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Dear, my dear.

ゼノブレイド2非公式二次小説置き場。 ジクメレ・カグメレ等メレフ中心。 管理人:琉

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Your Favorite Things 2

ジークが手に持ったグラスの中で、溶けた氷が崩れる軽い音が響いたそのとき、ゴルトムントの船内に、21時を告げる音楽が鳴り響いた。本来の目的は、船員たちの勤務時間シフト交代を知らせるものだと聞くが、アヴァリティアに一晩の宿を求める旅人にとっては、今日の終わりを予感させる旋律でもある。ハラペッコ食堂のあちこちで、人々が立ち上がり宿へと戻っていく。響く音楽の、最後の一音の余韻がその雑音に完全に溶けきってしまったのを見計らったかのように、ジュースを飲み干したレックスが大きく伸びをした。

「そろそろお開きかなあ。あー、美味しかったあ」
「トラもおなかいっぱいだも~。もう何も食べられないも……」
「ご主人、食べ過ぎですも」

 至福の笑顔でゆらゆらと揺れているトラに、ハナの静かな指摘が入る。しかしハナの顔には笑顔が張り付いており、食物摂取機能のない彼女ではあるが、香りと雰囲気で夕食を存分に楽しんだことを窺わせた。

「ふふ……。みんなに喜んでもらえて、頑張った甲斐がありました」

 ホムラがくすぐったそうに笑声を零した。二つの丸テーブルいっぱいに乗っていた、タルタリ焼きにジューシーサモ、雲海蟹クリームコロッケにクリームオレンジパラータといった、彼女が腕によりをかけて作った子どもたちの好物は、綺麗に食べつくされて、いま目の前にはソースさえ殆ど残っていない空皿ばかりが並んでいる。ようこんな作ったな、とジークは今更ながらに感心する。前述した品の他にも料理は用意されていて、その数合計十品目に及ぶかという、ホムラの言葉に違わぬごちそうであった。

「片付けまでやるって約束で場所借りたんだけど……亀ちゃんとメレフがやってよ。準備、何も手伝わなかったんだからさ」

 まったくどこ行ってたんだよ、と、夕食前と同じ台詞でニアがごちた。
 約二時間前、ジークとメレフがレムレイムへ戻った時には、19時を15分過ぎていた。荷物を置き、二人がレムレイムを出たタイミングでニアと行き合った。そして二人が遊び歩いていたとしか思っていないニアは、開口一番に「遅い、どこ行ってたのさ!」と言ったのだ。とうに用意が出来ているのにジークとメレフが帰らずに食事を始められないことに痺れを切らしたニアが、二人を探しに来たらしかった。

「お嬢様、そのような言い方は……」

 傍らで毛づくろっていたビャッコが神妙な顔で口を挟み、ジークとメレフを交互に見る。二人の厚意から来る企みを知っている彼は、何も知らないニアが二人の気分を害さないか気が気でないのだろう。

「ええでビャッコ。ま、そんくらいやっとくわ」

 と言っても、ニアの視点から見れば、さぼっていた大人二人に対するニアの怒りにも理がある。ジークは鷹揚に頷いた。左隣の席のメレフは無言だったが、微笑を以てジークの台詞に同意する。

 レムレイムへ帰っていく子どもたちの背中を見送りながら、ジークはムキキムコムギの蒸留酒ウォッカを煽った。度数40度を誇るアルコールが喉を滑り落ちる。空になったグラスに新しい氷を入れ、手酌で次の杯を注いだ。そんなジークの右隣から、サイカが笑声交じりにジークの顔を覗き込む。セイリュウとビャッコは子どもたちに付いて宿屋へ戻り、ここにいるのはジークにサイカ、メレフ、カグツチの四名だった。サイカの手元にはウォッカの炭酸ソーダ割りが、カグツチの手元にはワインがそれぞれ置かれている。

「言われてしもうたな、王子」
「あの分やと勘付かれはないみたいやな。サイカたちのおかげやで」

 労うと、サイカの肩関節の発光が僅かに強くなった。

「せやろ。めっちゃうるさかってんで? 王子とメレフはどこ行ったんやーって」
「知らない振りを貫いていたのですが、ブレイドなんだからドライバーの行き先ぐらい把握しておけ、と言われてしまいましたね」

 思い出してくつりと喉を鳴らしたカグツチに、メレフはおかしそうに笑ってグラスに口を付けた。彼女の唇を湿らせるのはヒートオレンジとラブラズベリーが沈むサングリア。酒に混ぜ物をしない主義のジークからすれば、殆どジュースのようなその酒を、メレフはゆっくりと嗜んでいる。確か食事が始まってから数えて、まだ三杯目の途中のはずだった。

「彼らからすれば、正論だな」

 ゆったりと笑みを深めたメレフは、脚を組み替えて子どもたちの消えていったレムレイムへ顔を向ける。天井に吊るされた紙製ランプと、丸テーブルの中央で揺らめく蝋燭の火が、彼女の頬を柔らかなオレンジ色に照らしていた。

「そろそろ気付くころか?」

 ジークも倣う。レムレイムとハラペッコ食堂は隣接しており、ここから看板が読める程度近いが、それでも屋内の様子を窺うことは不可能だ。その瞬間を拝めないことがちぃと残念やな、と今更思い、酒と共に飲み下した。

「結局、何を求められたのです?」
「せやせや、ウチら何も聞いてへん」

 カグツチとサイカが口々に問いかけた。ジークとメレフが戻った直後に夕食が始まったため、彼女たちと企みの内容について何も話せていなかったのだ。

「ボンにはセイリュウのじーさんから教えてもろうた珊瑚オセロやろ。思えばあのボードゲーム屋が一番人が多かったなあ。ホムラはセリオスティーのええ奴で、ヒカリには……」

 買い求めたプレゼントを、そのときのアヴァリティア・バザールの様子と共に語って聞かせる。時折メレフが口を挟んで捕捉し、サイカとカグツチは黙って耳を傾けている。話しながら氷を溶かそうとグラスを揺らすジークの手元で、からからと軽い音が何度も鳴った。
 そうやってまったりと過ぎていた時間が、不意の喧騒で掻き消された。食堂に残っていた他の客の注目を浴びながら、その一団が足早に駆けてくる。「お楽しみの時間だな」と、誰に言うでもなく、メレフが呟いた。

「ジーク、メレフ! これ! これって……」

 先頭を走って四人のテーブルまで戻ってきたレックスが、目を見開いて頬を上気させて、珊瑚オセロの箱を見せてくる。元は青い包装紙を掛けてもらっていたのだが、それは宿屋の床にびりびりになって転がっていることだろう。レックスの後ろで、ホムラ、ニア、トラ、ハナがそれぞれ驚いた様子で大人たちを見つめていた。

「おう、気に入ったか? ワイとメレフからや」

 にやりと笑ったジークの隣で、メレフが苦笑する。

「カグツチにサイカ、ビャッコ、セイリュウ殿にも協力してもらったから、私たちだけの手柄ではないがな」

 二人の言葉を受けて、レックスたちはジーク、メレフ、カグツチ、サイカ、ビャッコ、セイリュウの顔をそれぞれに見回した。一様に微笑む大人たちの視線を受けて、レックスは照れたように頷き、ニアは唇を尖らせて、こめかみを掻きながら上空を見やった。

「凄いも! どうしてトラやハナの好きなものが分かったも?」
「レックスたちのもですも。欲しいものなんて、何も言ってなかったはずですも」

 最年少のトラとハナはきらきらした目でぴょんぴょんと飛び跳ねている。それに合わせて、ハナが手に持っていたマラカスが、しゃんしゃんと小気味よい音を立てた。

「大人は、案外何でも知っているものだ」
「凄いも!」
「凄いですも!」

 メレフの返しに、トラとハナがさらにテンションを上げて跳ねる。くるくると回転まで初めた二人(一匹と一体)を横目に、ジークはメレフに「なんや、えらい恰好つけよるやないか」と小声で耳打ちした。どうしたって声音に乗ってしまったからかいの色に、「うるさい」と端的に跳ね除けられ肘で小突かれる。

「あの、ありがとうございます。私に、ヒカリちゃんまで貰ってしまって……」

 おずおずと頭を下げて嬉しそうにホムラが一礼する。彼女が頭を上げた瞬間、その体を真っ白い燐光が包んだかと思うと、金色の長髪が広がった。普段はややきつめに、真っ直ぐに相手を射抜くはずのヒカリの視線は、所在なさげに、恥ずかしそうに定まらないまま、ジークたちよりも遠くを見据えた。唇を尖らせて、ぶっきらぼうな声音が「……ありがと。嬉しい」と礼を言う。ヒカリの素直になりきれない性格をそろそろ把握したジークにとって、それは微笑ましいだけの仕草でしかない。

「うん、ありがとう! 凄いサプライズだ!」

 レックスが満面の笑みを浮かべる。その横で、トラとハナが口々に「ありがとうだも!」「ありがとうですも!」と、それぞれ片羽と片手を上げた。

「あの、さ。……ありがとう。びっくりした。……それで、その、ごめん。あたし、何も知らずに片付けとか言っちゃって」

 ヒカリと同じように、ジークたちに視線を合わせないまま礼を言うニアだ。自分たちのためにプレゼントを用意してくれていたのに、それを知らないまま、責めるような物言いをしたことを恥じているのだろう。跳ね返りやが、ええ子やな、と、ジークはニアの台詞を笑い飛ばすように右手を上げ、そのてのひらをひらひらとはためかせた。

「かまへんかまへん。片付けも別にええで、ワイらでやっとくわ」
「うむ。君の言い分も最もだったのだ。気にするな」
「でも……」

 口々にニアを宥めるジークとメレフに対し、再びヒカリから入れ替わって表に出てきていたホムラが身を乗り出す。それを遮ったのは、レックスの側でふよふよと飛んだまま一連の眺めを満足そうに眺めていたセイリュウだ。

「こういう時は、甘えておくのも礼儀じゃ。どうしても気になるなら、また別の機会に返せば良い」

 それが鶴の一声となった。レックスたちはまだ少し躊躇いながらも再度感謝の言葉を繰り返し、レムレイムへと戻っていく。
 子どもたちがかなり騒いでしまったことで、周囲への迷惑が気になったジークだったが、ハラペッコ食堂に残っていた客も店員も、ジークたちのテーブルに向けているのは微笑ましそうな視線ばかりだった。子どもが無邪気に喜ぶさまと言うものは、人々の心を温かくさせるらしい。一応、と各方向に会釈だけしておく。

「ジーク様、メレフ様。お嬢様方のために、ありがとうございました」

 ジーク達の傍らでずっとお座りをしてたビャッコが深々と首を下げる。

「それに……私たちまで頂いてしまって」
「なんだかすまんのう」
「ええって。どうせついでや」

 メレフと目を合わせ、無言で頷き合う。せっかくだから、と、帰還の港からレムレイムへ戻るまでの間に、ビャッコとセイリュウの分も二人で用意していたのだった。夕食に遅刻した原因の一つである。子どもたちにだけ用意するというのも、仲間だというのに水臭いだろうというのが、二人の一致した意見だった。

「ワイらはもう少し飲んでから帰る。片付けもせんとあかんしな。ボンらのこと頼むわ」

 そう言ってビャッコとセイリュウを送り出し、再び四人だけになった丸テーブルに、ようやく平穏が戻ってくる。大きく息を吐いて、だいぶん氷の溶けてしまったウォッカを一気に飲み干した。

「……怒涛やった…」

 手足を伸ばして再度深呼吸。子どもたちのハイテンションを真正面から受け止めるだけでどっと体力を消耗した。「つっかれたわ」誰に言うでもなく呟く。昼の買い物と合わせて、下手なモンスターと戦うより余程疲労が溜まっている。
 そんなジークを一瞥し、レムレイムの方を見遣ると、メレフは柔らかく目を細めた。

「だが、あんな笑顔を見られるのなら、この疲れも悪くないものだな」
「せやな。子どもが喜ぶ様を見るんは、ええもんや」

 両手を頭の後ろで組み、メレフに倣ってレムレイムの方へ顔を向ける。きっと今なお、部屋ではしゃいでくれているのだろう。
 ジークの手元で、空いたグラスにサイカが次のウォッカと氷を注いでくれた。ふと隣を見るとメレフのグラスの中身も半分より減っており、カグツチがウエイターにスティルを注文しているところだった。どうやらメレフはこれで打ち止めのようだ。

「いいことをなさいましたね、メレフ様」
「ほんまに。王子、お疲れさん」

 カグツチとサイカが二人を労う。メレフと無言のまま目を合わせ、ジークはひょいとウォッカのグラスを顔の前に掲げた。彼女もサングリアのグラスを手に応じる。硝子が触れ合う透明な音が、二人の間できんと響いた。
 本当に、全然悪くはなった。子どもたちの喜ぶ姿には千金の価値があったし、それに、メレフとの買い物も、渦中においては人混みと時間との戦いで必死だったが、思い返せばなかなかに楽しいものであった。ああ料理対決の話は忘れんようにせんとなあ、と頭を掻く。ひとまず宿に戻ったらルクスリアまでの航海図を確認して、スペルビアに立ち寄れるかどうかを判断しよう。
 そんなことを考えながらウォッカを飲むジークの横で、ウエイターがら[[rb:水 > スティル]]を受け取ったメレフが、「いや、実を言うと、まだ終わっていないのだ」と言った。何のことかと疑問符を浮かべるサイカとカグツチを横目に、ジーク一人が、彼女が何をしようとしているか知っている。
 足元の荷物籠に置いていたポーチを手に取り、その中から赤の包装紙に金のリボンが結ばれた箱を取り出すと、少し気恥しそうにしながら、メレフはそれをカグツチに差し出した。

「カグツチ、お前にこれを。……普段世話になっている、その礼だ」
「え……」

 予想だにしていなかったメレフの厚意に、カグツチが戸惑って言葉を失っているのが、ジークの目からもよく分かる。ジークはテーブルに肘を付き、ウォッカを舐めながら見物の姿勢に入った。カグツチから最も遠い位置に座っているサイカが、興味深そうに曇り眼鏡の向こうの目を見開いているのが見える。
 当惑を落ち着かせられないまま、促されるままに贈り物を受け取ったカグツチに、メレフは彼女らしくもなく、やや傍向いて肩をすくめた。自分を真っ直ぐに見つめるカグツチの顔を直視することができないらしい。普通逆やろとジークは胸中で突っ込みを入れる。

「拝見しても?」
「ああ。こんな時でなければ、もっと時間を掛けて考えて、取り寄せもできたのだろうが……」

 断りを入れたカグツチは、ひび割れた硝子細工を扱いでもするように丁寧な所作で、その包装をほどいていく。包装紙を一片も破ることなく、彼女はその中身を取り出した。その間も、面映ゆそうな微笑を張り付けたまま、メレフはまるで言い訳を並び立てるかのように言葉を紡いでいる。喜んでもらえるのか自信がなくて、不安と緊張を誤魔化しているのだろう。子どもたちへのプレゼントはあれほど冷静に候補を並べて即断即決していたのに、相手が自分のブレイドとなれば話は変わるらしい。炎の輝公子殿にも、可愛らしいところがあるものだ。

「あまり気の利いたものでなくてすまない。この時期限定のデザインだそうだ」

 カグツチの手元を盗み見る。限りなく透明に煌めくガラス製の容器には、どうやって描いたのか、蝋燭の光を弾いて細かく光る金と銀の線で細やかな意匠が描かれている。だが、ジークの知識ではそれが何かの判別はできない。と、傍らのサイカが「うわ、すごい」と小声で零した。

「知っとるんか?」
「アルマ油ハンドクリーム……の、めっちゃええラインのやつ。とてもやないけど、うちはあれに手ぇ出せへん」

 ぼそぼそと喋るジークとサイカを尻目に、当のメレフとカグツチは声を発しない。
 口許に手を当て、堪えるような呼吸を繰り返すばかりのカグツチの顔を、不安になったらしいメレフが首をかたむけて覗き込む。

「カグツチ? その……やはり、気に入らなかったか?」
「滅相もございません!」

 弾かれたようにカグツチが声を上げた。唐突な大声にメレフが仰け反る。すみません、と殆ど反射のように謝ったカグツチは、何度も何度も、隣に座るメレフと、手元のガラス瓶を見比べて、やがて、やっと感情が追い付いたと言うように頬を緩ませた。

「申し訳ございません。メレフ様のお心遣いが、あまりに嬉しくて……。どのような言葉を、どれほど尽くせば、この喜びと感謝をお伝えすることができるのか、…分からないのです」

 泣き出しそうな至福がジークにさえ伝わってくる。ドライバーであるメレフは尚更、それを肌に感じていることだろう。やっと安心したように、メレフは肩の力を抜いた。「使ってくれたら、ありがたい」そう微笑んだメレフは、漸う普段通りにカグツチを正面から見据えた。
 その様を眺めていたジークだったが、同じように二人を見ていたサイカの唇が、ふいに少しだけ、拗ねるように尖ったのを認めた。横顔から窺える、微笑ましそうに細められた翡翠の瞳が微かにさざめく。くつりとジークは喉を鳴らした。ブレイドにこんな格好を付けるのが、メレフだけだとでも思っているのだろうか。
 ジークはおもむろにサイカの方へ手を伸ばし、その頭を大雑把にぐしゃりと撫でた。

「えっ? え、何、王子、何?」
「サイカ、そんな羨ましそうな顔せんでええやんか。お前にもちゃんとあるわいな」
「へ?」

 戸惑っていたばかりのサイカの声が困惑を振り切って裏返る。ジークは自身のポーチから、メレフと同じ、アヴァリティア・バザールのコスメ・クレオールで買い求めたそれを取り出し、サイカに押し付けた。メレフがカグツチに、ジークがサイカにそれぞれ用意した、クレオールでの買い物が、夕食に遅刻した最たる理由であった。
 ジークがサイカに渡したそれは、空色の袋で、口を深い群青色のリボンで結んでいる。包装紙の色を聞かれたときサイカを思い出しながら答えたが、我ながらいい選択だったと自画自賛し、「開けてみ」とサイカを促した。
 包みを手に、ぼうっとジークを見つめていたサイカだったが、弾かれたように、封をするリボンをほどいた。先程までとは逆に、メレフとカグツチが自分たちを見ている気配がする。見せもんやないで、と思ったが、先に見せ物として楽しんだのは自分の方なので文句は言えない。
 焦りすぎて不器用になってしまう手付きで封を開けたサイカは、中身を取り出して、眼鏡越しでもはっきりと分かるほど、その双眸を見開いて、きらきらと輝かせた。

「王子、これ……」

 サイカが取り出したのは、ムーンスターリップと呼ばれる、色付きリップクリームだった。筒身は明るい花緑青エメラルドグリーンに彩られている。半透明の樹脂で象られた月のオブジェクトがキャップの頂きに据えられて、持ち手の部分には小さな星の絵がいくつも描かれていた。メレフの提案に渡りに船とばかりにクレオールまで行き、しかし化粧品の知識など皆無で、何がいいのかさっぱり見当もつかなかったジークに、18,9くらいの女の子? だったらこれ、こっちは最近の出た新色で、その中でもこの色が一番の人気ですよーと、店主ナリーザが勧めてくれた代物だ。今日この瞬間に残っていることが奇跡とさえ力説された。少々少女趣味だが、サイカの好みには嵌りそうだった。ちなみに、そのとき相談相手として当てにしていたメレフは、他の買い物の途中にカグツチへの贈り物を既に決めていたようで、早々に会計を済ませて、少し別のところを見てくる、と消えてしまっていたのだった。
 ビャッコとセイリュウへ告げた「ついでだから」という台詞の正体は、これだ。子どもたちだけならまだしも、カグツチとサイカへもそれぞれプレゼントを用意するのに、あの二匹だけ何もないのはちょっと、と、そういう意見の一致であった。 

「凄い……王子、凄い、めっちゃ可愛い!」

 喜色満面。そう表現するに相応しい笑顔で、普段よりトーンの明るくなった声で、サイカがジークを真っ直ぐに見つめる。下がり癖のある彼女の尾が天井を向いて、その先端に付随している発光体がぴかぴかと点滅を繰り返した。緩みきった頬が赤らんでいるのは、酒に酔ったせいではない。

「こんなん史上最高やわ…! え、どうしよう嬉しい」

 ムーンスターリップを胸に抱えて堪えきらない笑声を零してすサイカに、ジークの全身に満足感と達成感が染み渡る。サイカが全霊で喜んでくれていることが、ジークにはこの上なく嬉しい。

「ま、まあ、王子がこんな気ぃ遣うてくれるなんて、明日の雲海は荒れそうや」

 だから、取って付けたような憎まれ口は可愛らしい照れ隠しとして処理する。息を吐いてふと隣を見ると、メレフと目が合って、声を出さずに、良かったな、と彼女の唇が動いた。あんたもな、と、こちらも唇だけで返す。
 サイカの喜びようを一通り満喫すると、さて、とジークは再度ポーチの中に手を伸ばした。本命は滞りなく終了したが、渡す相手はもう一人だけ残っている。

「あと、メレフ。これはお前な」
「私に?」

 その最後の一人に向かって、ジークは小箱を押し付けた。こちらもクレオールの包装だ。メレフがカグツチに渡したものと同じ赤い包装紙。サイカへのムーンスターリップが決まった後、じゃあこれを、とナリーザに渡すとき、陳列棚に並ぶそれが不意に目に入り、せっかくだからと気まぐれ混じりの思い付きで一緒に包んでもらった。

「開けてみても?」

 頷く。不思議そうな顔を隠しもせず、メレフは包装紙を開いていく。先程のカグツチやサイカほど、几帳面でも焦ってもいない手付きだが、包装紙を破るような真似はせずに淡々と。そして現れた硝子瓶を目線の高さまで掲げて、彼女は数度、ぱちりぱちりと瞬きをした。

「香水?」

 彼女の片手に収まる大きさの、薄桃色の硝子瓶の中で、メレフの手の動きに合わせて、透明な液体が揺れていた。瓶の底には小さな硝子玉とファイアオパールの欠片ビーズが沈んでいる。

「最近、アヴァリティアで流行っとるシリーズらしいで。知らんけど」

 ちなみに何種類か選択肢があったのだが、あまり悩む時間もなかったため、ジークは一番男が付けていても違和感のない香りはどれかとナリーザに聞いた。ナリーザはこれはもう女性向けのものなので男性には、とジークを不審そうに見ながらも、一番爽やかで無難という、柑橘シトラスが淡く香るものを選んでくれた。今気が付いたが、もしかしてジーク本人が付けるとでも思っていたのだろうかあの店主は。わざわざ包装して貰った時点でその疑惑は晴れたと思いたいが。

「ほんまは、美術品とかのが趣味に合うんやろうけど、時間もなかったし堪忍してくれ。ま、要らんかっても部屋の賑やかしにくらいなるやろ?」

 と言っても、別にジークとしては、趣味に合わなければ捨ててもらっても構わないくらいの気持ちではあった。こういうのは気持ちや気持ち、と、サイカのものを選んだ時とはずいぶん違う気楽さで構える。
 小瓶を興味深そうに眺め、時折揺らしては底に沈むビーズを香水の中に転がしていたメレフは、ふっと頬を和らげると、ジークを真っ直ぐに見つめた。

「いや、ありがたい。大事にさせて頂こう。……感謝する」

 そして小瓶をテーブルの上におもむろに置くと、「用意しておいてよかった」と、彼女もまた再びポーチを手に取って、何やらその中を漁った。何や、とその手元を覗き込もうとしたジークの鼻先に、メレフは深緑の包装を施された直方体を差し出す。反射で受け取り、中身を改める。「王子、行儀悪い」とサイカの注意が飛んだ。

「おう、開けるで」
「すでに開けているわね……」

 事後承諾のジークにカグツチが呆れ声を上げる。当のメレフは予想していたと言いたげに苦笑していた。
 包装紙を破いて現れたのは、果たして本であった。砂礫の色をした表紙に、背を向けた青年の絵が、砂絵のようにぼんやりとした輪郭で描かれている。一冊の頁数は多く、それが二冊。タイトルを眺めるに上下巻の長編らしい。隣からその表紙を覗き込んだサイカが、「王子、これ」と耳打ちした。
 スティルを一口飲んで、メレフは笑いながら静かに目を伏せた。

「最近スペルビアで話題になっている、英雄アデル伝説をベースにした小説だ。既読だったり、趣味に合わなかったりしたら、申し訳ない」
「いや、これは、前にスペルビアに行った時、気になっとって結局買えんかった本や」
 評判のいい英雄アデル伝説の小説フィクション、ということで絶対に買いたいものだと意気込んでいたのだが、あの時はエルグリア旧市街でレックスたちを待ち伏せしていたので、結局、アルバ・マーゲンでの買い物など一つもできなかったのである。そんな話をメレフにしたわけでもないのに、よくこのシリーズを選べたものだと彼女の目利きに感嘆した。あらすじをざっと眺め、最初の一ページを開いてみる。文体と表現から好みの臭いがして、ジークは歯を見せて笑った。

「ええな、堪らんなあ! 礼を言うで、メレフ。言うてこんなもん、いつ……」

 言いかけて、ふっと思い至る。と言うより、今日アヴァリティアに着いてから、メレフと別行動をしたのがその瞬間しかなかった。

「あれか、クレオールで急にどっか行った時か!」
「そうだ」

 お前が悩んでいてくれて、抜け出すことができて助かったよ。そう言って、くつ、とメレフは喉を鳴らす。

「きっと、織物や工芸品の方が、お前の好みに合うのだろうが。まあ、今回の船旅の供にでもしてくれたら幸いだ」

 あの短い時間の中で、自分の好みがメレフに見抜かれていたことに少々驚きつつ、と言ってもワイも分かったから同じか、と納得しつつ、ジークはメレフに向き直り、「いや、充分や。ありがとうな」と再度感謝を述べる。うむ、とメレフが鷹揚に頷いた。
 明日からの思わぬ楽しみを手に入れて、ジークはご満悦だった。思わず口笛を吹き、サイカから「蛇が出るからやめや」と注意される程度には。
 
 

 その後、子どもたちとの約束通り、片付けを四人で分担した。
 と言っても、メレフにはもう何年も前にスペルビア軍の演習に参加した際の飯盒程度にしか準備から片付けまでを含めた料理全般の経験がなく、カグツチも同じ、ということで、三十を数えるより早く、ジークとサイカで皿洗い、メレフとカグツチで洗った皿を拭いて店に返す、という役割分担が決まったのは、余談である。

 
 
 そして翌日。
 サイカの憎まれ口は残念ながら外れ、雲海は潮が満ちて絶好の航海日和となった。ルクスリアへの航海ルートと、この時期のスペルビアの巡回ルートがちょうど三日後には重なるポイントに到達する見込みということで、次の経由地はスペルビアである。それが決定したとき、メレフとの間には無言のままに火花が散り、ささやかな意地の張り合いを知らない仲間たちを困惑させた。
 巨神獣アルス船ラウンジのソファに深く座り、順風満帆そのものの船旅を楽しんでいるジークの手が、ぱらりとページを捲る。昨日メレフから贈られた本を、彼女の告げた通りに、旅の供として活用させてもらっていた。ラウンジに来たのは、客室エリアでは子どもたちがボードゲームや楽器で遊んでいて煩かったからだ。
 静かなラウンジ内に、ぱら、ぱら、と、一定間隔で紙を繰る音だけが響く。その心地よい静寂を壊すことなく、胸を張った足音が近づいてきて、不意に止まった。

「なんだ、ここにいたのか」

 顔を上げると、思った通りメレフである。他のスペルビア人の目などないルクスリア行きの巨神獣アルス船内においても、彼女は軍帽を深く被り、スペルビア軍の正装を崩さない。メレフの同道の表向きの理由はあくまでレックスたちの護衛、その間は公人としての振る舞いを外すつもりはないらしい。昨日の買い物は、あくまでプライベートということなのだろう。

「どうしたんや、なんや用か?」
「いや、特には。風に当たっていただけだ。それで見かけたから、声だけ掛けに来た」

 そう言ったメレフの目が、ジークの手元に気付いてきらりと光る。その色を見上げて、ジークもまた笑ってみせた。

「なかなかええで、これ」

 物語はまだ始まったばかりだが、簡素で読みやすい文章はテンポよく、けれど時折おっと感心する比喩や捻った表現が挟まれ、紙の上に踊る世界に広がりを見せている。ちょうどいまは、世界の破壊を司る天の聖杯が目覚め世界が混乱と困窮に陥る中で、後に英雄と呼ばれる青年が故郷を救う決意を固めたシーンを開いていた。ジークの理想とする英雄アデル像だ。

「それは何よりだ」

 満足そうに微笑んだメレフが、そのまま踵を返す。本当に声を掛けにきただけらしい。

(……ん?)

 その瞬間、無味乾燥の空気を上書いて微かに、けれど密やかな存在感でくゆった香りがあった。甘さはなく、清潔な[[rb:柑橘 > シトラス]]と、幾つかのハーブの香り。ああ、とメレフの背を見やる。どうやら、あちらも早速使ってくれたようだ。なかなか悪くないんちゃうか、流石ワイ、と、勧められたものをそのまま買っただけなのに、ジークは勝手に手柄を自分のものにして満足する。
 もう一度だけ残り香を吸い込んで、メレフの後ろ姿にその香を重ね、似合っていることを確認すると、ジークは再び手元に広がる活字の世界へ没頭した。




2017/12/28

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