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Dear, my dear.

ゼノブレイド2非公式二次小説置き場。 ジクメレ・カグメレ等メレフ中心。 管理人:琉

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ミンネの証明


 さくり、さくり、と、白い砂浜に柔らかな音を立てて足音を残すカグツチの頬を、優しいだけのリベラリタスの風が撫でる。砂混じりに乾燥して叩きつけるようなスペルビアのそれとは異なり、緑豊かに生命を育む温暖なリベラリタスの空気は、この地に立つ度、理由を必要としない安らぎをこの身に生じさせる。帝国の宝珠であるカグツチにとって、故郷と言って差し支えないスペルビアの風も、彼女にとって好ましいものではあるが、それとは別種の、この世界で息をする生命として、魂の本能的な部分が、リベラリタスの優しさを喜んでいるのだ。
 星雲を目視できるほど高く高く澄み渡った夜は満天で、瞬きを繰り返す星々の煌めきに吸い込まれてしまいそうだった。幾つかこの季節の星座を探そうと試みるが、スペルビアでは確認できない程度の些末な星さえ美しく輝いていて、かえって難航した。景色の片隅に淡い緑の尾が光る。星が流れたようだった。さて、あれは吉兆なのか、凶兆なのか。吉兆だと信じることにして、カグツチはリジデ港の砂浜をゆったりと歩いていく。
 イーラに連れ去られたホムラを助け出す為、モルスの断崖を目指すべくイヤサキ村を発って数日。スペルビア-リベラリタス定期便の運航するリジデ港にて、今宵の宿を取っていた。スペルビア本国行の船は明日の早朝に出立する。本来は明日に定期便の予定はないのだが、それはスペルビア特別執権官の指示でどうにでもなる。感謝を示すレックスに、メレフは「権力の使い処だな」と微笑んでいた。

「……メレフ様?」

 カグツチは小さく声を上げる。
 当て所なく歩いた港の桟橋の下に当のメレフがいた。軍帽を深く被って、腕組みをして岩壁に凭れ掛かり、俯いて足元に纏わりつく雲海の切れ端を眺めている。
 呼び掛けに気付いたメレフはカグツチへ顔を向けた。微笑んでいる。
 拒絶はないと判断して傍らへ歩み寄った。

「どうしたのですか、このようなところで」
「何、落ち着かなくてな。お前こそ。散歩か?」
「はい」首肯して続ける。「どうにも気が逸ってしまって、気晴らしにと」
「無理もない。私もだし、みな同じだろう」

 言って、メレフは頭上を指差す。錆びた鉄板で補強された木の隙間から、何やらトラとハナの話し声が聞こえてきた。ちょうど桟橋の上付近にいるようだ。細かな内容は聞き取れないが、断片的に漏れ聞こえる声から察するに、雲海の魚と湖の魚は何が違うのか、という議題で盛り上がっていた。
 くすり、と、カグツチは思わず笑ってしまった。同じ、と言うが、切迫している事態に反してトラもハナも暢気なものだ。それでも、夕食が終われば基本的に部屋から出ようとしないトラが外にいる時点で、やはり普段とは異なる心境ではあるのだろう。

「子どもの無邪気と言うのは良いものですね」
「ああ、そうだな。……彼らも、そうであればよかったのだが」

 瞑目したメレフが軽く俯く。彼ら、とは、レックスにホムラ、ヒカリ、そしてニアのことを指している。
 天の聖杯とそのドライバー、またかつてイーラに所属していたマンイーターの少女。降りかかる運命は重く過酷だ。それでも立ち向かえとレックスの頬を叩いたのはカグツチであるのだが、本当ならば、子どもは子どもらしく、無邪気で、怖いもの知らずで、全能感に溢れているくらいがちょうどいい。たとえその子どもが、英雄の器であったとしても、である。カグツチでさえそう感じるのだから、メレフは尚更だろう。スペルビア特別執権官として国に仕えるメレフは、時に冷淡とも評されるその実力と政治手腕とは裏腹に、個人としての性根は面倒見の良いお人良しである。

「カグツチ」

 手袋の具合を整え、軍帽を被り直しながらメレフは言った。

「少し、歩きたい。付き合ってもらえるか」
「はい、メレフ様」

 外套コートの裾を翻すメレフに続く。もともと当て所ない散歩である、断る理由はない。いつもの通り、背筋を伸ばして泰然と歩くメレフの左斜め三歩後ろを、ゆったりと付いていく。
 白の砂浜から階段を昇る。桟橋の上には想像通りトラとハナがいて二人で何やら何やら跳ねている。微笑ましく眺めやり、ふっと美しい星空へ向けた視界の端にはロッジのベランダで話をしているジークとサイカ。ノポンと人工ブレイドとは異なり、こちらの空気は真剣だ。それを背に歩き、足元は木板から淡い色で茂る草に変わる。左手方面に目を向けると、白い砂を露出させ雲海に迫り出す岸壁。以前アーケディア法王庁への経由地としてここを訪れた時、せっかくだからとレックスがサルベージしたポイントだ。そこにレックスとニアが並んで腰を下ろしていた。ニアはブレイドの姿をしている。背を向けていて、二人の表情も、何を話しているかも分からない。少し離れた位置でセイリュウとビャッコが二人を見守っていた。カグツチの視線に気付いたビャッコが顔を向け、軽く会釈した。通り過ぎ、更に歩いていく。さく、さく、と、柔らかな草を踏む音が二人分だけ透明な夜の中で重なって生じては消えていく。あとは敵意のないカピーパとバニットが、近付く二人を警戒して散っていく微かな音がある程度だ。
 言葉はない。けれど、沈黙は全く苦ではない。同調してもう長いこと経つ。間を持たせるためだけの雑談など、メレフとカグツチの間には必要なかった。傍にいて、顔を見て、声を聞けばだいたい分かる。何が言いたいか、何を思っているか。
 やがてメレフは立ち止まる。手頃な岩に腰かけて脚を組む。そして雲海が水平線を描いて広がるのをは逆の方向、リベラリタス島嶼群の中心に天を突くように聳え立つ雲の壁を仰のいた。あの雲の内部には、姿を見せない大型の巨神獣アルスが潜んでいるという。

「あの巨神獣アルスの中に、あれほどの巨大遺跡があったとはな」

 脈絡もなくメレフは呟いたが、カグツチと同じことを考えていたのだろう。エルピス霊洞。かつて英雄アデルが天の聖杯の第三の剣をその奥深くへと封じた、リベラリタスの人間にのみ開かれる試練の遺跡。ホムラを助け出すための力を求めて挑んだ。果たしてレックスが手にしたはずの第三の刀身はとうに朽ちていて、けれど確かにその瞬間から、レックスの目がはっきりと変わった。だから確かに、彼は力を手にしたのだろう。そして今、モルスの断崖を目指している。

「古代イーラの技術……。ルクスリアでも目の当たりにしましたが、改めて凄いものですね。私の日記には、技術的なことは殆ど残されていないので、これほどとはと驚きました」
「そうだな。全て終わったらどうにかルクスリアと技術交換にでも持ち込んで、我がスペルビアにもあの技術が欲しいところだ」

 頬を緩めて話をしていたメレフは、ふっと真顔になって傍らに立つカグツチを見上げた。星はあまりに明るいが、それ以上に、カグツチ自身が揺らめかせる炎が、その顔を陰りなく照らし出す。

「体はもう大丈夫なのか?」
「え?」

 思いもよらぬ問い掛けに、失礼ながら声を上げてしまう。
 メレフは生真面目な顔を崩さないまま言葉を捕捉した。

「ブレイドの力を削ぐ霊洞……。お前が不調を訴えたのだから、相当にきつかったのだろう? 後遺症が残ったり、していないだろうか」

 ああ、と納得する。特に主張はしなかったのだが、霊洞の入り口で眩暈がすると言ったのを気にしていたのだろう。しかし、力を奪われると言っても、[[rb:天の聖杯 > ヒカリ]]のいなくなったこの仲間内で、最も強大な力を有するのがカグツチである。元来の力の分だけ、仲間内では最も消耗が少なかった。倒れかけたビャッコや息も絶え絶えのニアを横目に、最後まで頭痛と眩暈で済んでいたのだ。それでもこの身を案じてくれるメレフの優しさが嬉しくて、カグツチは唇に微笑を灯す。

「はい、霊洞を出てから、全く問題ありません。メレフ様こそ、お疲れが残ってはいませんか?」
「私こそ平気だ。トラとハナ以外では、全く消耗がなかったのは私くらいのものなのだからな」

 純粋な人間であるメレフにとって、カグツチの力を十分に得られない以外は、エルピス霊洞も他の洞窟と変わりない。雲海に似た空気ガスが充満し、息苦しかった程度だろう。
 安堵したように頬を緩め、眦を下げたメレフは、「それにしても」と上空を仰のいた。カグツチもつられて見やる。満天の星月夜、ところどころ千切れた雲が瞬く光を隠して気ままに風に乗っては流れていく。

「まさかこの仲間内で、純粋な人間ドライバーが私一人だったとはな」

 くつり、とメレフは喉を鳴らした。その声に寂寞の色を聞き取り、カグツチはメレフを見つめる。一方のメレフは、カグツチの視線には気付いただろうに上空の雲を眺め続けている。

「まったく、奇妙な縁もあるものだな。そうは思わないか、カグツチ」

 その胸にコア・クリスタルを宿し、天の聖杯と命を共有しているレックス。自身のドライバーの細胞を取り込み、マンイーターとして生きるニア。人工ブレイドであるハナを作り上げたトラに、サイカのコア・クリスタルを移植され、ブレイドイーターとして命を長らえたジーク。
 エルピス霊洞から無事脱出し、今後の方針を決めたイヤサキ村で、それにしてもこの集団には人とブレイドの絆が深いとジークがしみじみ評した通り、それぞれ世界に数人もいないだろうレアケースが寄り集まって、世界的には大多数であるはずの一般的ドライバーメレフが少数派だ。

「――本当に。私一人が、ただのドライバー……」

 小さな呟きが、甘いはずの夜に、ぽとりと滲んだ。たとえばそれは、椿の花が地に落ちるように。
 俯いて目を伏せる、長い睫毛が震えて、透き通る白い肌に翳りを落としていた。それをカグツチはつい先日目にしていた。そう、イヤサキ村で、ジークの言葉を受けて、あのときメレフは同じように俯いたのだ。

 ――絆か。羨ましいくらいだよ。

 詮無い寂寥、無為と知っての憂い、あるいは劣等感に似た羨望。普段なら、彼女はそんな感情くらい、堅牢な理性で容易く塗り固めて隠してしまうのに、それらはあまりにも無防備に曝け出されて。
 柔らかな風がカグツチの髪を煽って通り過ぎていく。

「メレフ様……」

 細い針先に幾度も突かれた、そんな痛みがちくりとコア・クリスタルからカグツチの全身に広がった。
 おそらくそんなメレフを元気付けるために、メレフもやるか、と、ジークは冗談交じりに自身の左胸のコアを指した。引き攣れた外科手術の痕が残るその場所を見て、傷跡が残るのか、とメレフは問うた。当たり前やろがと返したジークに、ならば遠慮しておこうと戸惑う声が首を振った。
 あの時生じた些末な痛みに酷似したものを、カグツチは今また覚えている。

「すまない、無益なことを言ってしまった」

 それが、カグツチの気配を変えさせたのかもしれない。ふっと顔を上げたメレフが、慌てたように詫びた。それから、恐る恐ると言った様子で、下からカグツチの表情を覗き込む。ふいに懐かしい気分になった。まだメレフが幼かった頃、無茶をしたメレフを叱るカグツチを、メレフはよく同じような顔をして窺ってきていた。

「カグツチ? ……まだ、怒っているのか?」

 だからカグツチは、昔その度に、そしてイヤサキ村でもそうしたように、くす、と、わざと少しだけ音を立ててメレフに微笑みかけた。大丈夫ですよと伝えるために。

「いいえ。冗談ですと、あの時も申し上げたはずです。せっかく、とても綺麗なお体なのですから、大切になさってください」

 イヤサキ村で、気分を害した顔をしてメレフを見やったカグツチに、メレフは彼女にしては非常に珍しく狼狽を露わにした。誤解を恐れるようにしどろもどろに言葉を探し、寄る辺ない子どものように微かに顔を歪めたメレフがあんまり愛おしくなって、だからカグツチは、自身の本心のちょうど半分を告げることに決めたのだ。
 メレフはほっと安堵の息を吐き出した。

「正直な話を、してもいいか?」

 そして再び、窺うように覗いてくる。瞬きを繰り返す琥珀色の双眸は、普段灯している力強い輝きを覆うように、風に揺れる炎に似たさざめきを宿していた。まだカグツチの外見年齢に至らないメレフがその目にほんの少しだけ残しているあどけなさが、戸惑うように笑っていた。

「イヤサキ村を出てから、つい考えてしまうんだ。もし、もしも傷が残らないのならば、どうだろうかと」

 カグツチははっと息を呑んだ。聞こえたのだろう、メレフは肩を竦めて、広がる雲海を見遥かした。星々に照らされながらどこまでも広がる雲と、雲海を透過してうっすらと届くリベラリタスの巨神獣アルスのエーテル光。柔らかな明かりを、けれど眩しそうに見つめて、メレフは笑みを深くする。
 言葉は、確かめるように紡がれる。

「もしも傷が残らなければ、私はお前のコアを求めるだろうかと考えて――まあ、安心してくれ。結論は、『求めない』だ」

 恐ろしい悪夢から覚めたような安堵と、心の一番柔らかい部分を無遠慮に抓られたかのような痛みが同時に去来して、一瞬、カグツチの呼吸を止めた。メレフに気付かれないように全霊で平静を装い、「そうですか」と素っ気なく返す。

「お前は帝国スペルビア宝珠ブレイド。必要以上に私に縛り付けることなど許されるはずもないし、それでお前を損なうなど言語道断だ。私のものになど、出来る筈もない。」

 メレフはもう一度喉を鳴らして笑った。諦めたような寂寥を吹っ切るように、胸を張って、敢えてだろう、軽い声で言い放つ。

「お前だって、いざそうしろと言われれば困るだろう?」
「そうですね。仰る通りです」

 それはカグツチがメレフに返したちょうど半分の本心と同じ理屈だ。

「それに、過去のお前のドライバー……スペルビアの偉大なる先帝を無視して、私のものにしてしまえるわけがないじゃないか。なあ、カグツチ」

 メレフとの付き合いは長い。言葉はなくとも、顔を見て声を聞けばメレフの思考は大体分かる。共に過ごした時間の分だけ、価値観も理解できている。それは逆に言えばメレフにとっても、同じだけカグツチを理解してしまっている、ということに他ならない。
 だからメレフの目線も声も当然の事実をなぞって淀みなく、カグツチはその正しさを首肯する。

「ええ、本当に、メレフ様のお言葉の通り。私は帝国の宝珠。……メレフ様の為にこのコアを砕いてしまっては、過去の私たちに顔向けが出来ません」

 自身のコア・クリスタルに触れる。
 分かり合って意見は一致して、それでもこのコア・クリスタルを貫く痛みが滑稽だ。
 日記の記述を遡る限りにおいて、カグツチはスペルビア帝国の所有物ブレイドだ。もう何人ものドライバーと同調し、生涯を共にし、コアに戻り、その循環を繰り返した。その記憶はカグツチにはない。けれど記録は残っている。公式の記録と、そして自身の日記に残した感情の記録。他愛のない日々の思い出。カグツチはそれらを受け継いで、今の自分もまた同じように残して、次の自分へと託していく。全ては、カグツチという名のブレイドの連続性を保つため。ドライバーの心臓が止まるとともに終わるこの命を、また別のカグツチとして、それでも今の自分と同じカグツチとして、繋いで残していくために。
 積み上げられた過去の長さ故、カグツチは連綿と続く自分というものに、他のブレイドよりも強く執着している。今の自分が生き続けたいというわけではない。ただ過去の自分が今を経てまた未来の自分へと、その時々のカグツチとしての記録を知識として有しながら、その時々のドライバーと生きていくことに重く価値を置いている。それは今のカグツチがそう感じるからという以上に、過去の幾人もの自分からその願いを手渡されて、今のカグツチが生きているが故に。
 永遠の寿命を持つブレイドであるが、コアの破損は真にその死を意味する。二度と同調できず、新たな器を得ることもない。既に受肉しているブレイドがコアを分け与えても即死はしないのはサイカを見れば分かるが、では再びコアに戻って同調が出来るかと考えれば、出来ない線が濃厚だろうとカグツチは考えている。ブレイドの本体であるコアはドライバーに分かたれることにより破損して、二度と元には戻らないのだから。サイカの意見も同じで、だからウチは王子が最後、と笑っていた。それでも今のウチがそれで満足しとるから問題ないねん、とサイカは言った。その理屈はひとつ残酷でひとつ正しく、カグツチが有さない強さで、羨ましいほどに眩しい。
 カグツチは絶対にサイカのようには割り切れない。過去の自分がそれぞれに大事に思いながら別れてきた幾人のドライバーの存在を知りながら無視してメレフを最後のドライバーにすることは、過去の数多の自分の願いをなかったことにして、そして未来に生まれる筈だった幾多の自分の幸福を摘み取る行為だ。少なくとも、カグツチの価値観では、そのようにしか感じられない。
 それにメレフの言う通り、カグツチはあくまで帝国の所有するブレイドである。当代のカグツチはメレフのものだが、カグツチの本体であるこのコア・クリスタルは帝国のものだ。それをメレフの一存で砕いていい理由があるはずがない。
 理屈でも感情でも、メレフは正しい。

「うん、だから、一応言っておく」

 脚を組み直し、メレフは真っ直ぐにカグツチを見上げた。背を伸ばして泰然と微笑む、それは支配者の表情だ。リベラリタスの野にあって決して失われない、スペルビア特別執権官としての顔。

「今後、私の命が危ぶまれる状況に陥ったとして。あるいは私が気狂いになって、人ならざる力を欲したとして。――カグツチ。お前は絶対に、私のためにコアを砕くな。私のために損なわれるな」

 真摯な瞳がカグツチを射抜く。同調した幼き日から変わらない、強い光がただ真っ直ぐに。
 そして、言葉は静かに、夜に響く。

「これは、私が生きている限り、全てに優先する命令だ」

 緩やかに風が吹いて、足元のダンデクレマチスと、カグツチの長い巻き毛を揺らした。二人を包む夜はどこまでも透明で星が美しかった。そんな命令を頂くには、実に相応しい景色の只中であった。
 右手を胸に当て、カグツチは一礼する。スペルビア式敬礼。受諾と了承。

「承知いたしました、メレフ様」

 首を垂れる心は穏やかで、確かな安堵を吐き出していた。イヤサキ村で覚えたものと同じだ。あの時カグツチは、肌に傷は残るのは嫌だ、と、極めて個人的な感情で以て、ジークの提案を拒否してくれたメレフに、確かに安堵していたのだ。この愛すべき聡明なドライバーが、カグツチと帝国の意志に反する提案をしない人でよかったと、ちょうど半分の本心で。

「――その上で、これは唾棄すべき戯言だが」

 残りの半分が、メレフも同じだったのだと、続く戯言にカグツチは知る。

「……それでも、彼らが羨ましいんだ」

 そっと瞼を閉じ、呆れるばかりの苦笑をメレフは柔らかく零した。声音はカグツチに向けられたものではなく、独り言のそれに近い。たとえばカグツチがここで踵を返してしまっても、メレフは構わず言を続けただろう、そんな響きだ。

「今、私が言ったことは、確かに私の本心だ。何の嘘偽りも意地もない。だのに、それは全てではなくて……残りの半分で、どうしたって、思ってしまった」

 メレフの長い睫毛が震える。ゆっくりと開いた双眸が、先程までとは違う色を宿している。それはメレフにまだ何の肩書もなかった頃、ネフェルが生まれて皇子として振る舞う必要がなくなって、まだ軍属でなかった時期のたまの休みに、ただの一個人としてカグツチに向けていた無邪気な色彩。
 メレフの身勝手でしかない、もう半分の本心。

「目に見える絆。たった一人の相手。……簡単に羨んでいい境遇でないとは承知しているはずなのに、それでも。そんなものが、お前と私の間にもあればいいのに、と」

 驚愕にカグツチの呼吸が止まる。全身に奇妙な力が入り、耳元を横切る風の音が遠くなった。
 そんなカグツチを見やり、メレフは自嘲する。

「馬鹿みたいだろう? 鏡の前で、想像してしまったんだ。この胸に、お前のコア・クリスタルが輝いていたとしたら――もしもそこに、傷が残ってしまったとしても――どんなに。きっと、それは、どんなに――」

 それ以上を、メレフは言葉にしなかった。メレフの最も柔らかで醜い部分をカグツチに曝け出してしまって、それでも最後の一線を、その言葉が超えることを拒んでいる。
 困惑を滲ませて、メレフはカグツチに笑いかけた。呆れるか叱るかしてくれと、その目が雄弁に語っている。それとも私を見限るか、とさえ問うているように見えた。
 くつ、と、堪えられなかった笑声が零れた。カグツチのものだ。メレフが不思議そうにまばたきをする。
 おかしさを噛み殺しながら、カグツチは言う。

「ドライバーとブレイドというものは、こんなところまで似てしまうものなのでしょうか」

 ブレイドは同調の際にドライバーの影響を受ける。稀な例ではあるが、容姿さえ瓜二つになることも確認されている。他にも、性格だったり、思考の癖だったり、趣味嗜好だったり。それに加えて長く一緒にいることで、その影響は加速する。だからメレフとカグツチも、似た者同士だ、と仲間たちに評されることは多い。
 だからと言って、何もこんなところまで同じでなくていいのに。
 その方がまだ、気楽に割り切れたのだろう。
 怪訝そうにカグツチの言葉を待つメレフに、カグツチはそうと笑いかける。間違って、何かを壊してしまわないように気を付けながら。

「メレフ様。どうか、無礼をお許しください。私も、つい、思ってしまったのです。もしもメレフ様の中に、私の一部があったとしたら、と」

 メレフが上げた小さな驚嘆の声は、夜の闇に溶けるより早く、カグツチの炎に照らされてしまった。意外そうな顔でカグツチを見上げる、見開かれた琥珀の瞳に映るカグツチは自覚しているよりは穏やかな顔をしていた。

「愚かなことを考えるなと、お叱り頂きたかったのですが」

 自身のコア・クリスタルに触れる。あまりにも馬鹿らしくて日記にも残せていない感情が、瞼の裏を鮮やかに彩った。再度蘇って頭蓋に響く声はあの時目を伏せたメレフのもの。

 ――ならば、遠慮しておこう。

 それで正しかった。それを受けて、間違いなく、カグツチは安堵していたのだ。後付け故に強固な理屈をこの夜二人で確認し合い、相互に間違いがないことを認める。カグツチは、メレフの為には損なわれない。そんな未来はあってはならない。一つの可能性を完全に封じ、良かったこれで恐るべきその日は訪れないと愁眉を開いた。そこには何の嘘も汚れもない、真白の本音が半分だけ。 

 ……そう、それは、ちょうど半分。
 残りの半分は、そんな正論を全て無視して、メレフのものにしてもらいたかった。

 このコア・クリスタルを望んでくれないかと、浅ましくも期待してしまった。過去の幾多の自分を無視して、今ここに立つたったひとつの自意識が、メレフただ一人のものになることを願ってしまった。傷ひとつない陶器のような柔肌に、醜い痕を残す栄誉を預かれないかと焦がれてしまった。なぜなら、今のカグツチにとって、愛すべきドライバーはただメレフ一人であったから。そのただ一人のために生きてみたいと、理性の関与しない心の半分が希ってしまった。
 だからあの時、遠慮しようと顔を背けたメレフに向けて、つまらない表情を向けてしまったのだ。全くの丸い心からメレフの選択を安堵していたのなら、カグツチがあんな不機嫌を晒す必要などなかった。冗談だと笑って誤魔化した、誤魔化さねばならなかった。メレフに望まれなかったこのコア・クリスタルが発して心を締め付ける痛みを、そうすることで無視せねばならなかった。その必要が生じるほどに、この身勝手もまた確かに、カグツチの願いであったから。だからその願いを実際に叶えて何の後悔もないと言い切れるサイカが、カグツチは羨ましかったのだ。

「ご命令を違えることは致しません。ですが、メレフ様と同じように半分だけ。貴方の為だけの私でいたいと、さもしくも思ってしまいました。……どうか、ご容赦を」

 深く頭を垂れる。ごうと音を立てて強い、けれどどこまでも柔和なリベラリタスの風が、二人の間を通り抜けた。
 それに浚われなかったメレフの笑声が、くつり、と、確かにカグツチの耳に届いた。面を上げる。果たしてメレフは、可笑しそうに腹を抱えていた。時折目元まで拭っている。

「なんだ。ドライバーとブレイドが、揃いも揃って……。しかも、同じように半分ずつなんて。ふざけているな。なあ?」
「ええ、本当に。妙なところが似てしまいましたね」

 笑い合う。近寄ってきていたバニットが、急に声を上げた二人に驚いてまたどこかへと逃げていった。
 そしてカグツチは、ふっと、出来心を起こす。今ならば、この透明な夜の只中ならば、この程度は許してもらえるだろうという打算だ。加えて、この程度の証明ならば、メレフも望んでくれるだろうという確信。
 ふわりと微笑んで、手を伸ばした。

「メレフ様。お手を、失礼いたします」
「カグツチ?」

 戸惑って首を傾げたメレフの右手を恭しく取った。そのままメレフの正面に跪き、白い手袋をするりと奪い取る。
 そして、肌理細やかなその手の甲へ、唇を寄せた。
 柔らかく押し付ける、それは時間にすれば呼吸三つ分に満たなかった。けれども、その間、世界は完璧な調和を見せていた。目を閉じて意識だけをメレフに向けて、肌の最も薄い箇所で彼女の体温を感じ取って、柔らかな風と、メレフの呼吸と、脈動、さわさわと揺れるダンデクレマチスの葉が擦れる音、遠く天頂で煌めく遥かの星々、その光、そんなものを感じ取り、少しだけ微笑を深めて、そっと離れた。
 メレフは、少しばかり気恥ずかしそうにカグツチを見つめていた。カグツチが離した右手をそっと胸元にやって緩く握ったかと思うと、手袋を嵌めたままの左手で大事そうに包む。ひとつ大きな呼吸をして、メレフは目を細めた。頬は柔らかく緩めたまま。

「……前のドライバーにも、こういうことをしていたのか?」
「さあ、どうなのでしょう」

 跪いた姿勢のまま、カグツチは首を傾げてみせた。

「少なくとも日記には書かれてはいませんでした」

 記録にない過去に、もしかしたらカグツチは当時のドライバーに対して同じことをしたのかもしれない。手の甲へ口付ける、忠誠を誓うありきたりな仕草である。けれど、そんな仮定に何の意味があるだろうか。その過去をカグツチは決して知り得ないし、継承もしなかったのだから、そんな過去はないも同然だ。
 再び手を伸ばす。もう一度、メレフの手を取った。今度は口付けることはせず、ただ穏やかに両手で包み込む。

「ですので、私にとってはメレフ様が初めてですし、そして今の私にとっても当然、メレフ様だけですよ。たったひとりの、ドライバーミンネ

 メレフは、しばらく何も言わなかった。ただ目を閉じて、そうか、と言った、それきり甘やかな静寂が優しい夜に降り注いだ。そうか。メレフは繰り返した。嬉しそうに微笑んで、大事そうに息を吸って、ひとしきりまばたきをした後、不意にカグツチが握っていたその手がするりと逃げた。惜しむ間もなくメレフは立ち上がり、腰を屈めた。

「なら、お前の愛情ミンネに報いないとな」

 低い声がそう囁いた、次の瞬間、カグツチの額に柔らかな感触が押し付けられた。
 メレフが唇を寄せたのだ。次いで、閉じた右の瞼にひとつ。そして口許へ。唇の端と、頬、ちょうどその真ん中に、かつてカグツチ自身が手入れの方法を教え、その日以来美しさを保つふわりとした体温が、優しく触れた。
 触れられたそれぞれの箇所から、心の底へ。つまらない痛みを覆い隠して、温かなものが注がれるのが分かる。代わりのように、どうにも耐え難いくすぐったさが全身を支配した。それに更に勝って宿るのは喜悦と光栄。メレフが寄越してくれたミンネの証しに幸いを噛み締める。なんて他愛ないのだろう。
 最後に小さな音を立てて、唇は離れた。
 躊躇いなく立ち上がったメレフは、手袋を嵌め直した右手をカグツチに差し出す。
 普段通りの凛とした顔に、この夜に相応しい、ほんの少しの甘さを添えて。

「うん。証拠など、これで充分だ」
「……はい、メレフ様」

 その手を取って、カグツチもまた立ち上がった。レアケースでなくていい。目に見えるものでなくて何の問題もない。このコア・クリスタルがメレフに拒絶されて全く構わない。羨んだそのものとは違っていた。ただ互いに押し付けた体温が、いつか間違いなく消えていくそれが、けれど世界の何よりも、二人にとっては確かなものだった。
 それで満足だ。
 望むものなど、他にはない。
 同じように羨んでいて、同じように満たした。それを確かめた。それを得たいまとなっては、なんとつまらいない羨望に悩んでいたのだろうと笑えるほどだ。
 きちんと日記に残せるだろうか。過不足なく書き記しておくには、この夜はあまりに美しすぎる。いつか全てを忘れた未来の自分がこの日の日記を見ても、美化のしすぎだと笑うのだろう。それが少しだけ惜しかった。

「そろそろ、戻ろうか」

 躊躇いがちに手を離して、メレフは踵を返す。カグツチはその後ろを歩いていく。いつの間にか頭上に光る星の位置が、先の記憶より動いていた。

「明日も早い。もう、こんな時間は取れないだろう。……スペルビアに到着してからの段取りはどうなっている、カグツチ」

 メレフの声から甘さが完全に消え失せ、普段通りの軍人の響きに変わっていた。カグツチもまた、普段通りの声で答える。

「二日後の14:00ヒトヨンマルマルはアナンヤム港に到着する予定です。その後帝都で装備を整え、翌07:30マルナナサンマルにはハーダシャル軍港より手配した船が出港します。少々急なスケジュールですが……」
「構わん。その日の宿は」
「ジャムカマロに部屋を手配しております」

 話しながら来た道を戻る。うむ、と重々しく承知を示したメレフが、ふと足を止めてカグツチを振り返った。柔らかな突風が吹き、千切れて流れる天頂の雲を散らしていった。

「ルクスリアでは不覚を取ったが、今度はそうはいかない。天の聖杯の力に頼っていては、特別執権官の名折れだ。お前の力、頼りにしている」
「何を今更」

 挑むような眼差しを受けて、カグツチは微笑む。この身の全てはメレフに使われるために、そしてメレフを守るためにある。カグツチとて、もうあんな失態を犯すつもりはなかった。首筋に刃を突きつけれたメレフをただ見ているしか出来なかった、あんな無力を二度と味わいたくはない。
 覚悟を確かめ合い、メレフは満足げに口許を吊り上げた。

「帝国の威信に掛けて、共に行こう、カグツチ」

 自信に溢れた軍服が音を立てて翻る。風に揺れる外套コートを追いかけるカグツチは、前を行くメレフに聞こえるように声を張った。

「――はい、メレフ様」

 この夜に相応しい、そんな声を。
 メレフは答えず、代わりのように一陣の風が青い髪を靡かせた。メレフが微笑を深める。顔を見ずとも、声を聞かずとも、カグツチには、それがはっきりと伝わった。

2018/01/22

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