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Dear, my dear.

ゼノブレイド2非公式二次小説置き場。 ジクメレ・カグメレ等メレフ中心。 管理人:琉

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しるしをつけて 1


 目に見えないものこそが真に価値を持つのだと人は言う。
 まるで世界の摂理のように今日もどこかでそんな言葉は繰り返される。その時ハイコンテクストの裡に指定されるものは命や魂、思い出に愛やら恋やらといった感情、それから誰かと誰かの絆。この世界で息をする知的生命体が物心つく前から余すことなく叩き込まれる、一転の角もない完璧な球体の形をしたそういったものを、だから信じて疑わず大切に守って生きていきましょうと、窓の形に四角く切り取られたアルバ・マーゲンの幾つもの屋根の下で、職人の寄せ木細工が見守るグーラの食卓で、念入りに寒さを締めだしたルクスリアの暖炉の前で、子どもたちの常識に根付かせるべき倫理感はそういう風にして育まれる。
 しかし見えないはずのそれらは案外どこでも観測できる。ドライバーの生死は傍らのブレイドが顕現しているかコアに戻ったかで容易に判別可能であるし、ドライバーでなくても呼吸と心臓が止まれば抜け殻は温かさと柔らかさを失ってやがて死後硬直が始まる。思い出は躍起になって絵や写真に残され感情のよすがとなり、愛や絆はこんな夜には遥か遠くサフロージュの舞うインヴィディアのエーテル光が薄ぼんやりと照らす寝室やオーロラを眺めるリベラリタスの簡素な屋根裏で、証拠を見せてと翻るスカートが詰め寄りああ確かめてしんぜようと答えた革靴が育んでいるに違いない。
 ではドライバーとブレイドの絆はどうなのだろう。ブレイドが肉体を得ていることこそが証明であると胸を張る声がある。あるいはブレイドからドライバーに供給される指向性を持ったエーテル流がそうだと答える者もいるだろう。それは現在の時間軸に限定しては確かに唯一の絆と称して差し支えないが、過去から未来に目を向ければブレイドにとっては代替可能なものに過ぎないという指摘に、今のところ人類は回答を用意できない――のが、通説であり、常識であり、事実であるはずだった。
 メレフはそんなものがもはやこの世界から失われた確証を探して書類の一言一句を注意深く読み進めていた。
 紙を繰る音と呼吸だけが静かに降り積もるメレフの自室で、左上端で纏められた報告書に目を通す彼女の表情は真剣そのものだ。身に纏うのは分厚い軍服ではなく柔らかな生地のシャツにケープを羽織った軽装で、髪も普段軍帽の中に隠しているよりは緩くバレッタで纏めているだけに過ぎないが、眼差しの鋭さは任務中と変わりない。眉を潜めながら文章を読み進め、視点は動かさずに卓上のカップに手を伸ばし、持ち上げた軽さに空と知ってそのまま戻す。麗しき特別執権官に憧れる帝都の少女たちがここにいれば甘い溜息を欲しい儘にしただろうよく伸びた背中が背凭れに沈む。最後の頁まで読み終えて溜息を吐き、書類を手放して両の中指で疲れた目頭を抑えた、そのタイミングでノックが鳴る。万年筆の傍らに転がしていた懐中時計を見やれば午後十一時を回っており、こんな時間に私室を尋ねる権利を有しまた行使するのは一人しかいない。
 
「入っていい」
「失礼いたします」

 瞼を抑え付けたまま許諾すれば軽やかな声と共に入室してきたのは想像通りカグツチである。
 
「そろそろお休みになってはいかがです?」

 優雅な手付きで卓上に差し出されたティーカップにメレフは頬を緩める。たおやかに湯気をくゆらせるアルマのホットミルク。就寝を妨げないように茶ではない気遣いが嬉しい。口を付けると甘味が強い。メロシア・ハチミツが溶けているようだ。

「うん、まあ、それより。これで全部か?」

 書類の束をとんとんと指で叩く。たった今一通り読み終えたそれは部下から上がって来たものではなく数日前メレフ自らカグツチに頼んで調べてもらったものだ。

「ええ。我が軍が保護した技術者のみならず、グーラで受け入れた難民のものも含めて全て」
「インヴィディアのものは?」
「一応、市井の噂程度のものなら。信頼性は担保しかねるのが正直なところですが、それでよいと仰っていたのでその通りに」
「ありがとう。流石の手際だ」
「恐れ入ります」

 軽く一礼し、「それにしても」とカグツチはメレフの指先へ視線を移した。

「突然、アーケディアから流出した技術を調べろなどと……それもご確認にプライベートを費やされて。何かあったのですか?」
「いや、急に降って湧いた案件というわけではないんだ。ただやっと少し余裕が出来たから、今のうちに確認しておきたいことがあってな」

 かつて当然の顔をして広がっていた世界、すなわち上を見ても下を見ても白い雲ばかりが景色を埋め尽くして、そこに浮かぶ巨神獣アルスは世界樹を中心に回遊軌道上を周回し、命はその体躯の上でのみ生存を許されていた、そんな世界が、雲海時代と呼ばれるようになって半年が経過していた。
 破壊を義務付けられて生まれた天の聖杯は、かつて英雄と共に一度世界を灼きながらも救った天の聖杯と共に、新たな英雄によって斃されて、同時に限界を迎えていたアルストは再生された。神の怒りによって世界を覆っていた雲海は晴れ、その下に隠されていた、それまで人が大地と呼んでいた巨神獣の居住可能面積の数倍は下らない恵みの大陸は人類に解放された――現代の英雄譚と世界の再生物語は大筋を事実の通りに、いくつもの真実は省略されて端的にアルストに膾炙している。当事者の一人であったメレフはこの世界の成り立ちまで含めて全てを知り、スペルビア皇帝ネフェルを含めた世界の首脳には正確なところを報告・共有したが、重要なのはそこではなくて、とどのつまり激変した世界への対応にメレフは忙殺されていた。デバイスの襲撃からの復興、寿命を終えたスペルビアの巨神獣から得ていたエーテルエネルギー及び地熱エネルギーに代わる動力の確保と発電の効率化、新大陸の調査に各国との貿易・交通手段の整備、混乱に乗じて活動する帝国やグーラ領での反乱分子の鎮圧等。倒れこそしなかったものの記憶が飛んでいる時間が一日や二日ではない。カグツチにも付き合わせて随分と無理をさせた。だが、余計なことを考えなくて済んだという意味では、メレフにとってはその激動はありがたくもあった。
 最近ようやっと、多忙は変わらずもまともな睡眠時間程度は担保できるようになった。そこでかねてより懸念していたはずのことを思い出し――頭の片隅には常にあったのだが、三秒を数える前に眼前に積まれた問題に押しのけられていた事象であった――カグツチに情報収集を指示した。

「何を探されているのです?」

 カグツチが首をかたむける。
 実を言うと、進んでカグツチに教えたいことではなかった。ただ頼めるのがカグツチ以外にいなかったので彼女の助力を求め、期待に応えて満点の仕事をしてくれたカグツチにはその答えを知る権利がある。
 タイプライターが出力した整然たる文字列を眺めながらメレフは曖昧に微笑んだ。

「――ブレイドイーターの技術」

 敢えて簡素に答えた。
 カグツチが息を呑む音が聞こえた。
 傍らに立つ彼女を見上げ、メレフはゆっくりと頭を振って注釈する。

「ああ、勘違いしないでくれよ。ブレイドイーターを求めているわけじゃない。アーケディアが沈んで、その技術がもはやなくなってしまった事実を探していたんだ」

 法王マルベーニの凶行により、世界の革変を待たずしてアーケディアは雲海に沈んだ。彼はアーケディアの巨神獣が擁する住民を避難させなかったことは後に分かった事実であるが、それでも一部運よく脱出できた人間たちは主にスペルビアとインヴィディア、それからグーラのスペルビア駐屯地で難民として受け入れられている。各国の難民を受け入れていたアーケディアが難民の立場になろうとは運命の皮肉もあるものだと民たちは囁いているが、人の移動が起きたからには知識や技術の流出が同時に起きて然るべきだ。特にアーケディア人の難民は学者や建築家等知識人が多い。
 難民の受け入れという損を払わされたからには、これまで多く独占されてきたアーケディアの技術を吸収し自国の発展に利用しようという動きがスペルビア・インヴィディアの両国にある。メレフはそれ自体に異存はない。継承されてきた叡智は受け継ぐのが誰であれ未来に遺されるべきだと思うし、その恩恵を国や民が預かるのは喜ばしいことだと思う。
 ただメレフは一つだけ、遺されてはならない技術を知っていた。
 ブレイドイーター。
 人間をベースにした、人間とブレイドの細胞単位の融合。
 喰われた人間の死を前提とするマンイーターと異なり、移植するコア・クリスタルの程度にもよるが人間・ブレイド双方の生存・存続が可能。成功した暁にはベースとなった人間が一部ブレイドの能力を利用可能になる。これはマルベーニとジークの例から確定の結果と見ていい。
 更には、コアを移植された人間の成長速度の停滞。
 元来長寿であったアーケディア人とはいえ五百年外見の変わらなかったというマルベーニと、ニアから聞いたイーラの構成員サタヒコが五百年前の聖杯大戦の難民であったという話からこれも効能と考えて間違いない。
 それは歴史上人間が求め狂った不老不死の命題に対する限りなく正解に近い回答だ。
 加え観測できる範囲においてデメリットがない。コアを委譲・移植したブレイドが再同調不可能になることはファン・レ・ノルンの例から知れるが、それはブレイドの側の話であって、人間が負うべき不都合が何もない。
 ブレイドの能力と不老不死性を引き継ぐ、人間にとって都合のいい技術である。
 今はいい。その存在はあの時旅を共にした仲間たちしか知らないはずだ。けれどブレイドイーターたるジークがルクスリア王族であり、やがて国を継ぐ立場にある以上、その概念は必ず大衆の知るところになる。ジークが歴史の陰に消えればその心配もないが、彼は未来の歴史書が必要とする人物だ。
 その技術を有するアーケディア人が難民として生き永らえているとしたら。スペルビアもインヴィディアも、その魔法のような技術オーバーテクノロジーを放っておくはずがない。必ずや研究は進み実践に至る。どれほどの犠牲が出ようともその価値は十二分にある。その成果を以て二大国の軍事力は格段に進歩するだろう。どちらかがブレイドイーターを成功させれば抑止力として片方もブレイドイーターを生み出すだろう。
 そして人の身に過ぎたる力は増殖し、捨て去ることも出来ないまま世界に滞留するだろう。
 それははっきりと、世界の脅威だ。
 なればこそ、その可能性は潰すべきだとメレフは考える。
 創造主クラウスに一度見放されて、けれど眩しいほどの少年の真っ直ぐさに存続を許された世界である。価値あるものとして保つために、そんな未来はあってはならない。――当のブレイドイーターであるジーク本人も同意見である。ルクスリアにおいてはマンイーター及びブレイドイーターの研究を禁止するつもりであると彼は語った。

「だからひとまず現状を確かめておきたかったんだ。初動を考えるにも正確な事実が分からなければ対策のしようがないし、技術流出自体が起きていないのならそれに越したことはない」

 メレフの説明に、カグツチは得心したように頷いた。

「それでしたら杞憂ですわ。ブレイドのコアを人の内に取り込む、その発想自体がまだ市井にないことは確実です」

 どうやらカグツチも個人的にブレイドイーターのことについて注意して情報を集めてくれたらしい。涼しげな声に合わせて、耳の側で纏めた髪の、炎によく似た青いエーテルの光が揺らめく。

「そこに纏めました通り、脱出した知識人は主には歴史家と教師、古代機械の技術士。ブレイドや巨神獣を専門にする学者もおりましたが人との融合の研究は一切。後は建築家や芸術家です」

 スペルビアが注目しているのはブレイドの単独行動において実力・能力の減衰を最小限にする実践で、インヴィディアの方は巨神獣からより効率的にエーテルエネルギーやコアチップを抽出する方策についてだそうだ。その程度なら健全な発展の範疇である。

「ブレイドイーターなど、そのような致命的クリティカルな研究者はマルベーニの側近で固めたと見る方が自然かと」
「そうだな。あの男が技術者を逃すとも考え難い。彼が慎重な男で良かったと思うべきか」

 メレフとしてはスペルビアの巨神獣を操り残り僅かだったその寿命を削り取ったマルベーニの所業を許してはいないが、それはそれ、この点だけは素直に感謝する。

「おかげで私が血迷う未来が一つ消えてくれた」

 笑って、両の指を絡め、てのひらを前方に突き出すようにして伸びをした。メレフにとってその言葉は八割方冗談であった。けれど傍らのカグツチが纏う気配がふいに硬質さを帯びる。見上げると、コアラインの走る額に困惑気味に下がる眉が刻む皺が寄っていた。

「メレフ様……」

 声が戸惑っている。あるいは悲しんでいて、あるいは怒っていて、そして続けるべき言葉に迷っている。
 そんな表情をさせたいわけではなかったのだがなと、メレフは人差し指で右の眦を掻いた。戯言だと告げる代わりに、敢えて明るい声を出す。

「なんだ、まだ怒っているのか?」

 あの遣り取りももはや半年前の出来事で、たった半年前の出来事だ。
 ニアがマンイーターで、ジークがブレイドイーターだと判明した直後。エルピス霊洞から脱出し、ホムラを救出に向かう直前のイヤサキ村。メレフの零した羨望と諦観。カグツチが珍しくメレフに向けて不機嫌を伝える表情を向けて、傷が残るのが嫌だっただけで彼女を拒絶したかったのではないと伝える言葉が上手く纏まらずにしどろもどろの言い訳になる、ふっと吐息を零したカグツチが柔らかく冗談ですよと笑ってくれた、きっとその時二人は同じ痛みを共有できずに宿していた。
 だからこそブレイドイーターの技術の存在はメレフ個人にとっても脅威だった。人間は間違う。ブレイドも。それはメレフの間違いを誘発するユウウツボカズラの蜜で、カグツチの過ちを後押しする屈曲したワインディングギアだ。
 可能性の根ごと存在しなければいいと思った。世界の為に、自分たちの為に。今世界の為に拒めた存在にいつか成り下がってしまわぬように。
 ひとまず、その願いは叶っている。
 代償に、もしくはその甲斐あって、前提にあった愚かな望みは実を付けない。

「怒ってなどおりませんが……。メレフ様こそ、まだ……羨ましいと、思っておいでですか?」

 尋ね返されて、メレフは三秒だけ瞑目した。誤魔化そうかと考えて、カグツチに隠し事が出来たためしがないことに思い至る。全く恐ろしい洞察力と観察眼だと今更にしみじみ思った。今だって、取り繕う前から本音を先回りされている。

「誤解しないで欲しいのは、あの時も今もお前との絆を疑っているわけではないということだ」

 言葉を重ねる方が賢明だ。感情を吐露し分かち合えば、ささくれる感傷の多少の慰めにはなるだろう。

「分かっている。お前は私を大事にしてくれている。私だってお前を大切に思っている。それは、伝わってくれていると、思う」

 カグツチを見上げる。彼女はメレフを見つめ返す。立って隣り合えば同じ位置にある目線が今はやたら高い。唇の角度を意識する。上手に微笑めているだろうか。たぶん眦がほんの少し情けない垂れ方をしている、それくらいは見逃してもらいたいところだ。

「ただ、目に見えるものが、絶対的な証明が……。まあ、羨ましくないと言ったら、嘘になるのだろうな」

 言葉にして、きり、と心臓が痛む。
 イヤサキ村の一幕よりも、その艶羨が強まっていることは、流石に言えない。

「見えなければ、信じて頂けませんか?」
「信じているし、知っているよ。すまない、これは私の悪い癖だ。……目に見えないものは、いつかなくなってしまうのではないかと、つい不安になってしまう」

 首を振るメレフは、自身のつまらない思考が幼少期の経験に起因することを自覚している。
 かつて、お前は皇帝になるのだと将来を定められていた。物心ついた時には養父から教育係から近衛兵から侍従から口々にその当然の未来を教えられたし、だからこそメレフは皇女としての教育を一切受けず、代わりに皇子として勉学と鍛錬に励んだ。その道を疑ったことなどなかった。だってそれが約束された人生の目的なのだから。
 淀みなく紡がれるはずだった約定はネフェルの誕生によって呆気なく奪われる。
 実父から頂けるはずだったものと代わりないと信じていた養父の愛が、薄れることはなくとも彼の実子であるネフェルに注がれるそれと性質が異なることを知る。自身が詰め込んだ知識や理屈が今後のメレフには必要ないと悟った教育係が暇を申し出る。近衛兵や侍従の眼差しが敬愛のなかに憐れみを宿す。幼い自分に取り入ろうと躍起になっていた貴族や高官たちがてのひらを返して離れていく。
 失望はしなかった。
 だって当然ではないか。証拠など何もなかったのだから。今更話が違うなんて言っても聞いてもらえるはずがない。
 メレフが勝手に信じていたものは最初からなかったのだ。
 あるいは確かにあったかもしれない。けれど消えてしまってもう二度と見当たらない。
 生まれてから十度目の春、メレフはそんな風に世界を発見してしまった。
 カグツチがいてくれなかったら、メレフはそのまま真っ直ぐに立つ方法を忘れてしまったかもしれない。これは最低の仮説だが、ネフェルを逆恨みすることもあったかもしれない。
 カグツチだけは同じだった。メレフの将来定められていた時も奪われた後も変わらず隣で微笑んで名を呼んでくれた。その存在を以てしても、メレフが学んでしまった世界の不確かさは揺らがなかったけれど、その不条理から守り切れなかった代わりに、カグツチはメレフに指針をくれた。

 ――私はメレフ様が何者でいらっしゃるのか存じておりますので。

 お前は変わらないんだなと言った幼いメレフに、カグツチはそう答えた。言葉はひどく透明で、笑いかける吐息は温かく、メレフの手を包んだ青い手は大きくて柔らかくて優しかった。

 ――あなたは私のたったひとりのドライバーです、メレフ様。

 その一言で、メレフはその先の十数年を生きていけた。メレフの自我はカグツチの示してくれた事実を支柱に再形成され、成熟した肉体と精神を手に入れるまでの不安定な時期を耐えた。結局は目に見えないその事実に、憂慮を患わなかったと言えば嘘になる。触れ合った手が伝えた絆がいつか掻き消えることが怖かった。皇帝でもないあなたなんて私のドライバーに相応しくないわと見限られる悪夢に震えた。その度に「メレフ様」と迷いなく差し出される呼び声にメレフの魂は縋りつき、そしてカグツチの腰に揺れる短剣に安堵の息を吐いた。新緑に光り輝くマグマラカイトの嵌め込まれたそれは、同調の証としてメレフがカグツチに下賜した、メレフがカグツチのドライバーである明白の証拠品であった。何よりカグツチがコア・クリスタルの形態でなく肉体と意識を得てメレフの隣に存在していることと、彼女がエーテルエネルギーをメレフに供給してくれることそのものが、メレフがカグツチのドライバーであることを指し示していた。
 それで充分だった。リベラリタスの羨望は一時的に仲間たちの強固な絆の形に面食らっての気の迷いで、その後メレフはちゃんと大丈夫私たちにだって誰に負けるはずのない絆があると胸を張れていた。
 低く暗い空が雷鳴ばかりを轟かせ、コア・クリスタルを埋め込んだ何かの成れの果てが跋扈するモルスの地に落ちるまで。
 何万年の絶望が瓦礫に降り積もって時を止めた世界の悪夢の最深で、レックスに武器とエーテルを供給し共闘するカグツチの姿を目の当たりにするまで。

 ――ああ、そうか、カグツチはブレイドだから。

 その瞬間メレフの思考は呼吸を始めてからの二十数年において一番明瞭で調子が良かった。悲しみも感傷も痛みも絶望も何もなかった。ただ空っぽに事実だけを諒解し、知識を現実として認識した。カグツチや仲間たちに隠さねばならない感情は彼女の内にはなかった。心は凪いで穏やかに、カグツチと仲間たちの無事をきちんと安堵できた。メレフの内側でずっと息をしていたはずのとある認識がようやっと輪郭を得た、それだけの話でしかなかったから、メレフを傷つける何かが生じる理由などありはしなかったのだ。

 ――カグツチというブレイドに必要なのはドライバーであって私ではないのだ。

 たったそれだけの、単純な事象。
 現在生じている個体であるカグツチにとってのメレフの唯一性が損なわれるわけではない。今のカグツチがメレフをたったひとりのドライバーと呼んだことに偽りは欠片もない。そこを勘違いしてはカグツチに泣かれてしまう。ただその背後に絶対的な二律背反がある。ブレイドにとって掛け替えのないドライバーは代替可能な存在である、と、矛盾を起こさず独立して立証される世界の摂理。
 それはメレフを傷つけなかった。緊急事態が連続したこともあり、カグツチからサーベルを受け取ってデビルキング・グルドゥと対峙した時にはその事実を知ったことすらメレフの頭から消え去って姿を現さなかった。世界が落ち着いて時間が生じるというのは、良いことばかりではない。考えずに済んでいたよしなしごとが息を吹き返してしまう。

「たとえば、この短剣では証になりませんか。メレフ様から頂いたものです」

 腰に刷いた宝剣の柄に触れてカグツチが言う。
 メレフは笑う。自然に笑えた。ただ、たぶん、少し困った顔になってしまった。
 その剣が証明するものこそ彼女の二律背反である。

「それは、私がお前に与えたものではない。お前のドライバーからお前に与えられるものだ」

 メレフの言は単なる言い換えではない。その二者は等価に為りえない。
 カグツチの過去の同調者の名をメレフは知っている。スペルビア皇帝として史実に名を遺したその人たちの偉業も逸話も、その時彼らのドライバーとしてカグツチが為した功績も、スペルビアの歴史の中に語られている。そして彼らと共に在った幾人ものカグツチは今のカグツチがメレフを慈しむように各々のドライバーを愛し尽くしただろう。嗜好や性質に影響を受け、サーベルを与えエーテルエネルギーを供給して守り戦っただろう――後者においてはモルスの地でちょうど今のカグツチがレックスに力を貸したのと同じように。
 メレフにとっては単なる歴史だったその事実が、断絶された過去ではなく、連綿と続くカグツチのコア・クリスタルが失いながら受け継いできた、きらきらと光る思い出の名残であることを、その瞬間メレフは、理屈を以て、理性の関与しない本能に近い部分で識ったのだ。やがてメレフも忘れられて遠く古く成り果て、彼女の記録に静かに積み重なる『唯一だったはずのもの』に変わることも。
 今ここにいるカグツチにとって唯一絶対であるはずのメレフはしかしカグツチというブレイドにとって代替可能なドライバーである。
 何度も言おう。
 それは感情の関与する余地の残されない端的で正確な事実でしかない。
 ブレイドはそういうものとして生成された存在だ。
 カグツチが唇をきゅうと噤んだ。メレフの言葉の意味を正確に理解できてしまったようだった。メレフの胸に強い後悔が宿る。甘えすぎた。言うべきではなかった。彼女がどれだけ自身の過去とその連続性を大切にしているかも、メレフの与えた短剣を大事に扱っているのも、メレフはきちんと知っているはずだったのに。

「すまない」

 慌てて謝る。こういう時に限って言葉は上手く出てこない。

「勘違いしないでくれ。私だってその剣は大事だ。私とお前を証明するものなのは間違いない。ただ、その。私の……、私、だけの……」

 カグツチという名の時間を貫く無二になりたいわけではない。それを望むのはあまりに贅沢だ。
 ただ、自明であるがゆえに冷たく強大な現実に穿たれてしまった唾棄すべき心象の空白地帯を埋める、カグツチの形をした何かが欲しいと、その大いなる空虚の淵に立つ世界の曖昧さを知っとおの頃のメレフが、この心臓の内側で声を上げている。
 ブレイドイーターの技術がアーケディアの墜落とマルベーニの死によってロストテクノロジーと化したことは本当に僥倖だ。世界を消耗させる一方の徒花を求めて狂わずに済む。
 沈黙が落ちた。にわかに居心地が悪くなって、誤魔化すようにホットミルクに口を付けた。ぬるくなったそれは湯気も経てないで白い膜を張っていた。先程口に含んだときよりも強い甘みが鼻に抜けた。

「困りましたね」

 カグツチが零す。二人の静寂を打ち破るのは彼女の声であると昔から決まっていた。

「どうすればメレフ様の御憂慮を取り除くことができるのでしょう」
「お前が気にすることではないよ、カグツチ」

 ミルクとハチミツの甘さを一息に飲み干してメレフは首を振った。カグツチが心配するほどメレフの心情は逼迫していない。都合がいいとは言い難い現実を知って受け入れた。それだけ。思い悩むべきことは他にいくらでもある。グーラとの交易路が雲海時代に比べて延伸された為に必要な燃料費が増大してしまったことだとか、雲海が晴れ潜る先を失くしたサルベージャー達への職の斡旋だとか。

「単に私の問題だ。この半年色々なことがありすぎて、少々疲れてしまったのかもな。ブレイドイーターの件は折を見て陛下にご相談しよう。概念自体が流出していない以上あまり表だって動くわけにもいかないからな」

 メレフは放り投げていた書類の束を手に取り端を揃える。最後に指先で軽く弾いてみる。ぱん、と小気味よい音が鳴る。これでこの話は終いとばかりに。後は眠ってこの無益なセンチメンタリズムを忘れ新しい朝を迎えればすべていつも通りだ。
 けれどカグツチにとってはそうではなかった。世界の事実と背中合わせにあるもう一つの自明をメレフは失念していた。
 カグツチが、この優しいブレイドが、メレフの下手くそな微笑を見逃してくれるわけがなかったのだ。

「……人は、こんな時にどうするのです?」
「え?」

 思いがけぬ問い掛けにメレフは瞬きを繰り返す。
 唇に指先を当てながらカグツチは言う。

「ドライバーとブレイドの絆を示す証……。申し訳ございません、私では、メレフ様にお喜び頂けるお答えをご用意できません。ですが、繋がりを求めるのは人間だって同じはず。人は、どういう風に確かめるのでしょう」

 真剣な顔付きがメレフを捕える。人間であるメレフがブレイドの思考を測りかねることが多々あるのと同じように、ブレイドであるカグツチにとって人間の心情を完全に理解することは難しい。それでもそこから何か答えを手繰り寄せようと発想したのだろう。何よりメレフは人間だから、人間の価値観に従うのは合理だ。

「そう…だな、私はそういうことに明るくないから、よくは知らないが……」

 しかし人間同士の個人的な交友関係に乏しいメレフは一般論として言を紡ぐしかなかった。

「手紙や物を贈り合ったり……ああ、だがそれだって途切れておかしくないな……。ううむ…」

 経験を知識で補おうとメレフの思考は急速に過去に沈む。その最中ふっと手繰り寄せたのはフレースヴェルグの村の酒場でとある晩に聞いた会話だ。カウンターに座っていたメレフの背中で、インヴィディア人の若い女性二人が酒に酔ってあけすけな会話をしていた。――気持ちいいとかそういうのはまあ別にして、気分はいいわよね、色々言ってくれるし伝わるし。ベッドの中の男の言葉を信じてどうするのよ。言葉だけじゃなくってそういう時だけ確認できるものってあるでしょ? まあ分かるけど。

「……身体を、重ねたり…………?」

 眉根を寄せ、首を捻りながらメレフは呟く。言った後でこれは主に男女の話だと思い至って頭を振ろうとする、それは動作として為される前にカグツチの声に遮られた。

「そんなことでよろしいのなら、できますよ、私」

 脳が一瞬機能停止する。
 カグツチを見上げると、彼女は真摯にメレフを見つめていた。

「メレフ様にご安心頂けるなら、メレフ様が望んでくださるのなら……そんなこと、私、いくらでも――」

 カグツチの手がメレフの右頬に触れた。躊躇いがちに、優しく、薄い薄い硝子細工の花瓶に触れるかのような手付きだった。苦しくなって初めて、呼吸を忘れていたことを知った。意識して呼気を吐きだす。触れるてのひらの体温が頬に溶けて、メレフの肩を震わせた。視線は交わり絡まったまま解けなかった。メレフは瞬きばかりを繰り返した。ひとつ息を吸って、その分心臓がうるさくなった。
 カグツチの頬が少しだけ緩んだ。メレフの困惑を見抜いて、けれど頬の手は離れなかった。メレフが一声やめてくれと言えば、彼女は落胆を美しい微笑で覆い隠して従順に離れていくだろう。またこのまま黙っていてもカグツチは何もしないだろう。メレフの心を置き去りにするような真似を、この世界でカグツチだけはする筈がない。
 泣きそうな音を立てて心臓が跳ねた。
 メレフは静かに目を閉じた。
 左の頬も優しい体温に包まれる。
 やがて、触れて、そして離れた。
 想像していたより柔らかくて、薄い皮膚から伝わる温度はてのひらのそれより少し高くて、少しだけぬめりとして生々しかった。感触は残滓として唇に張り付いたまま離れなかった。至近距離で見つめ合い、開かれた瑠璃色の瞳に映る自分の呆けた顔を見る。目を逸らすのではなくてもう一度閉じた。手を伸ばし、細い腰を引き寄せた。カグツチが嬉しそうに零した吐息を聞いて、剥がれてしまわなかったのとまったく同じ感触が熱と質量を伴って再度メレフに与えられた。触れ合い、押し付けるだけの拙いものだった。

「……どこまで、してくれる?」

 リップノイズと共に熱の失われた唇で、メレフは問う。

「メレフ様に望んでいただける限りの全てを」

 額を触れ合わせてカグツチは笑う。言葉に躊躇はまるでなく、全て隠すもののない本心だった。耳が笑声を拾う前から、メレフはそのことを知っていた。

「――なら、試して、確かめてみようか」

 立ち上がり、カグツチの手を引く――寝台まで。カグツチは素直に導かれた。一歩ごとに彼女の笑みが深くなる。早鐘を打ち続けるメレフの心鼓が聞こえているとでも言いたげだった。

 
 過去から未来に掛けて言えばメレフはカグツチにとって代替可能な存在であることに代わりはない。何をどう確認しようと戯れようとその事実が世界から消え去る、あるいはメレフにとってもっと都合のいい事象に書き換わることなど永劫ありえない。
 それでも、たとえば人と人が冬の寂寞を埋め合うように。
 痛みになり損ねた事実の理解を慰めるには、互いの体温を利用するのがきっと正解で、必要で、多少歪みながら全うな論理的帰結であることに間違いはなかった。

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