独占 兵士たちと巨神獣兵器の行き交うハーダシャルを、私は一人歩いている。目的地はない。ひとを探していた。正確に言えば、ブレイドを。普段ならば必ず傍にいるか、別行動をしていてもその居場所は必ず把握している彼女の姿を求めて、私は硬い廊下をあちらこちらへ彷徨う。ハーダシャル軍港、第一翼区ヤレアハ、第二翼区シュメッシュ。尋ね人はない。溜息を吐く。いったいどこに。やがて私は陛下から呼び出されていることを思い出す。仕方がない、捜索はまた後だ。しかし赴いた謁見の間にてその姿を発見する。目が覚めるようなブルーのロングドレス。大きく開いた背の露出を隠すようにうねり広がる同色の美しい髪は、毛先に行くにつれ淡い色に変わる。なんだ、こんなところにいたのか。思わず頬が緩み、無意識が声を掛けようとして、ふっと違和感に気付く。カグツチは陛下――ネフェルの傍に立ち、束ねた書類を手に何やら話していた。その距離が記憶よりも近い。それが当然と言うように、二人の纏う空気は自然だった。掛値のない信頼と愛情が織りなす優しい景色を眼前に、私はつい目をすがめてしまった。なぜだ、カグツチ。なぜお前がそこにいる。いや、陛下のお側にいたのはいいんだ。ただどうして、まるでお前が陛下のブレイドであるかのような顔をして―― ……あれ? 黒く生じかけた嫉妬が純粋な疑問に変わる。私は何を思っているのだろう。なぜ? 決まっている。カグツチは陛下のブレイドだからだ。代々スペルビア皇室の受け継いできた、帝国の宝珠。皇帝陛下こそがそのドライバーとしてスペルビア帝国とその臣民を守る。それがこの国の慣例だ。それは当代も同じ。なのになぜ、私はまるで彼女を自分のブレイドのように探し回っていたのだろう? 彼女は帝国のものだ。陛下のものだ。私が手に入れていい存在ではないのに。私に望んでいい権利などないのに。なぜそんな自明の事実に目頭が熱くなるのだろう。心臓が跳ねている。うるさい、うるさい。意識して深呼吸をして、なおさら息の吸い方が分からなくなる。 立ち尽くした私へ二人が気付く。ネフェルは私の様子を不審がりながらも微笑み、傍らのカグツチへ何か話しかける。声は聞き取れなかった。カグツチはひとつ頷くと私の元へと歩み寄る。私はそれが恐ろしくて仕方がなかった。私は彼女が私に何と言うかを予期していた。「どうしたの? さあ、こちらへ。陛下がお待ちよ」ただ一人の主君にしてドライバー以外へ語り掛けるのと同じ、そんな言い方を、物腰は柔らかで、ほんの少し直情な物言いをするに違いなくて、ネフェルが彼女と同調してからずっと聞いているはずなのに全く聞き慣れないそんな口調を、私に、 カグツチの唇が開く。「――っ!」 聞きたくない。 その言葉を掛けられては、私は私を保てなくなる。 死刑宣告を聞くような戦慄が全身を支配した。無礼とか不敬とか失礼とかそういう理屈を全て吹き飛ばして、私は咄嗟に右腕を払い彼女を拒絶する。 瞼の裏を流れていた映像は、そこで途切れた。「……メレフ様」 目を開けても、そこにいたのはカグツチだった。カーテンから零れる朝日に闇を払われた薄明りの部屋で、彼女は硬い顔をして私を見ていた。私の呼吸は荒かった。私の右手が軽い音を立ててベッドに沈んだ。私の身を揺らしてくれたカグツチの手を、夢の中にあった体が払ってしまっていたらしかった。カグツチはシーツ越しに私の肩を軽く叩いた。子供の頃何度もそうやってあやされた。そのことを思い出しながら瞬きを繰り返した。「…………夢、か」 やがて私の口からは殆ど無意識にそんな声が零れた。半身を起こす。朝の清潔な肌寒さが腕を粟立たせた。深呼吸する私へ、カグツチはコップに七分目ほどまで入れた水を持ってきて差しだした。礼を言って飲み干す。喉を滑り落ちる冷たさが意識と現実認識を明瞭にする。「起こしてくれたのか?」 サイドチェストにコップを置き、私は尋ねる。「はい。すみません、ひどくうなされているようでしたので」「いや、助かった。礼を言う」「悪い夢でも見ましたか?」 私のベッドサイドに立つカグツチの、頭上から柔らかく降って問う声はひどく優しい。もう大丈夫だと、根拠もなく安心してしまう。夢と気付けなかった夢は瞬く間に霧散して急速に細部の情報を失い、けれど印象だけはなお鮮明に。「うん……。いや、悪夢、と言うには、少し違うな。こうあるべきだったはずの夢、とでも、言えばいいのか」 カグツチは無言で私を促す。幼い頃からそうだった。悪夢に怯えた子どもの私に、悪い夢は誰かに話してしまえば本当にはならないと言います、と、胸のうちにとぐろを巻く恐怖の残滓の吐き出し方を、カグツチは教えたのだった。 だから私は、その通りに、カグツチを見て、素直に告げる。 言うべきではなかったかもしれないと気付いたのは、その言葉を自分の耳で聞いた後のことだ。「カグツチ、お前が、私ではなくて、陛下のブレイドだった。……そんな夢だ」 虚を突かれた顔をして、カグツチは私を見つめ返す。私は浮かべるべき表情に迷って、結局曖昧に頬を緩めた。もう少し自信満々に笑い飛ばしてしまいたかったのだが、私は今しがたの夢に、案外傷ついているらしかった。「生まれる順番を間違えなければ、きっとそれこそが現実だった」 当代のカグツチのドライバーは私だ。それは疑いようのない事実である。彼女との同調権限を頂いたからこそ私は炎の輝公子などという二つ名を得たし特別執権官の任に就けている。 けれどそれは本来の姿でないと囁く声が帝国の保守派を中心に一定数あることを私は知っている。本来ネフェルの傍に控えているのはワダツミではなくカグツチが相応しいのだと関係者全方位に失礼な彼らの信念は、それでも彼らなりの筋がある。少なくとも、当代が異例なのは――カグツチは傍系の皇女が頂いていいブレイドでないことは確かなのだから。加えて、ネフェルからワダツミのコアまで譲渡されてしまったものだから尚更。いや、ワダツミを得た今であるからこそ、カグツチは陛下に返却すべきだと――それをどうやって為すかと言えばこの命を絶つしかないわけで、まあ彼らの言いたいことはつまりそういうことなのだが――言う声が、私が旅に出てから一部で強まっているらしい。私がカグツチのドライバーであることが帝国の益になるならとそんな主張も黙らせられようとこれまで前線で胸を張ってきたが、その程度で納得してくれる者たちならば私はもう少し色々なものに煩わされずに済んだのだろうとも思う。とにかく、帝国の中には私を良しと思わない者が、反体制派ではなくて市井や兵士、官僚の中にもいて、旅の途中、久々にスペルビアに赴き、久々に耳に入ってしまったその論が、あの夢の種になってしまったようだ。 そして網膜に流れたあるべき景色の、なんと恐ろしいことだろう。 カグツチが私を見ない。 私を他人として線を引く。 彼女の温かな愛情は決して私には向けられない。「夢の中で、私は陛下を許せなかったよ」 少々誇張して笑ってみる。言葉にすると、実際夢の中でそんな感情を抱いた気がしてくる。「それは……」カグツチは微笑む。「光栄です、と、答えてよいものなのでしょうか」「さあ、どうだろう」 おかしなものだ。カグツチとネフェルなら、私は絶対にネフェルを優先できるのに。夢の中でカグツチをネフェルに奪われて、私はあの愛おしい小さな背丈に、それ以上に嫉妬してやまなかったのだ。 サイドチェストのコップに手を伸ばし、もう一度水を飲む。先程よりぬるくなったそれが、私に現実を教えてくれる。そうだ、今は、陛下から天の聖杯の護衛という御誂え向きの命を頂いて背を押して貰って、レックスたちと楽園を目指す旅の途中で、レックスたちの所用で偶然帰国したスペルビアの宿屋で、同室のカグツチは私の傍で私のブレイドとして当たり前のように私を気遣ってくれていて。遮光性の不十分な薄橙のカーテンが朝日が昇るのを知らせている。耳を澄ませば新聞配達のノポンが発する甲高い挨拶の声が聞こえる。夢は最早ただの印象に成り果てて、見ていたはずの映像を殆ど思い出せない。「大丈夫ですよ、メレフ様」 それでもなお私の中に残る夢の残滓、恐怖と喪失の印象、それを拭い去るように、カグツチは言う。彼女は一言断りを入れて、私のベッドに腰かける。暖炉に当たるような熱が私を包み、寒かった肩を温めていく。少し迷って、薄い毛布から右手を出した。宿の乾燥した空気が手の甲をひやりと撫でたかと思うと、その感触はすぐさまカグツチがゆったりと重ねてくれた手の体温に上書かれた。「全て夢です、そんなもの。私のドライバーは、メレフ様以外ありえませんもの」「よく言う。過去だって、これからだって、お前にはたくさんのドライバーがいるだろうに」「あら、今のこの私、とはっきり言わねば分かって頂けませんか?」「だが夢の中のお前は今のお前ではなかったよ」 カグツチの眉が困ったように下がる。私が期待した通りの表情だ。「すまない」率直に謝る。「意地の悪いことを言った」 たまにこの優しいブレイドを困らせてみたくなる。そうすることで疑ってなどいないはずの彼女の愛情を目に見える形で確かめたがる私の幼稚な精神を、カグツチは呆れ時々咎めながら否定したことは一度もない。いつも、望んだまま見せて教えてくれる。今回もそうだ。溜息ひとつと引き換えに、カグツチは「ではどうしましょうか」とどこかのんびりした口ぶりで言う。「別に、簡単だよ。カグツチ、お前の過去は問わない。お前の未来も縛らない。ただ私が生きている限り、お前が今のお前でいてくれたらそれでいい。……うっかり私の盾になってコアに戻ってみろ、生涯許さないからな」「それは……」 カグツチは左手を私の右手に添えたまま、右手人差し指を自身の頬にそっと添えた。透き通る肌と青い指先のコントラストが美しかった。「承知しました、とは、言い辛いですね。メレフ様が危ないとなったら、身体が勝手に動いてしまいそうです」「勿論私だってお前にそんな真似をさせないよう最大限努力するさ。誓えとも言わないから、……ただ、私がこう思っていることだけ、知っていてほしい」 お前がいなくなっては、きっと私は今のようには立てなくなってしまうだろうから、とは、流石に気恥ずかしくて言えなかった。私がカグツチに抱いている信頼が依存と紙一重の色をしていることを本人に告げるには、私は少々歳を重ねすぎていた。私がもう少し、レックスやニアやトラのような子どもなら、素直に告げることも出来たかもしれなかった。そして私はあの夢のように、それが陛下の御前であっても、私は新しいお前を拒絶するだろう、私を知らないお前を認められないだろう、お前に愛されない私の存在を疑うだろう、あけっぴろげにそう告げてカグツチに抱き付けたはずだ。 当然そんなことは出来なくて、代わりに打算交じりの欠伸をひとつ。「今、何時だ?」「五時を過ぎたところですね。あと二時間ほどはお休みになれますよ」 スケジュールを頭に描く。チェックアウト予定が九時。朝食の予約が八時。身支度と化粧の時間を逆算すれば確かにそんなところだろう。 右手を包んでいた体温が離れる。カグツチが立ち上がって自分のベッドに戻ろうとする。私は躊躇いなくその手首を柔く掴む。カグツチは驚いて私を見る。柄ではないなと自覚しながら、意識して甘える仕草をしてみた。首をかたむけて、少し肩をすくめてみせて。「あと二時間なら、こっちでいいだろう?」 たまには。言いながらシングルベッドにもう一人分のスペースを作る。まだこの身は軍服を纏っていなくて、ただのメレフ・ラハットで、だからほんの二時間くらい、まだ十を数えなかった頃の夜のように、たったひとつ私が甘えていい体温を感じながら目を閉じる程度許されて然るべきだ。 カグツチは長く息を吐いた。溜息と言うには軽やかに。「寝坊しないようにしませんと。子どもたちには見せられませんから」「ああ、そうだな、それは気を付けないと」 再度カグツチが私のベッドに、先程より深く腰掛ける。「失礼いたします」 恭しく断ってその身がシーツに潜り込む、一足先に寝転んだ私は彼女を覆うように薄い毛布を分けてやる。与えすぎて背中にひんやりとした空気が忍び込む、無意識に身を震わせるとカグツチが毛布をちょうどいいように返してくれる。一連のやりとりが妙におかしく感じられて私は笑う。私の頬に落ちかかった一房の髪をカグツチの指先が絡めとり、そのまま耳に掛けてくれる。そしてシーツに落ちたその手を私の手が摑まえる。カグツチの方が温かかった。けれどやがて、分け与えられた体温は繋がった箇所でひとつになる。目を閉じた私に、カグツチは優しく囁く。「おやすみなさい、メレフ様。どうか良い夢を」 あと二時間の間どんな夢を見ようかと考えて、そんなものは要らないと結論した。だってあの夢を上書く夢など見なくても、あんなもしもは有り得ないと強固に否定してくれる体温がここにあった。まだ私が皇子だった頃、男として育てられていた頃、色々な思惑と偶然が重なって運命を間違えて私はカグツチを手に入れた。間違いはしかし正す方法のないまま今日に至り、本来あるはずだった正解の未来が悪夢になった。だからこそ私は、この旅が終われば再び、帝国のためカグツチと共に前線に立つだろう。カグツチのドライバーである私こそ、また私をドライバーに持つカグツチだからこそスペルビアの国益になると証明しながら、私は陛下と国と民のために胸を張るだろう。その中で私がたったひとつだけ独占していい優しさと愛情と体温を傍らに覚えながら、私の意識は急速に眠りの水底へ沈んでいく。 次に目覚める時、きっと悪夢の残滓すら炎に溶けて失って、私はただ穏やかな心でカグツチを認めるはずだった。2018/03/26 [4回]PR