だって新鮮な気持ちで楽しみたいんだ」

 ウインクをするメレフに、カグツチは手渡された儂の本を抱きかかえるようにして微笑んだ。

「はい、メレフ様。ありがとうございます。……コールさんも、本当にありがとうございます。大切に読ませていただきますね」
「おう」

 ぞんざいに答えた。あの頃のように。

「よろしければ、またここに来ることがあった際には、感想を聞かせてくだされ」

 儂のために書いていた儂の物語。
 彼女をきっかけに読者が増え、彼女を思い出して劇場を手にし、人々の記憶に残るに至る。
 思い返せばあの頃の儂はずっと、興味などないふりをして、幸せそうに感想を告げてくれる彼女の言葉を待っていたのだった。

 
 かくして、儂の物語は完結する。 
2018/10/15

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