宝石 すべてが始まった日のことは完全な絵画のように鮮やかに思い出せる。特に厳しい冬だった。高潔で冷酷な凍寒の女王は六花の衣装を纏ってひどくご機嫌だった。応えるように大人たちは頭を抱えて嘆いて怒鳴り。「こりゃあもう駄目だ」 ため息のようにそう繰り返していたのは三軒向かいに住んでいた白髪の目立ち始めた壮年の男性で、春には快活と馬鹿で少し下品な冗談を口にしていた。向かいの老夫婦は丸かった背をいよいよ丸くして縮こまり毎日毎晩神へ祈っているようだった。村中を白く塗りつぶして積もった雪にも負けずはしゃいでいた子供も犬もそんな元気をなくして、葉の落ちた細い枝に乗ったからすがかぁと諦めていた。痛みを通り越した寒さと空腹、生を続けるための方法を選ぶ余裕がないことは幼いセライナたちにも分かっていて、あとは身売りに出されるまでを誰からかないつからかなと後ろ向きに指折り数えている状況だった。 空の青い日だった。どうしてだか兵隊たちがやってきた。 そして声が上がる。「食糧だ!」 雪にも吸い込まれず誰かの声が諦観の村を劈いた。希望も救いも通り越して現れた「食べ物」という身も蓋もない生きる術はその分だけ村人たちを湧き立たせた。「やった! やったぞ!」「これで死なずに済む!」「万歳!」「ヴィガルド皇帝陛下万歳!!」 祭りのように喜び狂う大人たちの熱気に取り残されて、どうやらこれでどこかに売られることもお腹が減って死ぬこともなくなったらしいことを理解したセライナは、呪文のように叫ばれ続ける礼賛の声をひとり呟く。ヴィガルドへいかばんざい。 熱狂に包まれる空気の中でどうして聞こえたのかは分からないが、傍にいた兵士が膝を折りセライナと目線を合わせた。がっちりと鍛えられて飢えとは無縁そうな肉体と傷まみれでも綺麗な鎧の男性だった。「この村の惨状を耳にされた陛下が、救えと送ってくださったんだぞ」 辺境の貧村、手を差し伸べずとも誰も文句は言わないはずの(当の村人だってそんな期待はしていなかった)価値のない集落。そんな村を救えとひと冬を越せるだけの食糧を。そんな状況であることを知るのが遅くすまなかったと皇帝は詫びの言葉を寄越したそうだ。それが他国に付け入られる甘さと取られる可能性を孕んだ愚行であったことも、実際そのように受け取られたことも、当時のセライナは知らなかった。セライナがそのとき知っていたのは、ヴィガルドとはこのグラドで一番偉い人の名前で、柔和な人柄で【穏健帝】と呼ばれる賢君で、そしてお腹が減った自分たちを助けるように言ってくれた人であるらしいことだけだ。「へいかは」「ん?」「こうていへいかはどんな人なんですか?」 無垢な問いかけに、兵士は笑う。それは最高の純度で輝く誇りと忠誠であったことをのちにセライナは知る。 彼は言い切る。「素晴らしいお方だ!」 とくん。 どうしてだか心臓が高鳴り、駆けた。 周りを見回す。豊穣の祭りの時よりも喜びむせび泣く大人たちを、細かなことは理解できずとも笑顔できゃいきゃいと笑う友人たちを、相変わらず白く塗りつぶされた村の景色を、高く高く透明な青空を、そこを横切った一羽のからすを、そして傍らの兵士の満ち足りた誉れの表情を。 こうていへいか。 お仕えしたい、と強く思った。 実際にヴィガルドを初めて見た日のことも瞳に焼き付いてしまっているかのように細やかに思い出せる。空は遠くて青かった。見習いとして騎士団の門を叩いたセライナたちの入隊式で、ヴィガルドは自ら新人兵士を迎え出た。 皇帝とはかくある者だと全身で言わんばかりに堂々と、彫の深い顔は整って、深淵の紫紺を湛える双眸は聡明かつ慈悲を知って柔らかく光る。低い声は少し擦れてしかし聞くものの心臓にずしりと痕跡を残す。圧倒的なカリスマを生来の穏やかな気質で強固にして、その時彼女の瞳の中にはヴィガルド以外が映らなかった。皇帝以外を認識している余地を彼のカリスマが許さなかった。同期の者は、否、騎士団の殆どの者は口を揃えて同じことを語る。訓練に耐えきれずリタイアした者も「けれどあの方を守りたかったな」とぽつりと零し、脱走兵さえ逃げ出す前夜にも皇帝を讃えた。 その時セライナはまだ少女のあどけなさが抜けきっていなかったが、自分のすべてをヴィガルドに捧げる覚悟を決めるのに時間など必要なかった。あの日、あの冬の日幼い胸中に去来した感情に一点の間違いもなかったことを確認しただけだった。 セライナはたびたび耳朶の奥にいつかの兵士の言葉を聞いた。 素晴らしいお方だ! あぁまったくその通りだと、かの皇帝に仕えていることが彼女の一点の曇りもない誇りとなった。そのことを思うだけで、心はひどく高揚した。 蛍石を賜った日のことなど、忘れたくとも忘れられない。あんまりにも鮮やかな記憶は彼女の中で一瞬の休みもなく幼き日の夏のように輝き続けている。 セライナには幸いなことに精霊魔法の才があった。どう努力しても腕力を性差で埋められぬ武器とは異なり、魔導を扱うものに性差はない。あるのは生来の才差、魔導に愛されたか否か。セライナにとってはそれは生涯で一番の僥倖だった。とりわけ馬を扱うことを覚えてからはセライナは縦横無尽に戦場を駆け、男顔負けの武勲を上げた。昇進に伴い一部からやっかみの声と下世話な陰口が漏れ聞こえてはきたが、そんな雑音はヴィガルドを思えばとたんに聞こえなくなるのだった。 窓の外はやはり青かった。「セライナ」「はっ」 完全なる女騎士として首を垂れるセライナの髪がきらきらと光ってた。「――お前に帝国将軍の地位と、【蛍石】の名を授ける」 穏やかに、それでいて確かな重みを伴って全身に染みわたるヴィガルドの声に、セライナはますます首を垂れ、皇帝自らが差し出した漆黒の塗りに螺鈿の装飾が施された宝玉台を恭しく受け取った。柔らかな台座の上には上等の銀で上品に加工された首飾りが横たわっている。華美なものではなく、宝飾はセライナの両眼よりも深くどこまでも底なしに透明な碧の蛍石がひとつだけだ。そのたった一つの宝石がどれほどの誉れであろうか! グラド帝国の騎士に名を連ねる物なら誰ひとり夢見ぬはずのない、比類なき武勲を示しそしてまた皇帝からの絶対の信頼の証となるそれは!「――謹んで、拝命いたします」 手が、震える。「おもてを上げよ、セライナ」 ヴィガルドの言葉に従い、彼女は姿勢を正す。 皇帝は優しく微笑んでいた。「セライナ、覚えておけ」 穏健帝の双眸は、信じられぬほど深く真摯にきらりと光った。「帝国の将は、国を侵すための刃ではない。お前たちは民を守るための盾なのだ。お前たちの力はそのためにある。そのことを……ゆめ、忘れるな」「……陛下…」 呆然と、呟く。 皇帝の言葉は信じられぬほどの力を持っていた。何かのまじないのような――セライナはこれまでヴィガルドの言をすべて大事に賜っては自分の中に仕舞い込んできたが、これほどまでに心を揺さぶる言葉が他にあっただろうか。残る、ではない、心に、心臓に、まさに刻み込まれて永久にとどまるのだろう、そのような言葉が。「はっ」 セライナは目の奥の熱さを感じながら誓う。「このセライナ、陛下に賜った【蛍石】の名にかけて」 何もかも簡単に、鮮明に、細やかに思い出せる。 だのになぜだろう、崩壊のきっかけが何だったのかだけが、どうしても思い出せない。 帝国将軍としてヴィガルドの信を得、武功を立て、兵士たちを教育する日々は、いくばくかの雑音がありはしたけどおおむね彼女を満たし、幸福にさせた。公私のすべてをグラド帝国、ひいてはヴィガルドに捧げることがセライナにとって至上の喜びだった。【蛍石】の名とともにそれは彼女の矜持であった。 そんな日々に警鐘が紛れ込み始めたのは、いったいいつのことだろうか。 虫の羽音より小さく、白鷺の羽よりそっと、それはセライナの中をよぎった。石畳に響く靴の音に隠れ、食堂の喧騒に潜み、訓練場の怒声に紛れ、謁見の間の静寂に閃いた。警鐘というには淡く、牡丹雪のひとひらよりかけそく消えるそれを、だからセライナは無視し続けた。わざわざ意識の表層に引っ張り出してくるほどの価値を彼女はそれに見出さなかった。何かの余地としてすくい取るには、それはあまりにひ弱かった。日々はあまりに穏やかで変わりなく、それを気にする方が間違っているように思われた。 たった一度、それは確固たる輪郭を得た。きぃん、と、耳鳴りのような音がセライナを貫いた。一瞬の目眩。波紋のような余韻を残して徐々に音は消える。一度きりの確かな警鐘。 その日のことだ。「――ルネスへ、侵攻する」 お前たちの力は国を侵すための刃ではない、と、そう告げたのと同じ深さの声で、傍らに唯一の王子を置きながら、【穏健帝】は戦争を命じた。 ……その時セライナは確かに聞いたはずの警鐘をヴィガルドの乱心の警鐘とは見なさなかった、見なしたくなかった、見なせなかった、あの日損ばかりしか数えられぬはずだったのにセライナたちを救ってくれた慈悲深き皇帝陛下が正しくない判断を、間違った行いをするなんてありえないことだった。 あってはならないことだった。 新たな三人の、自分やデュッセルやグレンとは明らかに一線を画する帝国将軍を彼女は受け入れた(なぜなら皇帝陛下が彼らを選ばれたから)。 不可侵であるべき聖石を破壊せよとの命に彼女は口を挟まなかった(なぜなら皇帝陛下がそうおっしゃったから)。 デュッセルを討てと、尊敬すべき同じ帝国将軍である彼を殺せとの命を彼女は受けた(なぜなら皇帝陛下の命であるから)。「グレン。我らは帝国の将だ」 ヴィガルドの行動を非難とまでは行かずとも疑問視する竜騎士に告げた言葉が半分は自分に向いていることなどのどを震わせる前から分かっていた。人が変わられたようだと言うグレンの言葉は妄言などではなく、兵たちの中でもまことしやかに囁かれている。 いまの皇帝陛下はほんとうに皇帝陛下なのか? セライナはその疑問をくだらないと一蹴して取り合わなかった。だが何よりも首に煌めく蛍石が彼女に問いかける。お前は正しいのか? 皇帝を盲信し付き従うことが真に是なる道なのか? 疑問と混乱の収まらぬ間まま死にゆくルネス兵を目に見ながら、戦乱の世に否応なく巻き込まれ不安げに肩を縮こまらせる民衆の様子を耳に聞きながら、耳朶に囁く誰かの声にセライナは必死に首を振る。 正しい――正しいに決まっている。それがほんとうに正しいのかなどもうどうでもよくて、だって皇帝陛下の御心がそう望むのだから――何より、「陛下のご意向に異を挟むことなど許されない」「わかっている、セライナ」グレンは端正な面持を渋く歪めて言い募る。「だが…」「二人ともやめよ」 そこでデュッセルがふたりを諫めなければ、続いたはずのグレンの言葉に、セライナは何と返したのだろう。 父にも等しい【黒曜石】の彼が、ルネス王子エフラムとの対話を望んだ際、彼女は強引に彼を反逆者と――皇帝の告げたとおりの反逆者であると――断定した。ルネスに通じる裏切り者。皇帝に仇なす不忠の徒。その時セライナの胸中を満たしたのは間違いなくひとつの安堵であった。ヴィガルドの言が正しかったことへの。それはすなわちヴィガルドの正しさを示すから。幼き冬の日から抱き続けた皇帝への敬愛と忠誠そのままにいればよいことをデュッセルの裏切りを材料に懸命に補強する。誰かはそれを愚行と吐き捨てるのであろうことを、セライナはほんとうは分かっていた。だからセライナはデュッセルに言葉を許さなかった。「どうか御覚悟を」 覚悟がほんとうに必要だったのは、もしかしたら自分の方だったのかもしれない。 そのときにはもう、間違っていることは、分かっていた。 すべてはヴィガルド皇帝陛下のために。 心の奥底に湧き上がりそうなすべての疑問を押し隠して。 異を唱えそうになる自分自身を押し殺して。 私は騎士だ。 皇帝陛下の騎士なのだ。 あの日の空の色は、分からない。 ただ、息苦しくてたまらなくなる。 ミルラと名乗ったマムクートの少女の、にわかには信じがたい話を聞いて、セライナがまず覚えたのは奇妙な安堵感だった。しかし数瞬遅れで追いついた理性が待ったをかける。その話を認めてはならない、それが真であるならば、「すでに陛下は……」 そんなこと、あってはならない。 首元の蛍石を握り込む。尋ねてくる少女の瞳に、セライナは静かに答えた。この宝石こそ帝国将の証であり、他の誰でもないヴィガルドから賜ったものである、と。「セライナさんは…へいかがすきなのですね」 唐突なミルラの台詞に、彼女は目を向く。「な、なな何を…!?」「わかります。セライナさんがそれを、どんなに大切にしているのか…」 そうだ、大切だ。何よりも、この命よりも。ヴィガルドから下賜されたこの【蛍石】に相応しい騎士、相応しい将であることがセライナが自らに課した絶対の矜持だった。ヴィガルドのために生きたかった。ヴィガルドと同じ理想を見て、そのためにこの身とこの魂のすべてを使いたかった。それは今でも変わらない。 変われない。 だが、真実は。もはやヴィガルドは。「ミルラ、君の言う禍禍しい気配の話だが…」 その気配によって人が別人のように変わってしまう。脳裏に去来するのは柔和で芯の通ったひとつの微笑だ。「そのようなこともありえるのか?」 はい、と、竜の少女は悲しげに頷く。「その人はもう、その人でなくなってしまいます…」「どうすれば、治せる?」 ミルラは少し、間を置き、意を決したように、かすかに震える声で首を横に振った。ごめんなさい、と。「治す方法は…ありません」「…そうか」 セライナは、わずかに、微笑んだ。 何かを変える道は存在したのだろうか。 たとえば真の意味でヴィガルドを救うことが出来た道は。 あの日の警鐘を拾い上げていれば何か変わっただろうか。 いまとなってはすべての「もしも」は遠く、目の前にはルネス王子エフラムに率いられた寄せ集めで精鋭の寡兵が迫る。「兵を退け!」 誇り高き青年が愛槍を手に声を張り上げる。「皇帝はいままともな状態じゃない!」「知っている」 エフラムは愕然と目を見開き、さらに怒号を張った。「だったらなぜ…!」 セライナは戦場には不釣り合いに頬を緩めた。 彼は知らないのだろう。間違っていることを心の奥底で理解しながら目を背けて間違いを塗り重ね、それをまた自覚していても、それでもなお信じたいものがこの世界には存在しうることを。世界にとっての正しさはときに目の前で正しくないかたちを取ることを。 きっとデュッセルの方が正しかった。彼の忠誠もまた、正しかった。 それでも。 誓った。二度と陛下の命に背かぬと。 ならば貫こう。結末が何を招こうとも、すべてをこの両肩に受け止めよう。たとえ誓った相手がもはやセライナの敬愛し尊敬し忠誠を捧げたヴィガルドでなくとも。 私は騎士。 私は【蛍石】のセライナだ。 ――ルネス王子の槍が細い体を赤く染めながら貫いた。 灼熱。焼けるのどの奥。鉄の味。四肢から感覚が消えてゆく。指先が白く冷たくなる。空を溶かした新緑の色をした青年は感情を飲み込んで不自然な無表情だった。肩越しにデュッセルが目を細めていた。視界の隅では竜の少女が表情の乏しい顔を泣きそうに歪めている。 ごぼりと音を立てて口の端から鮮血が溢れる。身を焼く熱そのものが、セライナの命そのものが。 たちまちに全身を襲う倦怠感と安堵に彼女は微笑う。 眠くてたまらない。「……ひどく…疲れた…」 かすれた声が風にさらわれながら零れ落ちる。「これで…私も……」 貴方の、傍に。 太陽光を反射して金の髪がさらさらと煌めき、閉じられた双眸の代わりに彼女自身の血に汚された蛍石が寂しげに揺れる。 ゆっくりと傾いだ帝国将軍の体は、そのままどうと音を立てて馬上からくずおれた。 空は青く、青かった。 [0回]PR