一瞬 それは荒涼たる戦乱の日々だからこそ生まれえた一種の戯れだったのかもしれない。オスカーはこの戦争を、とりわけアイクを将軍としてベグニオン兵とともにデインへ侵攻した濃密な日々を思い返しながら当時の自分を遠目に見て、そう思う。相次ぐ戦闘に連日身を投していながら、その狭間狭間のわずかな時、たとえば休息日、たとえば勝利の夜、はどこかふわふわと、冬の朝に毛布にくるまってまどろむ夢のようなほの甘さを確かに漂わせていた。 彼がその夢想的なものを手にするための必要条件はただひとつ、ともすれば冷淡にも見える青い瞳。「ちょっと待ってくれ」 何の新鮮味も特別さもないありふれた呼びかけがやがて実を結ぶなど、当たり前だかそのときはちらとも考えなかった。 タニスに仲間との連携を乞うた時、オスカーは誰がその役をすると言った彼女に、ならば自分がと申し出たが、実のところ彼はまったくの本気というわけではなかった。傭兵を下に見る言動をしばしば取る(彼女がベグニオン天馬騎士団神使親衛隊副長という地位にあり貴族階級を生きることを考えれば当然と言えば当然の言動だった)タニスが、その傭兵であるオスカーを自らの補佐として迎え入れるなど、オスカーは本気で思っているわけではなかった。 しかし存外あっさりとタニスは頷いた。「……いや、君がいい」 後になって彼女が「君でいい」でなく「君がいい」と言ったことに気づいた。「君のことは多少なりと知っている。他の得体のしれぬ傭兵と違って信用できそうだ」 相変わらず傭兵を悪気なく侮蔑しながらしかしその傭兵であるオスカーを信用するという。申し出たのは自分の方でありながら、オスカーはタニスが何を言っているか一瞬理解できなかった。落とした布を拾われた、それからは機があればわずかに言葉を交わすだけであったオスカーの何をもって彼女は信じるに足る人物だと彼を判断したのだろう。 戦場をともに駆けるようになってから、オスカーとタニスは急速に親しくなった。と言ってもそれは柔らかな友情のかたちなど取らなかったが。タニスは変わらずまっすぐに背を伸ばし冷淡にも見える青を煌めかせていて、オスカーはと言えば所詮一介の傭兵に過ぎぬ自分に相応のふるまいを外さなかった。しかしふたりは近づいていった。息つく間もなく生が奪われていく戦場で、互いに信を置いて槍を剣を振るううち、結びつきが強固になってゆくのは当然と言えば当然のなりゆきだった。いつしか休息の時にオスカーはタニスを探すようになり、凛とした立ち姿を見つけるたびに声をかけた。 可愛げのかけらもねぇ、物知らずな女。シノンは相変わらずの毒舌でタニスをそう評した。オスカーはそれを否定はしなかった。軍の女性たちが少なからず持っているような柔らかさをタニスは誰にも一切見せなかったし、弓兵や風の魔導士をオスカーが最優先で薙ぎ払っていたことをタニスは知らないようだった。彼女は常に誇り高さの分高圧的で生真面目な分厳格で理性的な分冷淡だった。 しかしオスカーはタニスを愛した。戦場で、野営地で、わずかな余裕を見つけては彼の心は彼女を探した。それでもオスカーは自らの分を弁えていた。恋を表層に曝け出す真似はしなかった。彼は自らタニスにとっての良き補佐役で在り続けた。「できることなら君をベグニオンに連れ帰りたいくらいだ」 オスカーの前で微笑むことを覚えた彼女が表情を緩めてそう言ったとき、オスカーはただ「ありがとうございます」と、タニスの言葉を単なる称揚と受け取ったように頭を下げたが、本心では彼女の真意を問いただしたくて仕方がなかった。オスカーの中で彼らしくもない感情の一部が喜ぼうとするのを彼らしくある他のすべてが懸命に抑えこんでいた。 そのうちにタニスの青い双眸がオスカーに信頼以上の何かを潜めて向けられるようになった。その「何か」の正体をオスカーは過たず理解していたが(それは単なる自惚れなどではなく)、彼がそれを彼女に指摘することはなかった。タニスはそれを望んでいないようだった。「オスカー」 タニスはその容貌によく似合う女性にしてはやや低めの声でたびたびオスカーを呼んだ。それはちょうど時を見つけてはオスカーがタニスを見つけて声をかけるように。そのたびに二人は戦況の話を、戦術の話を、未来の話を、国の話を、軍の話を、そして他愛のない話を語り合った。語らいあわなかったのは、愛の話だけだ。 オスカーは彼女から呼びかけられるたび、真摯に応えた。「はい、タニス殿」 オスカーはグレイル傭兵団の一員で、ただの貧しい平民の出で、オスカーにはタニスより優先すべき大切なものが他にあって、その生き方を変えることはできなくて、そしてまたタニスも、タニスはベグニオンの天馬騎士で、神使親衛隊副長の座にある貴族の令嬢で、タニスにはオスカーより優先すべき大切なものが他にあって、その生き方を変えることはできなくて、だからふたりがかりそめにでも同じものを見据えて歩み戦っていけるのはこの戦争の間だけだということはふたりとも理解していた。 このような臨時の軍でなければ共に戦うことすらなかっただろう。もしかしたら言葉を交わすことさえ。 一刻も早い戦争の終結を心から願いながら彼女と過ごす時間の一瞬でも長きを望んでいた。 オスカーにとってその二者は矛盾しない真実だった。「オスカー、君はベグニオンに来るつもりはないか」 すべての元凶であった凶王アシュナードがついに斃れた夜のことだ。戦勝の喜びに湧き上がり高揚の尽きない宴をそっと抜け出して、オスカーはタニスとふたりで酒を交わしていた。戦争は終結した、タニスたちベグニオンからの援軍がこれ以上クリミアに留まる道理があるでもなく、彼女らは明日にはベグニオンへ向けて発つ。残された最後の夜をともに過ごそうと、約束するでもなくオスカーとタニスは決めていた。クリミア城の、宴の様子がうかがい知れるとあるバルコニーにて。ここがタニスにあてがわれた部屋やオスカーの天幕ではないことがふたりの関係を――これ以上は進まず今日を最後に終わるふたりを――如実に形容していた。宴の熱気には不釣り合いなほど夜風はしっとりと心地がよく、頬を髪を撫でる爽やかさはこの場にはよく似合っていた。「君の腕は傭兵風情にしておくには惜しい」 タニスは相変わらず傭兵を下に見る。その言葉を聞くものが何を思うのかを重視しない、する必要がない、タニスの狭窄な真っ直ぐさも、オスカーにとっては愛おしかった。 いつか同じことをタニスは言った。あれが冗談だったのか世事だったのか本気だったのか、オスカーは今でも分からない。はっきりと分かるのは、いま、彼女は本気であるということ。「タニス殿……」 オスカーは柔和な顔にますます深く優しさを刻み、深々と腰を折った。「ありがとうございます」 いつかとまったく同じ言葉。 タニスは彼の内心を諒解したのか、短く「そうか」とだけ答えた。その表情にオスカーの記憶が刺激される。 ――私は卵の殻ひとつまともに割ることができん。 初めてタニスがオスカーに曝け出した剥き出しの彼女は小さなコンプレックスだった。何を思って彼女はオスカーにそんな話をしたのだろう。あのとき彼女は今まで見たこともないような、まるで少女のような色を青い双眸に閃かせてオスカーに笑いかけた。――呆れるだろう? ――私でよければお教えしましょうか? 願望半分に突き動かされ、気づけばそのように答えていた。差し出がましい台詞だと、慌てて「お嫌でなければ」と付け加えた。しかしタニスは取り立てて気分を害した様子を見せることもなく、ふむ、と薄い口許に細い指先を添えて少しの間考えると、君なら教え方もうまいだろう、と言った。ご教授願おうか。まるで街で笑いあう普通の男女のようなささやかで他愛ない約束だった。 結局果たすことはできなかった。彼女に料理を教える暇などはなく、たまの急速は疲れを癒すことに使った。戦場に疲労を持ち込めば命に関わる。兵士にとって急速は一種最優先の義務であった。タニスもまた自らその約束を蒸し返してはこなかった。もしかしたらかつてオスカーがまったく本気と言うわけでなくタニスの補佐役を志願したように、彼女もまったく本気というわけではなかったのかもしれない。まったくのその場限りの言葉でもなかったのだと、オスカーは信じるけれど。 ただ、タニスはオスカーが料理当番の日に「これは君が作ったのか?」と問うた。なぜ知っているのかと思ったが(タニスは戦争終結までオスカー以外の料理当番に興味を示さなかった)、誰かが話しているのを耳に挟んでいたらしい。アイクやミスト、ボーレ、ヨファ以下グレイル傭兵団の面々による評からオスカーの料理の腕前はちょっと知れたところとなっていた。「はい」とオスカーが答えると、タニスは「そうか」と重々しく頷いた。そしてオスカーが味を尋ねる前に、「美味いな、流石君だ」と、そう見えたのはオスカーの欲目かもしれないと思うほどに分かりづらく目許を和らげ、そして丁寧に完食した。 ふつりと会話が途切れた。夜風を縫って届く宴の喧騒に遮られて静寂が積もることはない。バルコニーの先から広がる夜の景観を無表情で眺めていたタニスは、やがて緩慢にオスカーを見上げた。冬空を映した冷たい水のような青い瞳が、いつになく弱さをたたえて揺らいでいた。その瞬間、オスカーの全身に堪えようのない寂寥感が堰を切って怒涛に流れ込んだ。バルコニーの細い手すりに一口分の酒がわずかに残ったグラスを置くと、彼はタニスへ手を伸ばした。細い体を両腕に閉じ込めても、タニスは声のひとつも上げなかった。思いのほか細かった背を、慄きながらそっとさすった。しっとりとした衣擦れが、タニスの堪えるような呼吸と混ざり合った。頭上に広がる夜空と同じ色をした短い髪を梳いた。指に絡まることもなく、感触を楽しむ前にするりと逃げてしまうそれにオスカーはタニス殿だと寂寥の中に安堵を灯したのだった。鼓動が響く。そこには確かに幸福があった。 お互いもっと大事なものがあった、だから選ばなかった。 そうして終わるこの恋に、けれどひとつだけ。 ベグニオンの空へと遠ざかる天馬たちと、その先頭で振り返りもせず背を伸ばすタニスを、オスカーは目に焼き付ける。天馬の翼が風を切る音に彼は随分と慣れ親しんだ。彼女に合わせて馬を走らせた日々はともすれば誇らしいほどに愛おしい。「いいのかよ、兄貴」 物言いたげに声を潜めるボーレに、オスカーは笑う。「……何がだい?」 終わることを知っていた。オスカーとタニスの道は本来交わらなかったはずのもので、女神のいたずらか何かで一瞬交差し、そして出会った、それだけの話であることをオスカーはきちんと理解していた。アイクと最後に言葉を交わし、そして愛馬へと踵を返した瞬間のタニスが、やや離れた位置でそれを眺めていたオスカーを確かに見た。それで充分だ。 彼は微笑む。 ただ、ひとつ願ってもいいのなら。 思い出であれたらいい。 貴方が思い出すに値する、思い出であれたら、それでいい。 [0回]PR