体温 「ねえさん、手を繋いでもいいですか」 15年を数えないネフェルの人生で、たった一度、そして最後にそんなことを聞けたのも、そう言えばこんな夏の日だったと記憶している。スペルビアより湿度の高く、風さえ手足に纏わりつくようなグーラの夏。まるで世界が終わるように空は高くて高かった、彼方に見える世界樹が霞むほどに草原が輝いて眩しかった、木々の隙間で蝉がうるさくて、湖へと流れていく川の水が何よりも美しく見えた。そんな日。 大好きな姉がネフェルを初めて「殿下」ではなく「ネフェル」と呼んでくれた日で、今思い返しても、その日はネフェルの人生で最良の一日であったと断言して全く差し支えない。だからこそ、記憶もまた鮮やかに尊い姿を保っているのだと思う。少なくともその輝かしさは、好きな季節を問われれば夏だと即答できるネフェルの価値観を醸成するには充分だった。 端的に言えばメレフは当時から『わきまえた』ひとであった。年端もいかぬ少女でありながら、自身をネフェルの臣下とはっきりと位置付けており、一回りほども歳が離れていることもあって、彼女は常にネフェルから一歩引いていた。自分が反ネフェル派の旗印になりかねない存在であることを理解しているがゆえに、彼の立太子を待たずに絶対の忠誠を内外に刻む必要があったのだとネフェルが知ったのは彼がもう少し分別がつくようになってからの話で、その頃のネフェルはと言えば、自分が「ねえさん」と呼びかけるのに返って来る返事が「はい、殿下」一辺倒であったことがそれはもう気に食わず、幼い苛立ちが後の語り草になる脱走劇へ繋がったのは言うまでもない。 二人で、護衛も傍付きも付けず二人だけで湖に遊びに行きたいと強弁したネフェルの我儘を、メレフが如何様な有能を発揮して叶えたのかについては別のお話である。なんせ彼女はカグツチさえ撒いてのけたので、これを語るだけで物語が成立してしまう。そもそもその辺りのネフェルの主観からしての枝葉末節に彼は重きを置いておらず、だから回想は、帰り道の夕暮れに終止する。 日は暮れかけて、西の空が茜に染まっても、ちっとも肌寒くならなかった。むしろ日中の焼き付ける日差しが失われて、どこかほっとする優しさを夏はやっと見せてくれていた。湖で一緒に遊んだ子どもたちもそれぞれの家路へついて、うんと伸びた影を満足な心持ちで眺めるネフェルを、「帰りましょう」とメレフは促す。「しかられるでしょうか」 と眉を寄せたネフェルの心配を、メレフは否定せずに「そうですね」と頷いた。「心配を掛けたでしょうからね」「カグツチも?」「ええ、彼女は怒ると一番怖い」「……逃げるのは、むりですか?」「無理ですね。殿下、覚悟を決めて私と一緒に叱られましょう」「殿下じゃありません」 ネフェルはむっと口を尖らせた。屋敷を抜け出した昼下がり、自分たちの正体はばれないようにと注意したメレフに、「では殿下はだめです。普通のきょうだいみたいに呼んでください」と説得し、ネフェルのまことの目的は達成されたはずだったのに、メレフはまた臣下に戻ってしまっている。これでは今日の意味がなかった。だって湖で遊んでいる間は普通のきょうだいでいられたのだ。姉さんと呼びかけて、ネフェルと呼び返される、夢中になって言いつけを破り水の深いところまで泳いだネフェルをメレフは叱る、村の子に煽られているうちに気付けばその場の誰より水切りが上手くなっていたメレフにコツを教えてもらう、投げた石は三回跳ねてぽちゃりと落ちたが、それまで二回が限度だったネフェルが喜んで飛び跳ねたのをメレフは「上手いぞ」と頭を撫でてくれる。せっかく、そんな一日だったのだ。そしてそんな一日を、この一日だけで終わらせてしまうつもりはネフェルには全く無かった。 拗ねたネフェルに、メレフは困ったように笑った。彼女が口を開きかけるのを無視して、ネフェルは自分の右手をずいと差し出した。突きつけたと言っていい。そしてお願いする。手を繋いでもいいですか。村の子たちのうち、そうやって仲睦まじく帰っていった姉妹がいて、大層羨ましかった。 ここでまた「はい、殿下」などと返ってこようものなら、お願いを聞いてもらったことは無視してもう一回拗ねようと心に決めていたのに、喜ばしいことにメレフはネフェルの決意を裏切ってくれた。「分かった。さあ、ネフェル。帰ろう」「はい!」 喜び勇んで頷いたネフェルを見て、メレフはくすくすと笑った。繋いだ手は大きくて温かく、纏わりつく昼の残暑のせいで触れた端からいっそ熱かったが、そんなことはちっとも気にならなかった。これから叱られるだろうことをすっかり忘れてしまうくらい、ネフェルはその手から安心感を貰っていた。まるで普通のきょうだいだった。いや、真実、その夏、その日、その場所で、メレフはただのネフェルの姉で、ネフェルはただのメレフの弟だった。髪は濡れて、服は汚れていて、お腹はぺこぺこで、どう叱られるかを話し合って溜息を吐き、目の前を急に横切った蝉に驚かされて悲鳴を上げる。どこにでもいる、ただのスペルビア人のきょうだいだった。 まだネフェルが何も知らなかった頃の話。 自分が生まれたことにより彼女の人生がどう歪んだのかも、自分とメレフの立場がどう違うのかも、何も知らなかった。無知が故にただただ純粋に彼女を姉として大好きでいられた。負い目も劣等感も秘密も何一つなかった。広い広いグーラの草原を二人手を繋いで歩きながら、一つになった影は長く長く伸びて、雲海の向こう側へ落ちていく太陽を目を細めて見詰めていた。それだけが世界の全てで、完全無欠の一だった、夏の思い出。 そう、ちょうどこんな夏だった。 スペルビアの風はあの日よりずっと乾いていて、空は遥かに高く遠くなってしまったけれど、同じように鮮やかな夏だった。 帝都のみならずスペルビアを、いや世界を強襲した人工ブレイド及びデバイスの残骸を横目に、ナハール中央広場で復興のための視察を行っていたネフェルは、壊滅しながら逞しくも既に臨時商店を開きつつあるアイヴィル商業区の向こうから聞こえてきた声に、唐突にそれを思い出した。「陛下!」 人混みの只中を貫いて届いた声は、無事を祈っていた彼女のもので。 弾かれたように振り返る。周囲を行き交う人の声も、付き従う兵士たちの気配もにわかに遠くなり、駆け寄るメレフの息遣いだけを奇妙な近さで感じ取る。軍人らしくもなく肩で息をするメレフの、その呼吸が疾走所以のものでないことを知っている。軍帽の下で、メレフは唇を引き結ぶ。薄い唇が、ほんの少し震えている。たぶん自分も、同じように。だって声が出なかった。 メレフは一度大きく息を吸って、吐き出し、もう一度繰り返し、そっと敬礼をした。「メレフ・ラハット、ただいま帰還いたしました。皇帝陛下」「……ご苦労様でした。特別執権官」 どうやら自分はメレフが五体満足で帰って来てくれたことがほんとうに嬉しかったようで、瞬き一つのうちに幼い記憶を掘り起こして、もう殿下ではなく陛下になってしまったと今更のように思った。 あの頃のように、陛下ではありませんなんて言える立場でも年齢でもなくなってしまったけれど。 それでもこれくらいは、と。彼女の仲間たちにしばしの宿と食事を申し出、皇宮へと踵を返す最中、ネフェルはそっと、右手を差し出す。「従姉さん、手を繋いでもいいですか」 メレフは驚いたように瞬きをした。何か言われる前に、ネフェルは彼女の手を取った。手袋越しの体温は、あの日よりは熱くなかった。お戯れをと身を引かれても、今のネフェルは拗ねるつもりなどなかったが、メレフはそのまま手を繋ぎ返してくれた。メレフもまたあの日を思い出してくれたのか、単に今のネフェルの我儘を叶えてくれたのか、ネフェルには判断できない。 前者ならいいと理由なく思う。 メレフを見上げる。 気付いたメレフがネフェルを見下ろす。 言いたかったことはたくさんあって、聞きたかったことはたくさんあって、けれどネフェルがネフェルとしてメレフに掛けれうべき最初の言葉はこれにしようと、旅立たせた時から決めていた。「お帰りなさい、従姉さん」「……ああ。ただいま、ネフェル」 互いにだけ聞こえる小さな声と、相手にだけ向けた心からの笑みと。 一つになった影の間だけ、二度と来ない夏の中で、二人はただのきょうだいのように再会を喜ぶ。2018/07/15 [1回]PR