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Dear, my dear.

ゼノブレイド2非公式二次小説置き場。 ジクメレ・カグメレ等メレフ中心。 管理人:琉

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世界でいちばんつまらない絶景


 カグツチがメレフの呼びかけを無視した。
 メレフはもちろん仲間全員が衝撃を受けたが、当のカグツチが一番驚いている。

 発端は些細といえば些細で、大事といえば大事なことだ。
 天の聖杯の護衛任務という名目でレックスたちと楽園を目指す旅の途中。彼が団長の座を譲り受けたという傭兵団の拠点、フレースヴェルグの村へ赴いた。旅の目的に関係する用があるでもなかったが、団長となった以上あまり人任せにもできないというレックスの責任感によるものだ。カグツチもメレフもレックスのそのような真っ直ぐさを評価しており異論はない。どちらかといえばスペルビアの要人に入国許可が降りるのか否かの方が気がかりだったが、幸い特段の問題も起きなかった。
 テンペランティアに端を発したインヴィディア―スペルビアの開戦騒動から元アヴァリティア商会長バーンによる暗殺計画阻止までの一連で張りつめた心身を休息させようと、しばしの滞在が決定する。とはいえレックスを始め仲間たちは傭兵団任務及び運営についてのあれこれや団員の困り事に積極的に介入・解決していた。
 カグツチはそれを微笑ましく眺めながら手伝っていたが、いざ自分が当事者にされるとなれば少々話が違ってくる。
「左遷……ということでしょうか?」
「いや、違うんだカグツチ。決してそういう意味ではなく」
 渋い顔をしたカグツチをメレフは根気強く宥めた。
 フレースヴェルグ傭兵団はカグツチが思っていた以上に知名度があり、またレックスたちが旅の最中で積極的にその名を売っていたこともあってか、舞い込む依頼はインヴィディア国内外を問わず数多い。その中にはスペルビア帝国からの物もあった。
 要人護衛。アルバ・マーゲンへの重要会議に連席するウクリイェの女性要人のため女性ボディーガードを求めているという。思いがけぬ重大依頼にさてどうしたものかと傭兵団中枢が首を巡らせたとき、偶然村に滞在していたスペルビア帝国の宝珠に白羽の矢が立った。
 当然といえば当然の成り行きであり妥当な結論だとは思うが、本来の任務から外される形になるカグツチとしては納得がいかない。
「そもそもなぜこのような依頼をインヴィディアの傭兵団に……軍の仕事でしょう、これは」
「軍も相当数の人員を動員するようだがな。人は多い方がいいのだろう。緊急の応援となれば傭兵団を頼るのは悪い選択ではない。フレースヴェルグは兵士の派遣を行っていなかったようだから、スペルビアとしても声をかけやすかったのだろうな」
 溜め息をこぼすカグツチに、メレフは説得するような声音で言った。彼女の言う通り、フレースヴェルグ傭兵団の戦嫌いはスペルビアにも伝わっている。戦場に出る時は救護活動に限定され、ここの傭兵団員は帝国と直接刃を交わしたことはない。スペルビアに傭兵団は点在するが、まっとうな出自の者はまず正規軍を目指す国柄、傭兵団の信頼性という点ではインヴィディアに軍配が上がる。
 カグツチおらずしてメレフの身は大丈夫かと思ったが、彼女はすでにワダツミと同調を果たしていたし、この旅の間で新たなブレイドを得てもいた。カグツチがいなくてもメレフはドライバーとして力を発揮できる。何より帝国にいた頃は別行動も珍しいものではなかった。
 諸々の事情に理屈が通ってしまっている以上強行に否を唱える方が理不尽である。メレフと離れることは不本意ではあったが、最終的にカグツチはその任を受けた。
「レックス、メレフ様のことを頼むわね」
 出発時にそう言い置いたのは本音半分、自分の派遣を許可したメレフへの意趣晴らし半分で、メレフは苦笑しながら帽子の鍔を直していた。
 いざ行ってしまえば任務は滞りなく終了した。インヴィディアの傭兵団から応援が来ると思っていたらなぜか帝国の宝珠がやって来て目を白黒させたスペルビア兵士の慌てぶりはカグツチを面白がらせたし、メレフへの良い土産話ができたと思ったものだ。
 だのにいざフレースヴェルグの村に戻ったとき、メレフの姿はそこにはなかった。メレフだけではなく、仲間全員が見当たらない。
「レックスたちならフォンス・マイムへ行ったっすよ。そっちがいない間にまた別口の依頼があって。戻るまでゆっくり休んでいてくれって、あの軍人の姉ちゃんから伝言っす」
 実質の運営を任されているズオからそう告げられた時は肩を落としたが、そんなこともあると細い息を吐き出すに留めた。
 風向きが変わったのは、仲間たちが一度フレースヴェルグに戻ってきたときのことだ。
 簡単な使いと聞いていたが、たらい回しにでもされているのか王都でお人好しを発揮しているのか、メレフたちはなかなか帰ってこなかった。そもそもインヴィディアの辺境に位置するこの村から王都までの往復もそれなりの日数がかかる。たまには無為に過ごす日があってもいいだろうと暇を楽しめていたのは数日間のこと。やがて時間を持て余し始めた。酷い日には日記が数行で終わった有様である。
 だからメレフが帰ってきたと聞いてカグツチは顔をほころばせたのに、どうやら彼女たちはまだ依頼遂行中で、簡単な補給に立ち寄っただけらしい。聞けば一時間後には村を出て、このままグーラへ向かうと言う。
「それならメレフ様、私も」
 いそいそと準備をしようとしたカグツチに、メレフは手のひらを向けた。
「いや、いい。お前は本国への定期連絡を頼む。少々ばたついていて失念していたんだ。それが終われば待機。グーラへはワダツミたちと向かうから」
「ですが……」
「すまない、今は時間がないんだ。急がなければ最終の定期連絡便が出てしまう」
 そしてぽつんと残されたカグツチの胸の内にもやもやとしたつまらなさの種が芽吹いてしまったのは仕方のないことだと思うのだ。
 傭兵団任務を言い渡された時も自身に言い聞かせたが、単独行動は決して珍しいものではない。単身での待機も。そんなスペルビア帝国での日常が、背景がインヴィディアになった途端になぜだかどうにも面白くない。それを誤魔化すためにひとまずは言い渡された定期連絡文を無心で作成し商会経由で完遂したものの、それも終わって暇を持て余せば頭が勝手に言葉を並べ立てていく。
 単純な話、帝国での別行動は任務であり仕事であった。カグツチにしか成し得ない任務でありメレフが適任の目的であった。それでも数日を超えて会わない日は通信で連絡を取り合っていたし、別々に取得した休暇で何をしていたかどちらともなく教え合っていた。
 そこにあるのは厚い信頼と密なコミュニケーションで、間違っても今のように放って置かれてはいなかったのだ。
 それに何より、当時メレフのブレイドはカグツチ一人だった。メレフはカグツチなくしてはドライバーとしての力を発揮できなかったし、カグツチはメレフにもっとも近い理解者を自称して自惚れではなかった。それが今は、メレフは優れたドライバーの証のように複数のブレイドを使いこなして従わせている。その中にはカグツチと同じく帝国の宝珠と呼ばれるワダツミもいて、要するにカグツチはもはやメレフの唯一でもなければ宝珠としてすら代替されうる存在だ。
 その事実に気付いたとき背中がぞくりと粟だったのは、インヴィディアに充満する水の気配のせいではない。
 想像してしまったのだ。メレフがこのままカグツチのところに帰ってこなかったらどうしようと。馬鹿みたいな被害妄想のもしもだと分かっている。けれど、眠る直前の瞼の裏で夢を見るのだ。カグツチは暇を持て余し続けて、メレフは帰ってこなくて、ある日一通の手紙が届く。そこにはこう書かれている。私たちはこのままルクスリアへ向かうから、お前はもう帝国へ帰っていていいよ。
 そんなはずはないと一笑したくても、一笑してくれるメレフがいない。
 とどめのように最近の彼女を思い出せば、新顔のブレイドとの相互理解を最優先事項としてカグツチは後回しにされ気味だった。食事も雑談も戦闘も。すまないなと断られはしたし、カグツチも正しいと思いますよと答えた。少々思うところはあったが、メレフの第一のブレイドは自分なのだからと思えばその自尊心で寂しさを満たすことはできていた。
 だのに今メレフの側に控え彼女と力を合わせているブレイドは自分ではないのだ。
「――退屈ですね」
 呟きながら悶々と無為なる時間は過ぎていく。
 一日が経ち二日経ち、夜光の日が訪れてまた朝が来て。
 つまらない被害妄想にその都度頭を振って深呼吸をして。
 酒場ヴァーゲルのドリンクメニューを上から順に頼んで制覇したある夜、村の入り口が騒がしくなる。
 振り返れば遠目に見慣れた一団の姿があった。
 やっと帰ってきたらしい。
 足早に迎えに行く。お疲れさまでしたと労おうか、遅いですよと口を尖らせてみようか。そんなことを考えながら胸を逸らせて。
 けれど彼女を認めた途端、足の踏み出し方を一瞬で忘れてしまった。
 メレフはそこにいた。仲間たちの中に泰然として。
 そう、落ち着いた様子で。
 楽しげに雑談をしながら、カグツチを探すでもなく気付くでもなく。
 カグツチに気付いたのはサイカで、腕を振ってからメレフの方を突ついて教えてくれた。
 メレフがようやくこちらを向く。
 その途端、何かが我慢できなくなった。
 だって、こんなに待ちわびていたのはきっと自分だけで。カグツチが傍にいないメレフはいたって普段通りで。
「カグツチ」
 そう思えばあんなに見たかったはずのメレフの笑顔、カグツチを認めて頬を和らげた、子どもの頃から変わらない無邪気な綻び方が無性に許せなくなって。
 カグツチはふいと顔を背けて、そのまま今来た方角へと足を向けた。
 背中にメレフの困惑を感じる。
 瞬時に冷静を取り戻した頭が、何をしているのだろう、何てことをしたのだろうと己を叱ったが、振り返ってメレフの表情を確認する勇気は沸かなかった。



 フレースヴェルグ村を見下ろす棚田の頂、その隅の草葉で断崖を背に腰を落とし、ヴリランデと名付けられたサフロージュの老木を見上げていたカグツチは、数日前の己を思い出して溜め息を吐いた。
 結局あれから、メレフとはろくに顔を合わせていない。あの日カグツチが宿屋ハラグガルへ戻ったのは深夜のことでメレフは既に就寝していたし、その後も意図して食事の時間をずらし、日中も顔を合わせないようにしている。同室をあてがわれている以上ベッドだけは隣だが、日課である就寝前の散歩の時間を、部屋の電気が消えるまで伸ばせば言葉を交わさないのは容易だ。一度だけ暗闇の部屋でメレフがカグツチの名を呼んだが、それも眠っているふりをした。
 本当に何をしているのだろうと自分が嫌になる。別行動をしていることがあんなに嫌だったのに、いざ彼女が戻ってきたらカグツチ自ら意識して別行動を強要しているなんて。
 メレフは最初こそ困惑していたが、じきに不機嫌になって、しばらくもせず静かに狼狽え始めた。仲間たちは静観の構えだが、ヒカリだけは半眼になって声をかけてきた。
「何かあったの?」
「別に。なんでもないわ」
「ふうん」
 怒るでも呆れるでもない平坦な質問と相槌で短い会話は打ち切られたが、そういえばその前後でメレフの気配が不機嫌から狼狽へ変わっている。彼女が何かを吹き込んだのだろうか。
 眼下の村を感慨なく一望する。最初こそ良い眺めだと満足したものの、暇を持て余す中でもう新鮮さは失われてしまった。
 溜め息を一つ。同時に風が吹く。断崖に囲まれたこの村へ、洞窟を通って駆け抜ける風。巨大な湖の上を走り抜けて水のエーテルを強く含み、カグツチにとってはあまり気分の良い風ではない。彼女はスペルビアの赤土を舞い踊らせる乾いた風の方が好きだ。肌に良いのは、今のこの風のほうなのだろうけれど。
 葉擦れを起こすサフロージュの木を見上げた。赤みがかった葉がところどころ淡く光ろうとしている。夜光の前触れだと村の誰かが言っていた。この間も起こったのに、立て続けなんて珍しいな、とも。
 今日夜光が起これば、カグツチがそれを目にするのは三度目になる。二度目は待機を言い渡されたこの村で。そして一度目は、もう何年前のことだろう、メレフと共に眺めたのだった。宥和政策の実行を試みる皇帝ネフェルが女王ラゲルトを訪問した折、その護衛でこの国の土を踏んだ。偶然かインヴィディア側の計らいか、一面のサフロージュが美しく輝いていた。スペルビアでは叶わない絶景に、生真面目な軍帽の下で飴色の瞳がサフロージュに劣らずきらきらと光っていた。
「また、見たいな」そのとき、小さな声でメレフは言った。「この景色を、もう一度」
「ええ、きっと」
 インヴィディアとの関係が良好なものになればその日も遠すぎるものではないだろうと、カグツチは頷いたのだった。
 そのときの思いは叶わずあわや開戦というところまで両国の緊張は高まってしまったが、それでも様々な思惑の下戦火は消えて、求めた夜光の日を偶然にも迎えることが出来たのにそれを見上げたのはカグツチ一人だ。
 そうだ、あの日からなおさら全てがつまらなく感じるようになったのだ。稚拙な屈託が身の内に渦を巻いて、コアクリスタルを黒ずませてしまうようだった。
 コアクリスタルに触れる。幸い現実はそのようなことはなく胸のコアは済み透って青いまま。ならば同じだけ心も澄んでしまえたらいいのに。意地を脱ぎ捨てて寂しかったのですよと素直に口にして、子供のように口を膨らませてみたりして。矜持と理性が邪魔をして、そんなこと出来はしないけれど。
 こうしてへそを曲げていることだってほんとうは今すぐやめたい。だってこんなに面倒くさい姿を晒してメレフに呆れられたら取り返しがつかないではないか。それなのに何でもない顔をしてメレフ様と呼びかけることがどうにも悔しくてたまらないのだ。そしてメレフが困ったように自分を伺う視線が後ろ暗く嬉しくてやたらめったらに甘いのだった。
「カグツチ。良かった、ここにいたのか」
 メレフの声がして、カグツチは肩を震わせる。気のせいかと思ったが、軍帽を脱いだメレフが梯子の掛かった断崖から顔を覗かせていた。
 驚いて立ち上がる。メレフは軽やかな所作で梯子を登りきるとカグツチへ歩み寄った。この距離からでは気付かなかった振りもできない。カグツチは居心地の悪さを呑み込んだ。自業自得の味がする。
「探していたんだ。ほら、サフロージュが。夜光の前触れだと聞いて。村の外の……フォンス・マイムへ至る道に群生しているだろう。きっと壮観だろうから。一緒に行かないか」
 やや歯切れの悪い物言いだった。メレフらしくもない。逸らしていた視線を向ければ彼女の目線も瞬きの度に所在なさげに動いている。
 ほんの少し気が晴れる一方でますます居心地が悪くなって、カグツチは首を振った。
「結構です。……私はもう、見ましたので。少し前に。……一人で」
 メレフが傷ついたように眉を下げる。どうしてそんな表情をするのだろう。だってこれはただの事実だ。刃を振るったつもりなんてない。
「……私が見たいんだ。付き合ってくれないか」
「他の誰かを当たってください。ワダツミか、誰か」
「そんなことを言わずに。軽食も買ったんだ」
 彼女は普段使いの物よりもやや大きい鞄を軽く掲げて見せた。どうやら村で入手した買い物袋のようだ。
「夕食も、早めに頂きましたから」
 嘘だ。広場に人の気配が薄れてから食べに行こうと様子を伺っていた。どうしてこんな嘘まで口にして頷かないために必死なのだろう。
「そうか。……なら、デザートくらいは食べないか。お前の好きそうなお菓子を見つけたんだ。可愛らしくて、きっと気に入ると思う」
「気分ではありません」
「早く食べないと、駄目になってしまうよ」
「では、私の分は誰かに譲ってください。ヒカリなりワダツミなり、甘いものが好きなのは私だけではありませんから」
 ああ、駄目だ。可愛くない。こんな対応をしたいわけではないのに。メレフからどんな言葉をもらいたいのか自分が一番分かっていない。機嫌取りの一つでもして欲しくて拗ねていざ機嫌を取ってもらっても棘は一向になくならない。瞼の裏がなぜだか熱かった。もう、いよいよ馬鹿みたいだ。
「カグツチ」
 しっかりとした声で、名を呼ばれる。ならもういい、と続くことを想像して、続いて欲しかったのに、そう続くのが怖かった。
 メレフは側向くカグツチの顔を覗き込んだ。眼差しは透明で、どこか悲しそうだった。胸の奥が痛む。他の誰かがメレフにこんな表情をさせたら、カグツチはその輩を絶対に許さない。だからもう、ほんとうに、自分が嫌いになりそうだった。
 メレフは穏やかに深い呼吸をすると、ゆっくりと口元をゆるめた。そしてもう一度、「カグツチ」と言った。 
「お前とがいいんだ。お前と見に行きたい。……お前が行かないなら、私も行かない」
 カグツチは押し黙る。今より幼かった彼女のきらきらとした瞳を思い出す。今後サフロージュの夜光を臨める機会が何度あるか分からない、そのせっかくの一回をメレフはカグツチのために棒に振ると言う。
「…………承知しました」
 それは駄目だという分別くらいカグツチにはある。それに、これが最後だということも分かっていた。この機を逃せばますます意地の捨て方が分からなくなってこんがらがるだろうという想像力は、彼女にだって備わっていたのだった。



 村に風を運ぶ洞窟をメレフが先導する。目的地への近道なのだそうだ。とはいえ、道のりは思っていたよりも長い。風の声が岩肌に響き二人の無言をかき消してくれるのは幸いだった。メレフは足下の悪い箇所で時々振り向き、カグツチに手を伸ばした。そのたびに手を取ることを遠慮して、開けた浅い湖に出る。洞窟の出口は滝裏にほど近く、細かな水の粒子が頬を湿らせた。
 水量は多く、乾いた道は見当たらない。困惑するカグツチに、メレフが呼吸の分かる距離まで近寄る。驚いて後ずさろうとした彼女を制し、メレフは半ば強引にカグツチの手を取り、引き寄せた。
「首に手を回してくれ。スカートが濡れてしまう」
「いえ、結構です。平気ですから、この程度……」
「この足下ではお前は嫌だろう。ほら、大人しくしてくれ」
「きゃっ……!?」
 足下を突如襲った浮遊感に思わず声を上げて、カグツチは無意識のうちに唯一頼りにできるメレフの首に回した腕に力を込め、身を預けた。次の瞬間には冷静になったが、軽々と横抱きにされ、メレフの言うとおり大人しくしている他ない。暴れて二人揃って怪我でもしたら笑い話にもならないのだ。唇を引き結び、カグツチはそわそわと逃げ出したい心を懸命に呑み込んだ。意識しなければ不自然に呼吸が速まりそうになる。メレフはそんなカグツチを横目で窺うと、なぜかほんの少し、纏う空気を弛緩させた。
 草の生い茂る堅い地面まで到達して、やっと下ろしてもらえる。ほっと胸を撫で下ろすカグツチを促し、メレフは岸壁の方へとさらに歩を進めた。慌てて追いかけて、先ほどよりよほど視界が開けていることに気付く。淡い光の予兆を孕むサフロージュの木々が、向かいの崖上に、眼下の小島に、王都へ至る街道に、どっしりと胸を張っていた。
 メレフは胸ポケットからハンカチを取り出すと、手頃な岩の上にそれを敷いた。カグツチに座るように促し、自分はその隣へ腰を落として脚と手を組んだ。泰然と振る舞いながら指先だけが忙しない。カグツチは黙ったまま、勧めに従った。
 カグツチは俯き、メレフはカグツチとは逆の方向の景色を眺めていた。滝の音がする。遙か遠くで狼(ヴォルフ)の雄叫び。空気に色濃い水の香り。カグツチは自身の炎が周囲の水に負けて小さくなっているような気がした。もちろん、そんなことはない。カグツチはなまじっかな水を水蒸気に変える業火である。無意識に肩を縮めていた息苦しさがそんな錯覚を生じさせたにすぎない。
「…………怒らないのですか」
 静寂に負けて、ぽつりと言葉を落としたのはカグツチの方だった。
「何を?」
 カグツチに向き直り、メレフは静かに問う。
「…………いつまでもつまらないことで不貞腐れてているのではないと」
 言葉にすると情けなさが際立った。涙の気配を押し殺す。
 顔が上げられない。だが、メレフが首を振ったことはすぐに分かった。
「もう気付かれているとは思うが」
 メレフが足下に置いた鞄をごそごそと漁り、水筒を取り出す。注がれたのは湯気を立てるセリオスティーだ。良い香りがふわりと風に紛れる。
「これは私がお前の機嫌を取るための時間なんだから、存分に拗ねていてくれていい」
「拗ねてなんて」反射的に言い掛けたが否定できず語尾は事切れたように力無くなった。「……いません」
 促されてセリオスティーを受け取る。口を付ける。ほっと息を吐く。温かい。
「いいんだ。気が済むまで罵ってくれ。情けないことに、ヒカリに言われるまでお前の不機嫌の原因が分からなかったんだ」
「ヒカリ……ですか?」
「ああ。お前にそっぽを向かれた後、どうしたらいいか分からなくてな」
 同調して十数年、信頼するブレイドの初めての反抗にメレフはたいそう驚愕したと言う。仲間たちはたまたま虫の居所が悪かったのではないかとメレフを慰めたが、その程度でメレフを邪険にしないカグツチであることはメレフが一番よく知っていた。しかし避けられ続けて不可解が一周回って腹を立て始めた頃、「大丈夫よ」とヒカリが声を掛けてきたらしい。「あれ、拗ねてるだけだから。あそこまで酷くはなかったしあの頃のドライバーには隠してたけど、似たような顔を五百年前に見たわ」と。
「……余計なことを…………」
「彼女を責めないでくれ。おかげでやっと自分が悪かったことに気付いた」
 そこではたと内省すれば、そう言えば顔を合わせたのだってもう何日ぶりの話だったのだろうかとようようメレフは思い至ったのだった。
 微かに波打つセリオスティーの水面に自分の顔が映っている。叱られて家を飛び出て結局行き場をなくして途方に暮れた子供のようなそんな顔。
「甘えていたんだ。お前なら言わなくても分かってくれると……。ワダツミたちと理解を深めることをお前より優先したことも、お前に単独行動を命じたのも」
「分かっていますよ」
 遮るようにカグツチは口を開いた。
「分かっています、そんなこと。そんなことが分からないと思われるのは心外です」
 語気が荒くなる。もうここ何日も、感情のコントロールが効かない。
「本当に心を通わせるブレイドは多い方がいいに決まっていますし、それなら私より新顔が優先されて然りでしょう。それが一番効率的です。単独行動だって初めてのことじゃありません。信頼を頂けているがためと承知しております。分かっているんです、そんなことは!」
「カグツチ」
「分かっているのに、でも、だって、ずるいじゃありませんか。私のドライバーはメレフ様お一人なのにメレフ様は私以外にブレイドがいて、私がいなくても戦えて、私は放っておかれて、もう私なんていらないみたいで」
「違う!」
 突如腕を捕まれて、カグツチは驚いて息を詰めた。メレフは真摯にカグツチを見つめていて、視線の誠実が耐えきれなくなって顔を背ける。
 メレフは「すまない」と言って、手を離した。
「そんなことがあるわけがない。私はお前無しの私を想像できない」
「……案外、平気なんじゃありませんか?」
「…………少なくとも、そうなったら、私はもう炎の輝公子とは呼ばれないのだろうな」
 蒼炎を操るドライバーだから、炎の輝公子。その炎は本来的にはカグツチのもので、ただの人間であるメレフは一人では炎を操れなくて、だからその二つ名は、実はカグツチありきのものだ。市井で自分がそう呼ばれていると知ったときメレフは気恥ずかしそうにしていたが、カグツチは嬉しかった。不特定多数の民草がカグツチをメレフと不可分のものとして認識している証拠であったからだ。
 カグツチは再度俯く。両の手で包むようにして持つ水筒のコップ、セリオスティーから伝わる温かさを拠り所に言葉を探す。
「……こんなことで、って、自分でも思っているんですよ」
「うん」
「帝国にいる頃は別行動も当たり前でした。メレフ様だってそのおつもりだから、全部被害妄想だって、分かっていたんです」
「うん」
「でも、それでも、そんなときメレフ様は私を気にかけてくださっていたでしょう。通信を頂いたりお手紙を頂いたり、労いのお言葉をくださったり。そういったものが、今回は何もなかったでしょう」
「すまない」
「寂しかったんです」
「うん」
「放っておかれて、不安になったんです」
「うん」
「最近はあまり構っていただけませんでしたし」
「うん。すまない」
「退屈でした」
「うん」
「……退屈だったんです、とても」
 たとえサフロージュが夜光を纏っても。
 言葉が全部足下に零れ落ちてしまって、カグツチは自然と黙り込んだ。そんな彼女の手からメレフはコップを取って、セリオスティーを注ぎ足してまた返した。先ほどまでより濃く湯気が上がる。それを眺めていると、横からバターの香りがする袋が差し出された。花を描いたアイシングクッキーが入っている。促す目線に従って一つ頂戴し、普段より小さめに齧った。繊細な甘さが舌を刺激する。好きな味だ。
 お茶とクッキー。その組み合わせに記憶が刺激される。帝国では折に触れてメレフと二人きりのお茶会を楽しんでいた。そして彼女と喧嘩をしたとき、だいたいはカグツチが口うるさく説教をしてメレフがうんざりして言い争いが始まり、そのまま意地を張って気まずくなってきた頃に、珍しい茶葉とバターの効いたクッキーを用意して、カグツチはお茶でもいかがですかとメレフを誘った。それが仲直りの合図だった。
 サインを出すのは常にカグツチで、メレフはいつも頷く側だった。メレフの方から仲直りを試みるのは、思い返せばこれが初の試みである。そうか、とカグツチは得心した。狼狽えていたのはきっとどうすればいいか分からなかったからで、そして結局カグツチの真似をすることにしたのだろう。夜光というかっこうの口実を手にして。
「これは笑い話なんだが」
 メレフは喉を鳴らして、組んだ脚に頬杖を突いた。
「今回な。フォンス・マイムでもグーラでも、ついうっかりお前に話しかけているつもりで何度か喋ってしまって。まあそれは結局大きな独り言にしかならなかったんだが。ニアに笑われたよ。あと、お前がいるつもりで振り返ったらワダツミで驚いた」
「それは……そうでしょう」
 眉を寄せたカグツチに、メレフは苦笑してみせた。
「それはそうなんだがな。だから、なんだ。その、うん。私だって会いたかったんだ。スペルビア特別執権官の名でインヴィディア国内に手紙を出すわけにもいかないし、フレースヴェルグ村の通信を私用に使うのも気が引けたし」
「……連れて行ってくださればそれで良かったのに。もう少し待っていて頂けたら」
「それも考えたんだが。お前はどうしたって目立つだろう。スペルビア帝国の宝珠がそこにいると、遠目でも。フォンス・マイムで悪目立ちしたくなかったんだ。ワダツミならまだ目立たない」
「そんなご配慮があったなら、一言伝言でもあれば私、納得しましたのに」
「私の怠慢だった。すまない。どのみちグーラ行き直前の方は申し開きのしようもない。それでいざ帰ってきて、私が会いたかったのだからお前だってそうだろうと信じて、酷いことをしてしまったことにも気付かないで……短慮にもほどがあった。埋め合わせに、どんなことでもきっとしよう」
 ゆるゆると流れていた風の気配が不意に変わった。直感に訴えかける言語化できない予兆に、二人は揃って風の吹く方向、向かいの岸壁へと目を向ける。視界の端に映り、そして視界を覆う桃色の光の粒。丸いようで僅かに扁平な姿をして、まるで花びらのようだった。夜光と呼ばれる自然現象。風に揺られて巨神獣の内部を充満させる幻影の落花。
 先日目の当たりにしたそれよりも遙かに美しいようにカグツチには思えた。メレフはどんな横顔でこれを眺めているのだろうと首を向ければ、琥珀色の双眸が自分を見ていてどきりとする。どうやら彼女も、同じことを思っていたらしい。
 メレフは軽く俯いて、目線だけでカグツチを窺った。
「……許してくれるか?」
 子どもの頃からのメレフの癖だ。謝るときの。カグツチに許してほしいときの。
 そしてカグツチは昔から、この顔にめっぽう弱かった。
「ずるいですよ、メレフ様。こんなタイミングでそんなお顔をされて、許しませんなんて言えないでしょう」
「気が晴れないなら無理して許そうとしなくていいんだぞ?」
「いえ、もう十分です。……嫌われたくはありませんし」
「良かった」メレフは胸をなで下ろした。「愛想を尽かされていたらどうしようと思っていた」
 それからしばらく、幻想の花弁に乗せて静寂が降った。呼吸をこれっぽっちも遮らないしじまであった。カグツチは黙ったまま、メレフの肩にそっと頭を預けた。メレフはカグツチを一瞥して微笑むと、腕を回してその身を支えた。滝の落ちる音が近くから遠くから響いて腹に響き、肌にまとわりつこうとしたが、二人の周囲だけはカグツチの発する炎のエーテルに包まれて温かかった。軍服の硬い布地越しにそれでもメレフの柔らかさを肌に感られた。
 どれほどそうしていただろうか。うとうととしている自分に気付き、カグツチはゆっくりと身を起こした。深呼吸をする。メレフは肩をぐるりと回すと、一言断りを入れて足下に置かれた鞄の中を漁り、サンドイッチを取り出した。そういえば誘われた際に色々買い込んだのだと言っていた。一緒に食べるつもりの夕食だったのだろう。
「……私にも頂けませんか」
 メレフは不思議そうに目を丸くした。
「もちろん構わないが……、もう食したと言っていなかったか?」
「嘘だったんです。つい意地を張りました。……私も、お腹が空きました」
 暴露しながら顔から火が出そうだ。
 メレフはさもおかしそうにくつりと喉を鳴らした。それから再度鞄に手を入れ、唇を引き結んだカグツチに「どれがいい?」と聞いた。サンドイッチの具はフラミーの玉子、アルマ肉のカツ、バールロブスターのフライ。スコーンは六個三種。プレーン、チョコット、クロザクロ。
「こんなに買ったのですか?」
 先ほどのクッキーを含めて相当な量だ。もしまだデザートが追加されるならカロリーオーバーもいいところである。
「まあ、うん。選べた方がいいかなと。スコーンは腐らないしな。ああそうだ、クロケットクリームもあるぞ」
「お菓子が駄目になってしまう、みたいなことを仰いませんでした?」
「釣り文句だ。事実誤認だった。詫びよう」
「もう、メレフ様ったら」
 ささやかな開き直りが妙におかしくて、カグツチは口元に手を当てくすくすと笑う。
「ああ、良かった」
 それを見て、メレフがほっと息を吐いた。
「え?」
「やっと笑ってくれた」
「メレフ様……」
 少し悩んで、クロザクロのスコーンをもらう。スペルビアのスコーンよりも柔らかく、千切ってもパン屑があまり零れないのは幸いだった。甘酸っぱい風味に舌鼓を打つ。「美味しいです」と声を弾ませるカグツチを、カツサンドを齧りながらメレフは楽しそうに眺めていた。
 ひとつめを食べきってしまった後、ほんの少しクロザクロに名残惜しさを覚えたことを見抜かれたらしく、メレフはもう一つのクロザクロのスコーンを差し出した。スコーンは一種二個ずつ。これはメレフの分だ。普段ならば気持ちだけ頂いて遠慮するところだったが、少し迷って、半分だけ受け取った。今日はこれくらい甘やかされてしまっても罰は当たらないように思った。

 夜も更ける頃、フレースヴェルグ村の正門へ続く道を通って村へ戻った。
 笑い合いながら手を繋いで帰ってきた二人を見て、仲間たちはほっと安堵の息を吐いたという。

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