残夢 関係が腐れ縁の様相を呈し始めている。「それはおおきに」「褒めていない」 寝そべるビルド・ムースを横目に赤茶けた岩場を歩きながらジークは振り返りもしない。楽しげな背を軍帽越しにメレフは睨むが、この程度で大人しくなるような男ではないことなど百も承知している。「寝食を共にした仲やからな」と想像上のジークが笑う有様で、「そういうものじゃない」と語長を強めて溜息を吐けばここでやっと本物が視線を寄越す。「なんや」「別に」「機嫌悪いな」「誰のせいだ。言っておくがな、私に与えられた任務は護衛であって、お前のお守りではないんだ」 天の聖杯とそのドライバーと共に楽園を目指す旅の道連れだった頃は彼の自由さに憧れご相伴に預かって楽しんだこともままあれど、目的は果たされ、救われ変貌した世界に帰れば、彼の奔放さはメレフを振り回す不確定要素の一つでしかない。腹が立つことにジークは己の自由人っぷりを自覚しそして弁えており、護衛の任についたのがメレフでなければせいぜいアルバ・マーゲンをぶらつく程度に抑えただろうことが鮮明に想像される。「相変わらずメレフはお堅いなあ。ええやん、どうせワイの護衛なんか、このついでに休めっちゅー皇帝からの口実やろ」「その通りだが、自分で言うな」 スペルビア帝国主催の、ルクスリア王国との二国会談。世界が巨神獣と雲海ではなく大地と海で構成されるようになってから、スペルビアにとってルクスリアは隣国となった。海路を突っ切り最短距離を行くなら属国たるグーラより位置関係は近い。雲海時代にルクスリア王国が開国した際真っ先に条約を結んだのがスペルビアということもあり、二国は急速に接近していた。その一端である今回の会談についての詳細は割愛するが、彼の国の第一王子たるジークもゼーリッヒ王と共にスペルビアに来訪。本人が大仰な護衛を望まなかったことと、かつての仲間ということもあり、メレフがルクスリア第一王子護衛の任を承った、のだが、護衛役がメレフと知った瞬間彼はルクスリア王子ジーフリトとして被っていた猫を百匹ほど纏めて脱いで馴れ馴れしくメレフに笑いかけた――エルグリア旧市街行くで、道案内よろしゅう。 いい笑顔で相手を振り回す人間と言えば古今東西幼馴染か腐れ縁と相場が決まっており、幼馴染で有り得ない以上選択肢はあらかじめ一つに絞られている。出会って数年も経過していない以上役不足の感は否めないが、仲間ではなくなった現在それ以外に一言で関係を言い表す名称もない。「ところで、どうしてエルグリア旧市街なんだ」「いや、前連れてってくれたやん。夕日が綺麗な穴場がある言うて」 動機が他愛ない思い出にあるところが更に腐れ縁と呼ぶべき妥当性を後押ししてメレフの頭痛の種になる。 あの旅の最中、スペルビアに立ち寄った折。他のメンバーが何をしていたかは忘れてしまったが、偶々二人で暇を持て余した時があった。母国やろ、なんかお勧めないん? と聞いてきたジークに、自国自慢ならいくらでもできるメレフは穴場の絶景スポットがあると言ってエルグリア旧市街まで案内した。お国自慢対決をなんとなく繰り返すことが多かった彼に、ガイドブックに載っているような有名どころを紹介するのは癪だったのである。人知れぬメレフのお気に入りで、そう言えば誰かに教えたのはジークが初めてだった。「あの時も聞いたかも知らんけど、ようあんな場所知っとったな」 眠るブリッヅ・アングを起こさないよう声を潜めながらジークが言う。彼の不運体質が発動してその尾を踏みでもしないかと心配したが、幸いなことに杞憂で終わった。「昔な。まだ幼かった陛下と」 離れた位置で付いてきているはずのカグツチとサイカの気配を確認しながら答える。赤錆のこびりつく鉄塔を見ながら安全なルートを脳内で模索する。初対面の時には強固であるはずの木柵がなぜか彼の寄り掛かった場所に限って根元からぽっきりと折れ雲海に落ちた男である。護衛を任じられた以上気を付けて付け過ぎることはないが当の本人に緊張感が欠片もない。そう言えば以前案内した時も足を滑らせかけていたことを思い出し、安全性の高い遠回りの道を行くことにプランを切り替える。「へえ、結構やんちゃやったんやな、あんさんとこの皇帝陛下」「お前より余程大人しく聡明であらせられたがな」「へーへー。ワイかてサイカと同調するより前は結構大人しい優等生な純朴少年やったで」 大仰な物言いが胡散臭いことこの上ない。「誰の発案やったん、それ」「主犯は陛下。実行犯は私。カグツチが共犯」 ワダツミは当時前帝陛下のブレイドだったため除外。 ジークに道の指示をしながら過去を懐かしむメレフの頬が緩む。最初はグーラで湖へ抜け出したのがきっかけ。その時はカグツチさえ出し抜いて二人だけで。その後当然メレフはカグツチに叱られたが、説教の内容はネフェルと屋敷を脱走したことそのものではなくてカグツチに何も言わなかったことについてだった。彼女としては自分の目が届いてさえいるなら義姉弟のささやかな自由は黙認範囲だったらしい。以降、ネフェルが即位するまで秘密の冒険は繰り返された。 遠い記憶だ。夢と呼ぶ方が相応しいほど。 ジークが大笑いする。「ワイのことどうこう言えんやん、メレフも」 現在進行形の自由人に言われたくないと反論しようとしたところでイグーナの斥候が目に入り互いに互いの口を覆って身を隠す。カグツチとサイカの合流を待って薙ぎ倒してもいいがモンスターとはいえ無用な殺生は好かない。生態系に変な影響があっても困る。「まあ」 イグーナの視界に入らないようにしながら、錆と劣化の少ない鉄梯子を見つけて登る。日は既に西に沈み始めている。雲海時代よりも遥かに低い彼方の海の向こう側へ。「今となっては、ある種の夢だな」 目的地へ到着。かつては真白い雲海を一面茜に染め上げた太陽は、記憶の雲海より更に眼下に広がる海原に紅を敷きながら白い煌めきを散らしている。そのただ中を突っ切る貨物船の影を認める。進行方向から推測するにグーラからの食糧輸送船だ。小さな船影だが世界樹の頂から巨神獣を探した時より余程判別がつく。思い返して今更、よくあんな逼迫した状況で保護者役が揃って長閑な会話を行えたものだと我がことながら呆れる。「夢か」 右手をサンバイザー代わりに片頬を吊り上げて景色を楽しんでいたジークが呟く。返答を期待しなかった感想を拾い上げられて驚きながら、彼が続ける言葉をメレフは聞く前から知っていた。 だから先回りして言葉を奪う。「夢と言えばあの旅も、そういう類のものだった」 ジークはメレフの先手を前もって知っていたようにのんびり笑う。「色々あったけど、楽しかったなあ、あれは」 自分たちの夢ではなかった。少年少女の夢の結末を見届けるための旅。同時に行き詰った世界の救済を心のどこかで望んだ分の悪い賭け。 その中で出会った。 隣のジークを見上げる。自分より顔半分ほど上にある目線。同じことを考えていたのか目が合う。含み笑いを睨み返す。軍帽の鍔越しに何度彼を見上げたか数えることはやめている。 少年の夢は果たされ賭けに勝利し世界は変わる。夢と現実は同一線上に結ばれ縮小再生産を続けるばかりだった世界が数百年ぶりに拡大する。地図を描くところから始まる新世界へ再び旅立った少年少女を見送って大人たちは現実へ帰る。正確には少年少女に見送られて国に帰った。雲海の晴れた世界は夢に似ていたが待ち構える現実は生々しく一に復興二に新世界への適応三に資源問題の解決四、五と続きその他諸々、横っ面を叩かれ続けて比喩でも何でもなく夜に夢を見る暇もない。特に世界を変えた当事者としての説明責任及び特別執権官としての諸事に追われるメレフを見かねたネフェルがジークを口実に事実上の休息を与えることは今回のことが初めてではなかった。他国の王子をそのような私用に使うのはどうかとメレフは内心の個人的事情を封じてあくまで客観的見地から抗議したこともあるが、ジークもジークで十年ぶりに帰った政治の日々においてメレフを清涼剤として認識している節があり、ここにスペルビア皇帝とルクスリア王子は炎の輝公子を巡り奇妙な利害の一致を見た。当人から言わせてもらえれば、勘弁してほしい。 とにもかくにもメレフとジークはそれぞれの現実へと帰還し美しいとか楽しいとは言い難い地に足を付けて生きている。圧倒的な現実はふわふわと愛おしかった思い出を簡単に凌駕して押し潰し、メレフはもうあの旅の他愛ないひとつひとつの会話を明け方の夢程度にも覚えていない。カグツチのように日記を付けておけばよかったと少しだけ後悔している。「ホムラの飯がたまに恋しいわ。ありゃ普通に料理人として食っていける腕やったな」「雲海もなくなってサルベージャーの単語の意味が変わっただろう。レックスは今度は海に潜っているんだろうか」「あの人工ブレイド群、スペルビアはどないするん? トラは男のロマンがどうこう言ようたけど、ハナは確かに可愛らしいもんやったなあ」「ヒカリが天の聖杯としての力を失っただろう。この間彼らが来た時それでもまだカグツチより強いと威張るものだからカグツチもむきになって。あの決着は結局着いたんだったか」「コアチップの生産を止めたんもあってゲンブの雪も弱なってな。こないだ遊びに来たニアなんかは寒うのうてええて言うて、サイカまで賛同しよった」 とりとめのない話を繰り返す。正直なところ、現実味はない。昔々あるところにから始まるお話がめでたしめでたしで終わってその続きを夢想する無為に似ている。要するに、それらはもはやメレフの現実とは切り離された遠い世界のお話に等しい。既に彼女は栞を片手にアルマ皮の表紙を開いてお話の第二部を眺める読者であって主人公と冒険を共にする登場人物ではなくなっていた。「お前はどうだ、最近は」「ぼちぼちやな。メレフは?」「まあ、それなりに」 物語から脱落した者同士の会話は当然ながら詳細に欠ける。日々は雑然として多すぎる話題に一周回って上げるべきトピックは特にない。それなりに弾みそうな心当たりがあるにはあるが発展性に難があり俎上に上げる価値がない。「面倒な話もあるけどな。嫁とか世継ぎとか。老人どもがうっさいうっさい」 と思っていた端から話題になり少し驚く。太陽の位置が見る間に低くなっている。帰り道の算段を考える。振り返れば二十メートルほどの後ろでカグツチとサイカが会話しているのが見える。彼女たちがいれば夜の光源に不安はない。 思考の時間稼ぎをしてからジークに答えた。「今更そんな話題か? 許嫁くらいいるだろう」「おったけど国を出とる間に解消されとった」「当然だな。女はいつまでも男を待たない」 ついでに言えば父親もそれを許さない。「別に待たれても困るからええねんけど。顔も覚えとらんし」「薄情だな」「あっちもワイみたいなんと一緒になるよか今の方が幸せなんちゃう? 確かまともな女やったしな」「自己分析が正確で良いことだ」 ふと背中の空を見た。崖の向こうの薄暮。群青に染まる。赤は出会いの色、青は別れの色。雑学が頭をよぎり、狭間のここは何色だろうと考える。どちらでもあってどちらでもない。あらかじめ別れを決定づけられた出会い、あるいは別離を済ませてからの出会い。文学は専門ではなかったのだが、とメレフはジークを見る。ジークもメレフを見ている。同じように目を合わせたことがあった気がする。たとえばつい先ほどで、たとえば旅の中で幾度も。繰り返しすぎて既視感さえ覚えない。「あんさんは?」 初対面の折、そう呼びかけられた。距離は近くなり、さほどの時間を要さず、お前、と、あの旅の中では呼び合うようになった。彼からの二人称のみが退化して、メレフは未だにお前と呼んでいる。ありもしない未練を連想させて気に食わないが、貴公と呼び直すにはジークの言動は相変わらず敬意を払う気が失せる程度には適当だ。その裡に尊ばれるべき決意が山ほど潜んでいることを、たぶんサイカの次くらいに知っているのはメレフだけれど。「私には最初からそういう相手はいない」「は? 一応皇女やろ? そうは見えんけど」「一言余計な癖は直すべきだと進言しておこうか。お前の政治的立場と、単純な未来のために」 サーベルに手を掛ける。世界樹で似たような問答をして"分からせた"ことを思い出すが、今のジークを見るに全く分かっていなかったらしい。引き攣った顔で降参のポーズを取った素直さに免じて抜刀はせずにおく。 溜息を吐き出す。先に失礼だったのはジークの方なのに場面だけ見たらメレフの方が立場を弁えていないのが全く納得がいかない。「皇子だったから。候補はいたらしいが、当然全て女性だ。陛下の御生誕と同時に残らず白紙に戻った。その後何度か話は出たが決定打に欠けてな」「ああ。そういやなかなか複雑な事情やったな」「最近になって議員が色々話を持ってくる。まあ、だから、そのあたりはお前と同じようなものだな」 ふいに既視感に襲われる。こんな話をいつかジークとした気がする。きっとあの旅の中の他愛ない幾つも積み重ねて忘れた雑談の中で。思い出を探し出す作業は、忘れた夢を思い出す行為によく似ていた。掘り返したそれが輪郭を失って本物かどうか怪しいところなどそっくりだ。「ふうん。なら」 だからメレフはジークが気もなく寄越した提案を既に知っていたような気もするし、晴天の霹靂だったような気もする。さして驚愕しなかったから、前者の可能性が八割と見る。「ワイらがくっついたらなんや丸う収まる気がせえへんか?」 間。 ここに第三者がいたらその予想を外す程度にはメレフは冷静で、それでいて彼女自身が思うよりは動揺していた。「婿入りなら考える」「あかん、ルクスリアが併合されてまう」 そういう問題ではありませんメレフ様。王子、突っ込むところそこやない。互いのブレイドがいれば二つ分の溜息交じりに掛けられたはずの言葉は当然ながら顕現しない。ふと二人を振り返れば呼ばれたと思ったのかこちらへ歩こうとしたのを片手を上げて制する。足元に伸びる影の長さに今気付いた。「悪うはないやろ? アーケディアが滅んだ今、ルクスリアはスペルビア・インヴィディアのどちらにも属さん唯一の第三国や。貧乏国家やけど」「それでルクスリアはスペルビアの技術支援を格安で受けられるわけか」「関税安うしてくれるんと金銭支援もあったら嬉しいなあ」「それ以上は正式な手順を経て申し込んでから皇帝陛下の返事次第で詰めてくれ」「メレフ的にはどない?」「私は陛下の御決断に従うだけだ」 無益な会話だ。まるであの旅の仲飽きもせず日々に降り積もらせた言葉たちのように。ジークは笑っていて、メレフは真顔で、ただカグツチが微笑ましがっていた程度には眦が和らいでいる。 太陽の半分が海に沈む。橙の巨大な半円が溶けていくのを直視できる。腰に手を当ててそれを眺めるジークを見上げ、眼帯に刺繍された亀を見遣る。亀ちゃん、と気さくに呼んでいたニアの声を思い出す。掻き消すようにジークの声。 ――全部終わったらルクスリアに来んか? くだらない冗談とそれなりに真摯な世界の話題の、どちらでもあるようでどちらにも属さない声で為された、あれは出来損なった求婚だ。ジークが不誠実だったと言うわけではなくて、共感と信頼だけを三割程度の核として、後は人と人の間に生じるものを、嫉妬も尊敬も軽蔑も愛も恋も友情も敵意もその他諸々無暗矢鱈にめったら曖昧に張り付けた二人に相応しい程度を探ったら、そんな不誠実が一番誠実だった。そんなお話。その残骸として残された縁は腐り始めている。 少年の夢のすぐ傍でメレフもまた夢を見ていた。自由で、目的は確からしさに欠けていて、わくわくして仕方がなかった。夢を重ねた訳ではなかった。託したわけでもなかった。メレフはメレフの夢を見ていた。夢の中でまた夢を見た。生涯見るはずがなかった夢。夢は終わり、覚めて、明けて、共に現実に帰ったはずの男と、もしかしたら今もまだ夢を見ている。夢。創作。フィクション。もしも話。絵空事。そういう類のよくあるお話。お話のためのお話で、ピリオドを打ち損ねた小説。 ――そうだな、"全部"終わったら。 軽い気持ちで完結を拒んだのはジークで、おしまいを書き損じたのはメレフだ。メレフがうっかり間違えて切ったその期限がいつ訪れるのかは、今のところ全く以て定かではない。メレフの寿命が尽きる前をちゃんと指定できたのかさえ怪しいところがある。「なんか前もこんな話せぇへんかったか?」 ジークが首を捻る。 太陽が沈んでいく。「ああ。ついでに言うと、同じような結論に至った記憶がある。今思い出したが」「せやな。せやった。うわー、同じ女に二回振られるとか勘弁してほしいわ」 知ったことか。それはメレフの責任ではない。「今の会話なかったことにならへん?」「好きな方をなかったことにしてくれ。そろそろ帰るぞ」 なかったことにしたところでメレフはどのみち受諾も拒否もしていない。ゆえに何が生じるわけでも、何が失われるわけでもない。自分たちの関係に似ていて、自分たちがこんな関係だからこそどっちつかずの結論しか出ないと言い変える方が妥当かもしれない。 メレフは考える。ジークの傍で生きる自分。旅の中で望んだ未来な気もするし、考えもしなかった姿な気もする。思い浮かべようとして早々に想像力の限界にぶち当たり夢想しようとした風景が破綻する。子供の名付けで揉める確信だけは得た。取り敢えず、胸は高鳴らない。 そういう類のものではなかった。自分たちは。あの旅から今に至るまで。 ではどういう種類のものかと問われれば、首を捻る以外の返答を今のところ用意できない。 そして未来については現状不明で、メレフにその決定権はない。ネフェルが思うスペルビアの未来を描く絵具になるだけだ。絵具の側はどんな絵に使われたいかと聞かれることがもしあれば、皇帝陛下あなたの傍にと述べさせて頂きたいところだが、結局そこにジークの姿はない。「やったら両方なかったことにしてもう一回言うからそれで上書きってことにしてくれへん?」 メレフは目を眇める。この男の中でどんな論理的帰結があってその解が導かれたのか考えようとしてやめる。不毛だ。「好きにしろ」 踵を返す。「おう」 軍帽の角度を直す。この背に投げられる上書きに興味は沸かない。「ワイで妥協せぇへん?」 三度目の正直という諺があるが、二度あることは三度あるともいう。メレフとしては、後者の方が真理に近いと信じている。今確信した。そんな口説き文句があってたまるかと振り返り、この場においてそのふざけた提案が口説き文句として成立してしまった以上メレフには返答の義務がある。少なくともジークがそのつもりで発してメレフがその通りに受け取ってしまったからには、常識を軽くあざ笑って戯言は口説き文句としてこの場に君臨していた。 メレフは笑う。「妥協せねばならぬ時が来たら、そうさせてもらおう」 たとえば青い絵具が自分を炎として描いてくれと主張したとして、描き手はいいえ空に使わせてくださいと頼めば絵具ははいそうですかと大人しく空になるしかないし、海までは納得するとして、赤と混ぜて紫にされ毒の花弁を彩るくらいなら、いやいやせめて青のままそこの稲妻にしてくださいと願ってみる、その程度の妥協。 今までよりは幾分まともな返答が出来たと自画自賛したところで、相変わらずお話の終わらせ方を間違えたことに遅れて気付く。馬鹿を言うなと一言、それで目覚めるはずだった現実をまた見失う。 まあ、いいか。 メレフはおよそ彼女らしくない適当さで結論する。 どうせこの夢は、メレフの現実とは交差しない。メレフはスペルビアの為に生きてそして死ぬ。そう決めている。自分はこうと決めたことを貫くことに定評があるし、こうと指定された形に収まることに自信がある。それに現実と夢が出会った時負けるのは夢だと相場は決まっている。 それでも夢の側が我こそが現実だと主張し消失を拒むならその根性に敬意を表して餞にこの男とキスの一つくらいすることにメレフはまったくやぶさかではない。あの日のように。このエルグリア旧市街で海ではなくて雲海に消える夕陽を見ながら求婚と呼べない求婚に返答と言えない返答で応じたその後の一瞬のように。あの口付けもジークによってなかったことにされたのだろうか。もしそうだとして、特別惜しいとは思わない。「行くぞ。カグツチもサイカも待ちくたびれている」 振り返る。 夕日が沈む瞬間を見る。 自然、これまでの会話の間、太陽はその姿を世界に保っていたことになる。薄暮に押し負ける前の夕焼けが、群青に塗りつぶされる前の真紅が景色を描いて、自分たちはその狭間で立っていた。 それで充分。 二人の間を赤と青のどちらで結び直すのかは、今二人を繋ぐ縁が腐り果てた夢の終着で考えればいい。 メレフはその日を待っている。 そしておそらくはジークも。 確認し合ったことはないが、こういうことは当事者二人が同じことを考えているものだと相場が決まっているものだし、あの旅の中で無駄に意見の一致を見ていた経験上、ここで結論を決定的に違えている選択肢はある程度の希望的観測をもってあらかじめ失われていた。 暗がりに足を滑らせかけたジークの腕をメレフが反射で掴み、その様を見ていたカグツチとサイカが慌てて駆け寄ってくる。 夢から覚めたその朝が、この今と同程度に幸福であるのなら、言うことはもう何もない。 2018/05/03 [2回]PR