綺麗 「ルセアさまみたいにきれいな人、エレブ大陸中を探したっていませんよ、絶対」 彼にしか見せない無邪気で毒気のない笑みを惜しみなく浮かべながら、セーラは言った。そして、私だって可愛いですけど、ちょっと、ちょっとだけですよ? ちょっとだけルセアさまには負けます、と、セーラをよく知る人物であればあるほど耳を疑うだろう台詞を彼女は続けた。 ルセアは微苦笑を浮かべながらセーラの言に曖昧に頷いた。たびたび女性に間違われる(セーラにも間違われた、その際彼女は今とはまるで違う態度でつっけんどんに接してきたものだ)この容姿は彼のコンプレックスではあったが、子犬のようににこにこと傍にいるセーラの言葉を真っ向から否定はできなかったのだ。 だから彼は代わりにひとつの本心を告げた。「いいえ、セーラさんの方がきれいですよ」 それはキアランの緑騎士が言いそうな手垢まみれの口説き文句によく似ていて、ルセアは余計に曖昧な微苦笑を持て余す羽目になった。 聖女に祝福された青の光が春の陽だまりを想起させる温かさを伴って瞼の裏の視界を焼くと、その瞬間左腕で存在を主張していた傷口の痛みはなくなっていた。薄皮の張ったその箇所を視界の端で確認しながらルセアは頭を下げる。「ありがとうございます、セーラさん」 もう、とシスターはツインテールを揺らしながらぷりぷり怒っていた。「なんでルセアさまがこんな怪我するんですか、信じられない、しかもお顔にまで!」「セーラさん、そんな…顔の方はほんとうに、傷薬も必要ないほどのかすり傷でしたし、もっとひどいお怪我をされた方もいらっしゃいましたから」「他の人はいいんです! 死ななきゃ知ったことじゃありません!」 暴言をさらりと吐いたセーラは唇を尖らせてルセアを見つめる。いきり立つ華奢な肩を「私は大丈夫ですから」と宥めるのには少々時間を費やした。この少女は感情の起伏が激しく素直で、ルセアはレイヴァン曰く「懐かれている」から随分楽な方で、他の者はよく噛みつかれている。うっかり傍を通りかかったものなら体よく世話係を押し付けられることも多々あった。もちろんルセアはそれを損な役回りなどとは欠片も思わないけれど。 やがて落ち着いたセーラは「気を付けないと駄目ですからね!」と念を押して背中の壁に凭れ掛かる。使われなくなって朽ちかけた廃墟一歩手前の空気を醸す砦は今夜のこの不思議な軍の寝床だ。わずかにかびの臭いがするものの雨風凌げる上等の野営地である。行軍初期から従軍しているはずのセーラは安宿のベッドが恋しいと少女らしい愚痴を零していたが。「杖の力は自分には効かないんですから」 そう言って彼女はふと重心を前方にずらすとルセアの手元をじぃと見つめる。正確にはルセアの指に輝く導きの指輪を。静謐で荘厳な魔力が目いっぱい込められたこの指輪は着用者の杖あるいは魔導の才をその名の通りに導き出す。強力な力を宿すこの道具は当たり前だが貴重品で店で売っているような代物ではなく、もう長くこの軍に主人とともに身を預けているが適合者全員には行き渡っていない。ルセアはかなり早くに与えられた方だがセーラはまだお預けの状態だ。「セーラさん?」「…………それ、ほんとうは私のだったかもしれないのに」 少女の呟きにルセアはぎくりと目を細める。 こういった貴重品を誰に与えるかはエリウッドやヘクトル、リンなど軍の重要人物と話し合った上で軍師が決めている。本決まりになる前に信憑性を帯びた噂話というものは流れるもので、セーラに導きの指輪をという噂もあった。彼女がエルクなどに「当然よ」などと言いながら嬉しそうにしていたことを彼は覚えている。その記憶がひどく鮮やかなのは、ルセアはその噂をきっかけに軍師たちに打診に行ったからだ。 その指輪は私に下さいませんか、と。「セーラさんは……光魔法を使いたいのですか?」 神の裁きだと舌触りのいい言葉に包んだエミリーヌの刃。神を聖女を讃えながら人を殺す。「当たり前です! そうしたら、ルセアさまやヘクトルさまやエリウッドさまやオズインさまや、あとついでにエルクとかマシューとか、とにかく一緒に戦って守れるじゃないですか」 最前線とか嫌だし、怪我も嫌だし、服が汚れるのも嫌だけど、でも、とセーラは言葉を積み上げる。身勝手で、我儘で、自由奔放。軍内におけるセーラの評はおおむねそんなところだが、彼女は時折ルセアには隠しているわけでもないのに見つかりにくい本音を零した。「だって、だいたい、ルセアさまが…今からでも返してください、指輪」「……無理ですよ、消耗品です」「分かってます! でもそれ私の」 私のだったのに、と小さな声が反響もせずぽとりと落ちた。 衛生兵が自衛程度にも戦えれば負担が減る、との意見からセーラに指輪が渡ることは決まっていたような空気だった。そこにルセアが割って入ったことは軍の全員が知るでもなしに知っている。滅多に自分を主張しない彼の突然の申し出は誰もの予想外にあるところだったからだ。セーラの光魔法がものになるまでいくらか時間はかかるし、光魔法を覚えても彼女を前線に連れて行くのは危険が大きい、ならば現在魔法を使える者が杖を覚える方が(杖も小慣れるまでに時間はかかるが癒しの力は多少弱くても回数で補いやすく、今まで薬に頼っている状況だったのだから前衛の負担にもならない)効率がいい、というのがルセアの論で、その説得によりセーラに渡るはずだった指輪はいまルセアの手の中で輝いている。 その論は、決して公正なものではなかった。正論を装いながら、彼はその中に単なる我儘を隠してそれを貫いた。「セーラさん」 穏やかで優しく、静かな男の声はしかし重たい芯を宿していて、促されたようにおもてを上げたセーラは黙ってルセアを見上げる。「私は……貴方のようなきれいな方を、汚してしまいたくなかったのです」 ルセアはセーラを保ちたかった。きれいなままでいて欲しかった。 現在は大きな戦争も起こっていないが、それでもこの世界は生きやすいとは言い辛く、よほど恵まれた生まれでなければ汚れずに汚されずに生きることは難しい。賊に身をやつさねば生き延びる術のない者もいるし、仕事を選ばぬ傭兵として人を殺さねば金が手に入らぬ時もあり、騎士たちは煌びやかな大義名分で赤い両手を誉れと誇る、そのなかで彼女はまだ、殺しを知らない。無垢なるもの特有の瞳をセーラは持っている。戦場にいながら、守られながら、きれいなままでいることを、もしかしたら誰かは咎めるのかもしれない。それでもルセアはいっそ罪のような彼女の無垢を、愛おしいほどの眩しさを、汚してしまいたくなかった。そのような事態は可能な限り避けるべきだった。ルセアのために可哀想と正面から向き合って泣いてくれた彼女だから。「貴方のような優しい方を、あんな場所に連れて行きたくなかった」 ルセアは丁寧に本音を紡ぐ。 命を求めて死神が抜鉤する。砂埃、怒号、金属音、血臭。夕暮れはまだ遠いはずなのに赤い色が途切れない。あの場で力を振るうには少女はあまりに真っ白で、戦うのならば穢れなければならない。それがルセアには、少なくとも今は、耐えられなかった。少なくとも今は、少なくとも自分が、彼女の代わりでいられるのだから。 戦場にいること。敵を殺すこと。同義のように思える二者の間には絶対的な差異がある。それがまだセーラを白く保っている。甘ったれた理屈と言われればそれまでだろう。だけれど、 貴方がきれいなままであれますように。 たとえ貴方の手が汚れてしまう日が不可避だとしても、ならばできるだけ後の日のことでありますように。 そのことが貴方を傷つけることがありませぬように。 無私であるべき司祭は本心からそう願う。「……ずるいです」「……はい」「そんなの、ずるいです…だって」 言葉になり損ねた感情の雫がきらきらと輝く紫苑の双眸から溢れた。思わず伸ばしかけた手を、しかしルセアは途中で引く。伸ばしてどうなる、零させたのはルセアの我儘だ。 見ないでください、と傍向いたセーラに、彼はそろそろと問いかける。「私は……いない方が、いいですか?」 たった今見ないでと彼に告げたはずの少女は、ゆるりと首を振った。「嫌です。いてください。泣かせたのルセアさまなんですから」 ルセアには滅多に向けられない強気な理論に、むしろ内心胸をなでおろしながら、ルセアは静かに距離を詰めて彼女の隣に座った。手、繋いでください。少女の声に従って指先だけをほとんど解けているくらいに絡める。温かかった。セーラは繋いだ箇所に目を向けると「…ルセアさま、指、冷たいじゃないですか!」と途端にルセアを心配しだす。大丈夫ですよ、と彼は柔らかく微笑んだ。 [0回]PR