Your Favorite Things 1 ルクスリアへの道中、補給と休息のために立ち寄ったアヴァリティアは、いつにない熱気に包まれていた。ノポンの商人たちは誰も彼も浮足立っており、店子が客を引き留める呼び声も大きい。普段なら不真面目なノポンがさぼっているゴルトムントの物陰にはかくれんぼをする子供の姿すらなく、道を行くスペルビア人もインヴィディア人もグーラ人も、つい先日二大国による戦争の火蓋が落とされかけたことなどもう忘れたように、浮ついた様子で足早にすれ違っている。「凄い喧騒……。何があったんでしょう?」「こんなの初めてですもー」 アヴァリティア・バザールの人だかりを眺め、ホムラが呟く。その横でハナが爪先立ちになって周囲を大げさにきょろきょろと見回し、立ち並ぶのぼりの文字を不思議そうに読んだ。「生誕祭……ですも?」「そう、英雄アデルの生誕祭」 説明口調で頷いたのはレックスだ。もうそんな時期だったっけ、とはレックスの独り言。二人とは異なり、何が起こっているのかを納得した上で興味深そうにゴルトムント内部を見回していたニアが、「そっか、ホムラは封印されていたから知らないんだ」と笑った。レックスは勝手知ったる様子で、ホムラたちと同じようにアヴァリティア・バザールを見遥かし、状況を呑み込めていない二人に向き直った。「500年前アデルによって救われた世界が今日まで続いていることを喜び、それを為した英雄の誕生に感謝する日。……なんだけど」「アルストで一番のどんちゃん騒ぎのお祭りの日も!」 みなの足元でトラが声を上げる。大きな羽を手のように上げて、「ハナには情報データをインプットしてるはずも」とハナを見上げる。当のハナは「?」と首を傾げるばかりだ。おそらくトラがインプットした教科書的な情報データと眼前の光景が一致しないのだろう。それを察したジークは「ってのは建前で」とトラの言葉を引き継いだ。「500年前はともかく、いまとなっては飲めや歌えやのただのお祭りや。なんせアルストで唯一、全国家が同じ日に同じように祝うんやからな。世界中が大騒ぎやで」「アーケディアを発ったときにも、忙しない雰囲気ではありましたが、アヴァリティアともなれば尚更ですね」「そういうことじゃな。特に商会なんぞ、この時期が掻き入れ時じゃろうて」 ビャッコ、セイリュウが口々に捕捉する。納得した様子のハナが「すごいですもー」と呟きながら、活気に引き摺られて楽しくなってきたようで腕をぱたぱたと上下させた。「お祭りって、どんなことをするんですか?」 ハナと同様、状況を理解し楽しくなってきた様子で笑顔になったホムラが、レックスに向けて首を傾ける。レックスは「うーん」と腕を組んで中空を見上げた。「何、っていうわけでもないかなあ。敬虔なところは家族で祈りを捧げたりするみたいだけど…。だいたいはごちそうを食べて、あとはそうだ、プレゼント!」「プレゼント、ですか?」「うん。子どもにプレゼントを贈る日。……あれ、なんでそんなことになってるんだったっけ?」「由来は諸説ありますが……」 言いながら再び腕を組んで首を捻ったレックスにビャッコが口を挟む。彼が言葉を途切れさせたその合間に、ジークは大げさに肩をすくめた。「どうせどっかのノポンが、色々売り込むチャンスや言うてでっちあげた風習やろ。商魂逞しいわ」「……いま、どんな由来を説明されるより納得できた…」 しみじみとニアが頷く。ノポンという種族全体にジークが向けたうっすらとした限りなく事実に近い偏見に、当のノポンであるトラは「もも?」と瞬きをしたが、別段反論は上がらなかった。「プレゼントかあ、なんだか懐かしいなあ」 大きく伸びをして笑うレックスに、ホムラが再度首を傾げる。「懐かしい、ですか?」「うん。イヤサキ村にいたときはさ、コルレルおばさんが皆の好きなものを夕飯に作ってくれてたんだよ。プレゼントも、ちょっとしたものだけど用意してくれて。でも、村を出てからはこんなのさっぱり無縁だ」 先輩サルベージャーたちも何をしてくれるわけでもないしさ、とレックスは軽い口調で笑い飛ばす。そんなレックスのヘルメットから、セイリュウが身を乗り出した。「わしがおったから、寂しくはなかったじゃろう?」「ああ、まあ、それはありがたかったけど。……そうだ、ニアは? 生誕祭。何かしてたのか?」「あたし?」 突如水を向けられたニアが意外そうに目を丸くして自身を指さす。「あたしは……」貼り付いた笑顔が、微かに曇った。目線が宙を泳ぎ、しかし次の瞬間には、それを誤魔化すような満面の笑みになる。「そういうの、縁がない家だったからさ。別に何も」「ご主人はどうなんですも?」 足元のトラへハナが問いかける。「かーちゃんがいた頃は、美味しいご飯がたんまりでたも。あまあまういんなが山盛りだったも! でも、じーちゃんととーちゃんだけになってからは、そもそも誰も料理できないから何もなかったも」 料理が出来なくても惣菜を買い集めたりプレゼントを買ったり程度はできるんちゃうかとジークは思ったが、それは口にしてはならない言葉だと判断する分別くらいは付いている。トラの父親も祖父も根っからの研究者気質で、あまり家庭を重要視するタイプではなかったことを、なんとなくレックスたちから聞き及んで知っていた。ジークが鼻白んだのは、そのせいで子どもに寂しい思いをさせる大人の身勝手に少々腹が立ったからだが、それを今ここでジークが怒る理由があるわけでもないので、何も言わずに口許に手を当てる。 一見能天気に見えるお子様たちは、どうやらあまり能天気な人生を送って来てはいないようだ。 喧騒立ち込めるゴルトムントの一角に、ほんの少し、しんみりとした風が吹いた気がした。それを打ち消すように、少々慌てた様子のホムラが、「だったら」と明るい声を張り上げる。「私、今日はみんなの好きなものを作ります!」「ホムラ?」 不思議そうにホムラを見返したレックスと、彼と同じような表情で瞬きを繰り返すニアとトラに向かって、ホムラは柔らかく目尻を下げた。「ごちそう、食べる日なんでしょう? みんなの好きなもの、たくさん作りますから、今日はみんなで楽しみましょう! ね?」 せっかくの、アデルの生誕祭なんですから。満面の笑みで仲間たちの顔を見やるホムラに、彼女の提案をいの一番に理解したニアがぴょんと跳ねた。「いいじゃん! アタシの好きなものも作ってくれるんだろ?」「ええ。でも、ニアもお手伝いをお願いしますね」「うん、凄くいい。やろうよ!」「ももー!」 ニアに続いて、レックスとトラの目がきらきらと光った。つられてテンションが上がったらしいハナが、「やりますもー!」と、自身は食物を必要としないくせに忙しなく腕をばたつかせる。一気に高揚した気分のままに、現在時刻を確認したレックスたちは、善は急げとばかりに、宿屋レムレイムへ続く階段へ意気揚々と駆けていく。場所をどこで借りる気かは知らないが、漏れ聞こえる話からレックスには心当たりがあるようだった。アヴァリティアにおいては、仲間うちでもレックスが最も顔が広い。彼にも伝手が色々あるのだろう。「危ないから走ったらあかんよー」 サイカの注意に、駆け足から競歩程度にまで速度を落ち着かせた子どもたちの後ろ姿を見ながら、ジークはふむ、と自身の顎を撫でた。夕食はホムラが腕によりをかけたごちそう、けれどプレゼントはなし、と。やがてその口元がにやりと弧を描く。それを目ざとく認めたサイカが、共犯者の笑顔でジークを見上げた。「王子、なんかええこと思いついたやろ」「まあな。それと……」 サイカが立っているのとは逆方向、今の今まで会話に一切口を挟まず一連を眺めていたメレフが、口許に指先を当て何かを考えている様子で、声を潜めてカグツチと言葉を交わしている。アヴァリティアの喧騒に紛れて彼女たちが何を話しているのかはジークには聞こえなかったが、ふと、顔を上げたメレフと目が合った。その色を見て、彼は曇りのない確信を得る。「メレフ」 笑みを深めるジークに、察した様子でメレフの目元が優しく細くなった。とうにゴルトムントの上層へ消えていった子どもたちに、けれど一応、聞こえないようにとメレフに近づく。メレフとカグツチ、そしてサイカには聞こえる程度に量を落とした声で、ジークは人差し指を一本、ぴんと立てた。「同おんなじこと考えとるやろ。一緒にやろうや」 せっかく子どもたちが生誕祭を楽しむのなら、プレゼントは必要不可欠だろう。 意見の一致から三十を数える前に、メレフとジークで買い出し、カグツチとサイカは子どもたちを下層に近づけないようさりげなく見張っておく、という役割分担が決まった。幸いアヴァリティアの商店は、下層に生活用品と嗜好品、上層に食料品と大まかに区分されていて、食料品を買いに行く子どもたちにこの企みを知られる危険性は少ない。更にレムレイムへチェックインし、部屋に荷物を置いた際、セイリュウとビャッコにも事情を話して共犯者になってもらった。彼らから子どもたちの好きなものの情報を得、二時間後にビャッコと一度中央交易所で待ち合わせ、プレゼントを受け取りに来てもらう手筈を整える。彼らに後を託し、ジークは軍帽と甲冑を外したメレフと共に、子どもたちに悟られないよう気配を消しながらゴルトムントの下層に降りた。「ま、言うて当日やから、そんな洒落たもんは残っとらんやろうけどなあ」 アーケディアで気付ければまだ用意のしようもあったのだが。大抵の人間は今日この日に向けてプレゼントを用意するため、流行りものや人気商品はもう殆ど店頭にはないようだ。あれそれはないのか、とっくに売り切れたも、どうにか取り寄せられないか、無理もどこに行ってもないも、そこをなんとか、無理なものは無理も。そんな問答が喧騒のあちらこちらから漏れ聞こえてくる。「それは我慢してもらうしかないな。だが、そうは言っても、アヴァリティアはアルスト最大の商会。彼らの好むものくらい、きっと探せば見つかるはずだ」 生真面目に返したメレフが手元のメモ用紙を見つめる。レックス・珊瑚オセロ。ニア・スペルビアベアの木彫り。セイリュウとビャッコから教わった、彼らが欲しがっているものだ。ニアもまた渋い趣味しとるなあ、とメレフの手元のメモを覗き込んだジークが苦笑した。「それ、ニアに直接言うなよ」「馬鹿にしとるわけやないで。あの年で美術品に興味があるなんて、将来有望やないか」 人だかりをかき分けて、ひとまずはホビー・トイノボックスへ向かう。その間の話題は、ホムラにヒカリ、トラ、ハナが喜ぶものは何か、だ。セイリュウもビャッコも、まだ付き合いの浅い彼女たちの好みや興味を具体的に把握してはいないらしく、ジークたちが期待した答えは得られなかったのだ。ジーク自身があの中では誰よりも浅い付き合いなので何か検討が付くはずもなく、想像と独断と偏見でどうにかするしかないかと諦めかけたところに、救いの手は寄り添う隣から現れた。「ヒカリとは、イヤサキ村の古美術店で盛り上がったことがある。そのとき、気に入っている様子の絵があったな。あれは確か、『最後の合唱』だ」「ええ情報や、メレフ。本物は無理やけど、出来のいいレプリカでも探そか。小さめのやつ」 人混みに押し潰されそうになりながら、トイノボックスの陳列棚をくまなく見て回る。売り切れの札が所々に張られていたが、目的の珊瑚オセロはあと数点残っていた。普段ならアヴァリティアまで入荷しない類のもののはずだが、流石生誕祭と言うべきか。よしよし、と手に取り、支払い待ちの列に並ぶ。他にここで買うものはないかとメレフに問うと、考え込む様子で唇に指を当てる。癖のようだ。 行き交う人だかりの中で、時折悪気なく、けれど容赦なく肩やら脚やらがぶつかる。放蕩期間の長い自分はともかく、暮らしのいいメレフがこの人混みに耐えられるのか心配になったが、ぶつかられても自分からすまないと謝っていた。暮らしよりも育ちの方がより良いようだ。庇ってやるほど華奢な体躯でもなく、またそんな間柄でもないので、せめて他人に接触しないよう、列の中に誘導した。「……ホムラとハナ、トラは、以前、スペルビアの楽器店ではしゃいでいた記憶がある。ただ…」「ただ、なんや?」「ハナはマラカスを試してご満悦だったが、ホムラが興味を示していたのはアルプホルンだった」「アルプホルン、って…」 流石に繁忙期なだけあって、人が多い以上に店員の手際がいい。思いがけず早く会計所まで到達し、財布からゴールドを出しながら、メレフが口にした楽器に唇の端を引き攣らせる。「ワイの記憶が確かなら、トリゴでよお見るあのでかい笛か?」「笛というか……いや広義で言えば笛なのだろうが……まあいい、その想像で合っている」「いや、無理やろそれ。でかすぎるわ」「うむ。この旅の途中では、流石に不可能だ。別の案を考えねばな」 ホムラには何がいいかを相談しながら、続いて、臨時開店の古美術店へ。普段アヴァリティアに古美術専門の商店はないのだが、この時期だけはあらゆる需要を満たすためにアルスト各地からの輸入品を取り扱う露店が開かれていた。インヴィディアの絵画『最後の合唱』と、スペルビアの彫刻『スペルビアベアの木彫り』を同時に扱っている奇跡に、ジークは商人に国境はないってほんまなんやなとしみじみした思いを噛み締める。「というかメレフ、よう『最後の合唱』がすぐに分かったな。インヴィディアのもんやろ、これ」「良いものは良い。政治と芸術を混同するほど愚かではないつもりだ」「正論やな」 ジークの両のてのひらから少しはみ出る程度のサイズのレプリカを大勢の頭越しに何とか見つけ、上背を活かして手に取った。傍らでは流石スペルビア人と言うべきか、苦も無くスペルビアベアの木彫りを見つけ出したメレフが丁寧な所作でそれを確保する。「スペルビアベアって、ほんまにこいつがおるんか? スペルビアに」「いるぞ。もしスペルビアに来ることがあったら案内してやる」 話ながら、ふとジークは、メレフの瞳が普段より大きくなっていることに気が付いた。目的の物を手にして早々に列に並びはしたが、店頭に並べられた各地の美術品を興味深そうに眺めている。時間が許すなら、もっと近くで時間を掛けて見ていたいと言わんばかりの眼差しだ。なるほど、彼女は美術品に目がないらしい。ルクスリアの建造物とか、この分やと大好物やろうな。帰国した際の楽しみに彼女の反応を見ることを心のメモに残して、滞りなく支払いを済ませた。それにしても、小さな手と大きな羽を器用に使い賞賛すべきスピードで包装を済ませていくノポンたちの手際にはなかなか惚れ惚れする。 古美術店の隣には、同様に臨時開店の織物店が立っていた。へえ結構ええもん揃えとるやん、と包装待ちの時間に立ち並ぶ商品を盗み見る。あの意匠が異様に細かいタペストリーはインヴィディア、シンプルだが織目が美しいケープはスペルビア、見慣れない文様のスツールはリベラリタスだろうか? そうやって目を楽しませていると、斜め右下から視線を感じた。「なんや?」「あのスツール」 綺麗に包装された二つの箱を手に取ると、メレフは先ほどまでジークが見ていたスツールを指さした。「イヤサキ村に滞在した時、トラがあれを見て長時間悩んでいた」「おう、ええ趣味しとるやんあいつ」 トラの思わぬ目利きに感心し、だが、とジークは首を振った。「ホムラと同じパターンやな。旅の途中であれは無理や」 人の流れに乗りながら相談し、トラには少々悪いがハナと同じ楽器で許してもらうことにして、楽器ジャンジャンへと向かう。人を切り分けて前を進むのはメレフで、荷物持ちのジークはその後ろを付いていく。このような人混みの中で、サイカだったら手首でも掴んでいないとはぐれてしまいそうになることも多々あるのだが、数多の肩の隙間をメレフはさくさく進んでいく。軍人として胸の張り方を知っているとこうも危なげなく歩けるものなのかと感心した。女性にしてはかなりの長身で軍服も目立つから、はぐれたところですぐに見つかるという安心感もあるのだが。 ウチが王子からはぐれるんちゃうで、王子が勝手にどっか行っとるんや。 そうやって内心で比べたからだろうか、脳裏でサイカの声に叱られた。ああもうどっちでもええわ好きにせえ、とごちると、聞こえたらしいメレフが不審そうに振り返って眉根を寄せた。 ジャンジャンでまんまるマラカスとぷーぴーリコーダーを求め、他店と同じように包装してもらう。清算待ち及び包装待ちの間に、ホムラに対してはセリオスティーの良い茶葉をということで意見がまとまった。普段彼女が買い求めるより高級なグレードの茶葉と、後はたまたま見つけた、茶器を使用しなくても湯を注ぐだけで飲めるように加工されたティーバックという代物をセットで購入する。 考え込みも特に迷いもせず、寄り道は全くしなかったのだが、一通り買い揃えたところでビャッコと約束した時間を十分過ぎていた。約束していた中央交易所の裏手で落ち合う。待たされていたビャッコは文句の一つを言うでもなく、どころかジークとメレフの顔を見た瞬間、「お疲れ様です」と頭を垂らした。どうやら、自分たちは相当疲れた顔をしていたようだ。 傍らにはカグツチもいた。様子見兼、子どもたちの状況報告だそうだ。サイカは絶賛料理の手伝い中らしい。「お疲れ様です、メレフ様。ジークも」「ああ。こんな人混みの中で買い物をしたのは、生まれて初めてだ」 疲れた様子でメレフが息を吐く。ジークと共に商店巡りをしていた時にはそのようなそぶりは欠片も見せなかったのだが、やはり慣れない人だかりに消耗していたらしい。「ボンたちはどないや?」「流石ホムラね。もう、一通りの下ごしらえまでが終わったわ。完成まで、あと一時間半もかからないと思う」「となると、19時までには戻らねばな」 壁の時計を見やり、メレフが頷く。約束の時間が17時で、今はそれから30分ほど経過していた。 場所を借りられたのかと聞けば、ハラペッコ食堂の一部を借りたのだという。よく借りられたものだと感心したが、生誕祭当日は、家族で食卓を囲むか、そうでなければ高級料理店へ赴くかで、ハラペッコ食堂のような大衆食堂はかえって普段より人が少なくなるらしかった。それを知っていたレックスが交渉したそうだ。 やるやんけボン、と感心しながら、「そういえば」とジークはビャッコに向き直る。「ニアに手伝わせて大丈夫なんか?」 レックスとトラから、ニアが料理下手メシマズの類であることを聞いていたことを思い出し、ふと心配になって尋ねたのだが、途端、ビャッコは神妙な顔をして静かに呻いた。「……お嬢様に手伝わせて問題のないところだけを手伝わせるあたりまで含めて、ホムラ様の手際は流石と言うべきです」「おう、だいたい察した」 ひらひらと手を振って、これ以上の話題を打ち切る。 少し休憩してから戻る、とメレフとジークの意見が一致し、ビャッコとカグツチは先に上層階へ帰っていった。子どもたちにばれないよう、今のうちに宿の部屋にプレゼントを運び込んでおく算段だ。カグツチの話では料理もいい具合に佳境だそうなので、きっと上手くいくだろう。 アヴァリティア・バザールから外れ、入港手続き所の待合所でひっそりと売られていた深煎り・クロ・コーヒーを二人分購入し、片方をメレフに手渡す。ゴルトムント帰還の港まで足を運び、ここ最近はずっとアヴァリティアに停泊しているウズシオの側まで来ると、ジークは階段の端に腰を下ろした。メレフは一瞬何か、おそらく行儀が悪いとでも言いたげだったが、特に小言を発するでもなく、雲海の方へ体を向けると、軍服の上着を脱いで大きく息を吐き出した。人混みに火照った体を冷ますように、深呼吸をする彼女の肩が上下する。ジークも倣って、爽快な風を吸い込んだ。「涼しゅうて気持ちええなあ」「まったくだ。……こんなに大変な思いつきだとは思わなかった」「知っとったらせんかったってか?」 悪意は欠片もなく単なる冗談で笑いかけたのだが、メレフは返事をせずにコーヒーに口を付けた。その後頬を叩く風にもう一度ゆっくり瞬きをした彼女は、「ジーク、すまないが少しの間持っていてくれないか」とカップを手渡してきた。ついでに、畳んで腕に掛けていた軍服も受け取る。 メレフは一言軽く礼を言うと、人ごみに揉まれる中でほつれてしまっていた髪をおもむろにほどいた。手櫛で流れを整え、慣れた動作で再び綺麗に纏めていく。艶やかな黒い毛先が風にたなびいて、わずかな間ではあるが、存分にジークの目を楽しませた。「ルクスリアでは、生誕祭の日に、何かしていたのか?」 カップと軍服を返したとき、メレフはそう言って首を傾けた。「ルクスリアは、アデルにゆかりの深い地だろう? 何か、他の国とは異なる生誕祭が行われていたりはしないのか?」 そんなことを聞いてくるのは、これから向かうルクスリアのことを知りたいからだろうか、それとも単なる雑談だろうか。どっちでもええか、とコーヒーをすすり、十年前に飛び出た母国を思い返す。そういえばどんな顔で親父に会おうなあ、と思考の隅でぼんやり考えながら、ジークは記憶にある限りの生誕祭を掘り返した。が、特別なことは何もない。王家とはいえ、と言うべきか、王家だからか、と言うべきか、父王ゼーリッヒに何かをしてもらった記憶はない。母親は、物心つくころには病に倒れていた。 だからジークはルクスリアにおける一般論を語る。「他の国よりは、アデルに祈るっちゅー意味合いが強いかも知らん。まあそれも、他の国みたいなどんちゃん騒ぎが出来んからや、言うたらそれまでやけどな」「そうなのか?」メレフが真っ直ぐにジークを見て微笑む。「アデルに祈る――生誕祭のあるべき姿を残していて、良いことのように思えるが」「そんな高尚なもんとちゃうで。スペルビアと比べたら、ルクスリアなんか信じられんほど貧しいからな。鎖国しとって、物資も満足には入ってこん。清貧言うたら聞こえはええけど、そういう現実的な都合や」 ああでも、とジークは目を細める。暮れてゆく西日より眩しい思い出が、たったひとつだけ、眼帯の裏に複数年分重なって蘇り、懐かしさに思わず息を吐いた。「いっつも、サイカはプレゼントを用意してくれとったなあ。……ありゃあ嬉しかった」 ちびりと唇を湿らせるコーヒーの苦みが疲れた体にゆったりと広がっていく。ジークの斜め前に立つメレフが黙したまま続きを促していた。顔を上げると、興味深そうな眼差しでメレフはジークを見つめている。夕焼けを混ぜ合わせたような琥珀色の瞳の中に、不意に強い共感が光った。「ワイが国におった頃は、まだサイカの方が見た目が年上やったんや。そのせいで姉貴面しよってな」「いまでも、時折サイカの物言いが、お前の姉君のように感じることがあるが」 からかい混じりの声音だ。途端にコーヒーの苦みが増した気がして、ジークは眉根を寄せる。「そうや。その頃の癖かなんか知らんが、未だに変に上からや。もうガキやないっちゅーねん」 ふふ、とメレフがおかしそうに笑声を零す。アーケディアを経って以降、メレフがこうやって柔らかな表情をすることが増えた気がする。それまでは、レックスたちに対してどこか一線を引いた態度だった。何か心境の変化でもあったのかと、直接訪ねるわけでもなく考えながら、ジークはふっとメレフに視線を合わせた。「メレフはどうなんや? スペルビアでは」「特にこれと言った特徴があるわけでもないが……」 カップを傾けながら目を閉じて何かを思い出している様子のメレフだ。ジークと相対するように立っているため、彼女は夕暮れを背に佇んでいる。街行く少女が黄色い声を上げても不思議がない程度には、夕焼けの色を背負う姿が似合っていた。「思い出の話をしていいなら、私もお前と同じだ。成人の儀を終えるまで、毎年カグツチが、贈り物を用意してくれていた。……毎年、何を貰っていたかを、今でもすべて覚えている」 彼女の頬が懐かしそうに緩む。 先程光った共感はこれか。得心してジークはにっと笑った。「なんや。どこも同じか」「そうらしい」 肩をすくめたメレフは、アヴァリティア・バザールの方角を見遥かした。人混みに火照った体は港風に吹かれいい具合に覚まされたが、うんざりするほどのあの熱気は、この距離でも伝わってくるようだ。「そうだな、あとは」楽しい思い出を掘り返す笑顔を浮かべながら、メレフは、今度はアヴァリティア・バザールとは逆方向の空を見遣った。この時期、その方角には、スペルビアの巨神獣アルスが巡回していることが多い。「夕食に、カタレッタを頂くことが多かったな」「カタレッタ? なんやそれ。そういう習慣か?」「いや、違う。ただの個人的な好物だ。料理長コックが気を利かせてくれて。……ああ、カタレッタとは、スペルビアの伝統的な肉料理で」 肉料理、との言に、俄然ジークの興味が沸いた。肉は種類も調理法も問わずに好物だ。身を乗り出したジークに気分を良くしたらしいメレフは、カタレッタの詳細を語ってくれる。「若いアルマの肉を、塩とスパイスで味付けしたソースに、一晩付け込んで味を染み込ませる。それを野菜と一緒に高温に熱した溶岩石でゆっくりと焼いて、パンと一緒に頂くんだ。シンプルな調理法だが、その分肉と野菜の甘味を損なわず、スパイスの香りも広がって……あの気品高き香りが、たまらなく好きだな。心が安らぐ」 へえ、とジークは唾を飲む。美味そうやな、と呟くと、うむ、美味だぞ、とメレフは自信満々に頷いた。「確か、肉料理は好きだったな? 次にスペルビアに来ることがあったら、ぜひ食してみるといい。損はさせないと約束しよう」「最高やな。カタレッタか、覚えとくわ。ええ店紹介してくれるんやろ?」「ああ。なんだったら、私の離宮に招いてもいい」 ええな、とジークは思わぬ楽しみにほくそ笑む。ここからルクスリアまでの航路で、スペルビアを通るルートはあっただろうか。航海図を見なければ分からないが、移動時間にさして差が生じないなら、スペルビアを経由してもらうよう我を通すのも悪くないかもしれない。スペルビア料理の評判はアルストでも聞こえが悪い方だが、彼女の舌を満足させる一品なら期待できるだろう。「せや、飯言うたら、メレフは英雄アデル焼きを知っとるか?」 メレフのお国自慢に触発されたのかもしれない。不意に、故国での好物を思い出して、対抗してみたくなったジークは、メレフが知っているわけがないと承知の上で問いかける。ルクスリアの鎖国も歴史が長い。国を出てからの10年、工芸品ならともかく、食料品や料理でルクスリアのものをジークが見かけたことはなかった。 案の定、メレフは「なんだそれは?」と興味深そうに尋ね返した。「はっはー、よう聞いてくれた」「言い出したのはお前だろう」 冷静な突っ込みを完全に無視し、「英雄アデル焼きとは!」とジークは声を張り上げる。傍らを足早に駆けていったグーラ人の少女が驚いたように肩を跳ね上げ、その足元のノポンが一体何だとジークを振り返っていた。「あの英雄アデルの大好物やったっちゅールクスリアの名物料理や」「ほう、アデルの……。それは肉か? 魚か?」「バニットの肉を細こうしたもんが入っとることが多いけど、メインは野菜アイスキャベツやな。それを薄焼きのパントルティーヤで挟んで食うんや。500年前の伝統的な香辛料を使うとってな、辛うて美味いで」「辛いのか?」 メレフが微かに眉を潜める。ジークはそれを目ざとく認め、空になったコーヒーのカップを傍らに置いて腕を組んだ。「辛いもん苦手か」「いや、そういうわけではないが……。辛いと感じるほどにスパイスを使用するのだろう? 素材の味が損なわれてしまったりしないのか?」「おっと、なめたらあかんで。辛い中にも野菜の旨味はしっかり感じ取れる一品や。それに、アイスキャベツは、まあ数こそ全然出回っとらんけど、他の地域のキャベツより甘うて、しっかり主張してきよる」 ルクスリアは国土アルス全体が深い雪に覆われており、育つ食物は寒冷に強いごく僅かな品種だ。その実りも決して豊かとはいえない。貴重な作物を無駄にせぬため、傷まないよう天然雪の貯蔵庫に保管するのだが、そうやって柔らかな雪に包まれている間に、アイスキャベツは甘味を凝縮させる。また、アイスキャベツでない輸入品であっても、そうやって保存するとやはり甘みが増すのである。 ほう、とメレフは目を輝かせた。野菜料理に目がない炎の輝公子殿の興味を引くことに成功したようだ。「それは、ぜひ頂きたいものだな」「おう。あれはアルスト一の美味さやで。食うたら、カタレッタのことなんか忘れてしまうんちゃうか」「いや、それはない」 軽い冗談だったのだが、思いがけず真剣な声音で即座に切って捨てられる。琥珀色の双眸は真剣な色でジークを見下ろして、軍服の上着を着直しながら、言外にスペルビア料理こそ至高と告げている。この愛国者が、と呆れ混じりにジークは立ち上がった。何でもかんでもスペルビアが世界一だと思わないで欲しい。「なんや。いくらルクスリアとて、飯ならスペルビアにだけは負けへんで。自分との料理の評判くらい知っとるやろ」「……市井に粗悪なものを出す店があることは認めよう。だが、それでスペルビア料理を断じるなど言語道断だ。お前の話からすると美味なのだろうが、カタレッタには敵うまい」「言うたな。なら、白黒はっきりつけよか。英雄アデル焼きとカタレッタ、あと他のルクスリア料理とスペルビア料理含めて食べ比べといこうやないか」「望むところだ」 お互い挑発混じりに口許だけは笑いながら、至近距離で火花が散った。すわ喧嘩か、と、遠くで談笑していたサルベージャーの一団からの視線を感じ、小さく息を吐いてゴルトムント船内へ踵を返した。両国の威信をかけた料理対決は重要だが、今はそれ以上に、夕食の時間が近づいている。ほんの一休みのつもりが、思いがけず話が盛り上がり、傾いていた西日も刻一刻と雲海の遥かへ沈もうとしていた。 使い捨てのカップを所定のゴミ捨て場に放り、アヴァリティア・バザールにほど近い階段へと並んで足を進めながら、けれど話はまだ終わらない。「ボンらにも判定してもらおか。ルクスリアとスペルビア、どっちの料理が美味いか」「いい考えだな、ジーク。彼らはスペルビア本国ともルクスリアとも関わりが薄い。公平な判断を下してくれることだろう」「ああ、ニアはグーラ人でトラもトリゴのモンやったか…。ま、そんくらいええやろ。なんせこっちにはアデルと一緒におった天の聖杯様がおるんやからな」 勝負の算段を真剣に語りながら、中央交易所を通り過ぎた時、壁に掛けられた時計を見やった。ビャッコとカグツチとここで話してから一時間が過ぎていた。カグツチの話からすれば、いま戻れば夕食には余裕を持って間に合うだろう。だが、とバザールの方向に視線を送ったタイミングで、メレフに「ジーク、すまないが」と声を掛けられて足を止める。料理対決の話は一旦休戦、と告げる涼しい顔が、頭半分だけ下からジークを見上げる。普段は軍帽の鍔に隠されている柳眉が、楽しい企みごとをするように開いた。「戻る前に、一カ所だけ寄りたいところがある」 メレフが指差したアヴァリティア・バザールの一角に、ジークは思わず笑ってしまった。彼女は何だといった様子で、先ほど開いたばかりの眉根を寄せる。冷静ぶって案外くるくる変わる表情を間近に見ながら、いやな、とジークは顎を撫でた。「ワイも同じこと言おうと思うとったところや。とことん気が合うみたいやな」 メレフは一瞬訝しそうに目を細めたが、すぐにジークの本意を察してくれたらしい。「そのようだ」と傍らに微笑と首肯を得ながら、二人は再度アヴァリティア・バザールへと足を踏み入れた。 [2回]PR