はじめましてのその前に ジーフリト・ブリューネ・ルクスリア。 その名を単なる知識としてではなく、このアルストに生きる一個人を示す音としてメレフが初めて認識したのは、彼女がまだ14歳の時だった。グーラを巡ってのインヴィディア烈王国との緊張関係は最高潮に達し、後はいつ開戦するかと誰もが挨拶のように話題に出していた初夏のある日。その頃メレフはまだ軍学校に通う一学生の身であったが、皇族長子であること、また、帝国最強のブレイド・カグツチのドライバーであることから、グーラ近辺の小型巨神獣に駐屯する兵士たちを激励する任務を賜り、その為にカグツチと共にハーダシャル軍港へ向かっていた。 スペルビアにおける政治と軍事の中心地である皇宮ハーダシャルは、常日頃から親衛隊を中心に兵士たちが往来し、強い警戒体制にある。このようなご時世では尚更だ。だがその日はとりわけ兵士たちが慌ただしくして、怒号に近い声が飛び交っていた。小走りで駆け抜けて行く者も多数と、尋常ではない様子である。「何かあったのか?」 軍港の正面、玉座の間に至るエレベータを警備する兵に尋ねる。「これは、メレフ様」警備兵は先程までよりぴんと胸を張って答えた。「皇宮の入り口で、怪しい口調の黒づくめの男を捉えたとのことです」「何だと?」 目を細めたメレフの後ろで、カグツチの気配が警戒を纏う。戦争の気配漂うこの状況下で皇宮に現れた不審者。幼い従弟の顔が浮かび、メレフは殆ど無意識でサーベルの柄に触れた。まだ年若い身であるが、それでもカグツチの力添えもあって、彼女はスペルビアでも名の知れたドライバーであった。メレフにはその自負もある。私も向かうべきか、と一瞬のうちに考える。 そんなメレフを見て、兵士は「ご心配には及びません」と首を振った。「相手はドライバーのようですが、既に我が軍の兵たちが取り押さえております。陛下にもネフェル殿下にも、最早危害を加えることなど不可能。ご安心して、いってらっしゃいませ」「そうか」 ほっとしてサーベルに触れていた手を下ろす。「ちなみに、不審者とはどのような?」 背後に控えるカグツチが声を上げた。「すみません、私も詳しくは……。ただ、インヴィディア人でもグーラ人でもない容貌とのことでした。おそらく、反戦派か何かの帝国民でしょう。まったく、スペルビアが一丸となるべきこの時に、嘆かわしい」 困ったように報告する兵士の言葉が、後半から愛国心ゆえの愚痴に変わる。それに気付いて「失礼いたしました」と佇まいを直した彼に見送られ、メレフは喧騒のハーダシャルを背に巨神獣戦艦へと乗り込んだ。怪しい男のことは気になったが、既に捉えたと言うのなら兵の言う通り安心だろう。帝国の軍事力と帝都及び皇宮の守りをメレフは信頼している。可愛い従弟の無事が確約されたのであれば、その出来事はメレフにとって些末な雑事でしかなかった。 その件についてもっと別の部分で心配すべきことがあったのだと知るのは、帝国への帰路でのことだった。グーラ近辺の駐屯兵への鼓舞任務を無事に終え(彼らは皇女たるメレフを歓迎し、その存在と言葉に士気を上げ、また腕に自信のある何名かはドライバーとしてのメレフと手合わせを願い出た)、報告書を書き上げた巨神獣戦艦内。長時間机に向かい続け凝った背中を伸びをしてほぐしたところで、ノックの音が部屋に響く。「失礼いたします」 入室したのはカグツチで、左手に何枚かの束ねた書類を持っている。不在中にスペルビアで何か事件が生じなかったか、確認してもらっていたのだった。メレフがそれを知ってではどうするか、と言えば出来ることもしていいことも殆どないのだが、それでも愛する母国の様子は気にかかる。 地熱採掘プラントで起きた小規模な事故、旧生産区の労働者の橋が経年劣化により朽ちて落ちたこと、ジェリドエンド高地のジャガールが人を喰った事件、等、本国を騒がせている幾つかのトピックを淡々と報告してくれたカグツチだったが、書類の最後の一枚に至った瞬間、彼女にしては珍しく、その顔がふいに強張った。「どうした? まさか、皇宮で何かあったのか?」「いえ……。メレフ様、出立の日の騒ぎを覚えていますか?」 あれから十日ほど、聞かれるまで意識からは完全に抜け落ちていたが、流石に忘れることはない。「あの不審者を捉えたという話か?」 まさか仲間がいたとでも言うのか。姿勢を正して鋭い目付きになったメレフを見て、カグツチは困惑したように口許に指を当てた。どう説明すればいいのか、言葉を探しているようだった。 結局説明は直情に為される。「はい。それが……その、捉えた者が、実はルクスリアの第一王子であったらしく……」「…………は?」 予想だにしていなかった言葉に、メレフは呆然として腑抜けた声を上げてしまった。驚愕から思考が吹っ飛んで、唯一頭の中をぐるぐると回ったルクスリアの第一王子、という情報に、かろうじて知識からその名を引っ張り出した。「ルクスリアの王子と言うと……確か、ジーフリトとかいう…」 鎖国していて殆ど内部の情報が入ってこない国とはいえ、王族の名程度は皇族の常識として知っていた。だが、その音は単なる知識である。彼がどんな人物かをメレフは全く知らない。ルクスリアでも腕の立つドライバーである、という話を軍学校の噂で聞いたことがある程度だ。「はい。ジーフリト・ブリューネ・ルクスリア。本人は表敬訪問のつもりだったようです。事前連絡アポイントメントがなかったため、兵が勘違いしてしまったと……」「……待て。要するに、スペルビアはルクスリアの王子に刃を向けたのか!?」 ここに来てやっと、メレフは状況を正しく認識する。鎖国の王子が連絡もなく何の用でスペルビアに赴いたのかはともかくとして、他国の王族、よりによって第一王位継承者を不審者と勘違いして拘束するなど国際問題必至の不祥事だ。「そのような……なぜ、誰も気付かなかったのだ? その王子だって、自分の名くらい名乗っただろうに」「名乗ったは、名乗ったそうなのですが……。その、名乗った名前が、ですね……」 蒼白になるメレフの一方で、カグツチは困惑と躊躇いを深めて首をかたむける。「こう……ジーク・B・極アルティメット・玄武、と」「……………………は?」 先ほど発したそれよりも一層素っ頓狂な声を上げてしまう。 カグツチの告げたその音は、一度では名前として認識できなかった。「ジーク……なんだって?」 聞き返すメレフに、ですよね、と言わんばかりの顔でカグツチは繰り返す。「ジーク・B・極・玄武。衛兵の話では、『極と書いてアルティメットと読む』と主張していたとか」「ちょっ…と、少し、待ってくれ」「はい」 右手で額を覆うようにして、メレフは考える。なぜ皇宮の前でそれを名乗ったのかは別にして、王侯貴族が市井に出る際に偽名を使うのはさほど珍しいことではない。が、その偽名があまりに奇抜で、メレフの理解の範疇を超えている。 ジーク、は、ジーフリトの愛称だ。これは分かる。Bはおそらくミドルネームであるブリューネの頭文字。これも分かる。玄武は、確か、ルクスリアの巨神獣がゲンブという名であったはずだ。ルクスリア王子たる彼の所属を表す偽の性。うん、これも理解できる。だが極アルティメットが分からない。極と書いてアルティメットと読む、という主張の意味がさらに分からない。……ああ、そういえばルクスリアは英雄アデルの興した国、つまり古王国イーラの系譜だ。聖杯大戦よりもさらにその昔のイーラでは表意文字が使用されていたと記憶している。由来はそれか? だがそんな古典よりも古い言葉を偽名に組み込む意味が全く想像できない。 しばし考え込み、メレフは結局、まあ由来はなんであれ、それが彼の偽名なのだと自分を納得させた。理解と思考を放棄したとも言う。「まあ、判明が遅れた理由は分かった。だが、それで、ジーフリト王子はスペルビアの仕打ちに対して何と……?」 偽名の奇抜さに意識を持っていかれたが、重要なのはこちらの方である。スペルビアの死活問題に、メレフは緊張した面持ちでカグツチを見た。カグツチは一度書類を確認し、メレフを安心させるように、ふわりと頬を和らげる。「どうやら、特に大きな問題にはならなかったようです。鷹揚な方で、そんなこともある、と笑っていたとか」 メレフは意外な面持ちで瞬きを繰り返した。たとえば、メレフは養子ではあるが第一皇女である。更に昔は第一皇子として振る舞っていた。同じような仕打ちを仮にどこかの国から受けたとして、それを問題ないと言い切れるかどうかは自信がない。個人としてどう思うか、ではなく、スペルビア帝国としてどう思うか、を自分は先に考えるだろうからだ。それに多少なりとも怒りはすると思う。それをその場で笑って許してしまえるとは、ジーフリトという男は随分度量が大きいらしい。確か、メレフと歳はさほど変わりなかったはずだ。ひとつかふたつ上程度。 ジーフリトに対する驚きと、スペルビアの危機は免れたことによる安堵、それらがメレフの内側でないまぜになって、浮かべるべき表情に迷い、意味もなく唇を尖らせた。そしてふっと、まだ懸念が残っていることに気付く。「いや、ジーフリト王子が許しても、彼が国に戻った後、ルクスリア王がどう思うかは別の話ではないか?」「それについてですが、曰く、ジーフリト王子は国を出奔した、とのことらしく」「出奔?」 また予期せぬ言葉が出てて来てメレフを困惑させる。伝えるカグツチも相変わらず戸惑うような表情だ。情報収集を頼んだが、結局は巨神獣戦艦の中。彼女とて本国からの報告をかいつまんでメレフに伝えているにすぎず、詳細は分からないのだろう。「はい。だからしばらくルクスリアへは戻らない、と、本人が言っていたと伝え聞いております」「あ、ああ、それなら問題ない…のか? いや、だが……出奔? 第一王子が?」 カグツチに問い質しても仕方がないと分かって入るのだが、頭に渦巻く疑問符は無意味でも何でも取り敢えず言葉にしないと整理が出来ない。 知識にある情報を並べれば、メレフとジーフリトは立場の近い存在である。第一皇女と第一王子、かつてスペルビア帝国第一皇位継承者だったメレフとルクスリア王国第一王位継承者であるジーフリト。歳も近い。だからメレフはその名を聞いた時、自分とそれほど変わりない人物なのだろうと勝手に想像したのだ。きっと国と民の為に生きているだろう。その人生は続くだろう。責務と役割の中で日々を過ごしているだろう。腕の立つドライバーとして、その剣は国のために振るわれるだろう。メレフは最早帝位を望む立場ではないが、ならばなおさらメレフよりも国の為という義務の中で呼吸をしていることだろう。皇族・王族というものは、過去の歴史を紐解いてもだいたい同じようなものだ。だからメレフの想像は、世間一般の常識で考えれば、当たっていなければおかしい。 それが出奔。第一王子が、国を捨てる? そんなことがありえる筈がない。少なくともメレフは死んでもそんなことはしない。また、ジーフリト本人がそれを願ったとしても、それを国が許すはずがない。しかしカグツチがメレフに嘘を言う理由は何一つないし、カグツチにそれを伝えた何処かの兵士が偽りを述べる動機もまた存在しない。ならば本当なのだろう。 なぜだろう。彼に何があったと言うのだろう。 その瞬間メレフの心に宿ったのは、無責任な他国の王子に対する落胆や侮蔑ではなく、むしろその全く逆の好奇心であった。なぜかは分からない。ただ、知識として知るのみであったジーフリトという人間が、どういう輪郭の、どんな人間なのか、メレフはにわかに気になったのだ。「カグツチ。スペルビアに戻ったら、ジーフリト王子のことを調べてくれないか?」「はい、承知いたしました。……気になるのですか?」 メレフは腕を組んで、いや、とゆっくり首を振る。カグツチが問うてきたのは、何か懸念があるのか、という意味だ。そういうものではない。メレフが憂う程度のことは、皇帝陛下が既に手を回しているはずである。それにメレフにはまだ国のことに首を突っ込む権利はない。命を受ければ任務に赴くが、まだ正式に帝国軍に入隊したわけでもないただの学生だ。「ただの個人的興味だ。優先度は下げてくれて構わない。空いた時間に覚えていたら程度でいいから、よろしく頼む」 だからこれは本当に、重要性の著しく低い、単純な好奇心の為せる頼みであった。 ジーク・B・極・玄武。 ルクスリア王国第一王子、ジーフリト・ブリューネ・ルクスリアの名乗る偽名。現ルクスリア王ゼーリッヒの一人息子であり、紛れもない第一王位継承者。歳は15。若くしてルクスリア随一のドライバーとして名高く、雷を纏った大剣を軽々と使いこなすという。連れるブレイドは十代後半ハイティーンの外見の少女型。 鎖国を徹底するルクスリア王家の生まれでありながら、その姿は以前から諸国で確認されている。渡航記録に残る名はジーフリトではなくジークで、数年前にスペルビアに来たこともあるらしい。 国を出奔したと本人は言うが、その真相は公にされていない。市井の噂によれば、前々から次期国王としての教育から逃げがちで、国王の目を盗んでは外国へ渡るばかりであった不肖の息子を、とうとう堪忍袋の緒が切れたゼーリッヒが勘当したとか、いやいや国に嫌気がさしたジーフリトが自ら逃げ出したとか。国は捨てもう戻るつもりはないのだとか、世界での経験を糧にいつかは戻るのだろうとか。今ルクスリアは後継者問題で悩んでいるとか、ゼーリッヒは案外泰然と構えているだとか。無責任な噂は多岐に渡り、取り敢えずある程度信憑性のある話としては、今は行く先々で人助けをしながらふらふらとアルストを放浪しているという。スペルビアの次はグーラに向かったらしい。「すみません。ルクスリアの情報は殆どなく、通り一遍のことでしかありませんが…」「いや、充分だ」 自室でカグツチが纏めてくれたジーフリトに対する簡素な報告書を読みながら、メレフはやはり、ジーフリトという男のことを測りかねていた。ひとまず、国を出たのは事実らしい。王族が何をやっているのだろう、とメレフは呆れる。 皇子として生きていた間、メレフは国と民と将来のことばかりを考えていた。外に自由を求めたことはなかった。それは役目を終えた今も同じで、メレフはやはり、国と民とネフェルのことばかりを考えている。それは自分の性格によるものではなくて、立場上当然のものだ。だから同じような立場のくせに、メレフには理解できない生き方を選択したらしい他国の王子の輪郭は相変わらずぼんやりとして定まらない。「メレフ様? 何を、そのように難しいお顔をされているのですか?」 カグツチの指摘に、寄せていた眉をはっと開いて、言われてみればとメレフは一人首をかたむける。書類に目を落とし、紙の間に止められている写真を指でなぞる。赤髪の多いというルクスリア人にしては珍しい、やや青みがかった黒髪黒目の、自分と同年代の少年。 他国の放蕩王子。 写真をそっと指先でなぞる。 メレフの人生にはこの先全く関係ないだろう相手。 そんな男を上手く測れないことに何の問題があって、そして、測ることができたとして、私は彼に何を求めているのだろう。 生じた疑問は泡沫のように。答えは出ないままぱちんと弾ける。どうでもいいことだ、そんなことは。ただメレフを覗き込むカグツチに応じる為、メレフは心の、ある程度はっきりしている部分を口にする。「なんでもない。腕の立つドライバーなら、一度手合わせをしてみたいと思っただけだ。次に彼がスペルビアに来た時には、是非会ってみたいな」 けれどメレフと彼の巡り合わせは最悪だった。彼はその後もたびたびスペルビアを訪れたようだったが、それは全てメレフが不在の時であった。軍事訓練であったり任務であったり、アーケディアへ特使として赴いていたり。帰国後、ルクスリアの放蕩王子がいた、という噂や報告を聞くたびに、メレフは誰にも知られぬまま静かに落胆することを繰り返していた。誰かに、ルクスリアのジーフリト王子が来た時に自分が不在だったら、留めておいてくれ、と頼めばそんなすれ違いも起きなかったのだろうが、そこまでしてわざわざ機会を作るほど会いたいかと言えばそうではなかった。消えぬ興味はありながら、実際にその名を聞くまでは、メレフはいつもその存在を忘れていた。その程度のものだった。 代わりのように、噂の中や報告書の記述に彼を探した。ある程度はカグツチが気を回してくれて、特別執権官の地位を頂いてからは、部下にそれを命じた。「放蕩しているとはいえ、ルクスリアの王子だ。過去の一件のようなことがあれば困るからな。どこで何をしているか、把握していた方が安全だ」 建前半分の動機で、メレフは若い文官を納得させた。勿論、それのみを仕事として与えたわけではなく、他のもっと重要な事件や事象の報告のついでとして、ではあったが。 そういう風にして、出会うことはないまま、メレフはその男を知っていった。グーラ争奪戦の折には、戦火に焼かれる小さな村で住民の避難を手伝っていたようだった。開戦前にはスペルビア・インヴィディアそれぞれの前線基地付近で彼の姿が確認されている。グーラがスペルビアの属領となった後は、スペルビアにとって優先順位の極めて低い、辺境の村々で復興を手伝っていた。反帝国派かと言えばそういうわけではなく、スペルビアの商船が賊に襲われそうになった時には、偶然乗り合わせていた彼によって難を逃れた件があった。インヴィディアの傭兵団の中に彼の姿を見たと報告があった時には、敵に回ってしまったかと思ったのだが、それも一時的なものだったらしく、その三か月後にはスペルビアの港湾都市チルソネスでサルベージャーの護衛をする姿が観測された。ノポン商人の護衛を引き受けていたり、リベラリタスで獰猛なモンスターを退治ていたり。メレフに話が届く限りにおいて、とにかく彼はアルストの弱者のために行動しているかのようだった。世界各地で目撃情報のあった彼だが、数年前からはアーケディア法王庁に厄介になっているらしい。 ちょうどその頃から、彼を【雷轟のジーク】と呼ぶ声が世界のあちこちから上がり始めた。目に見えぬ速度で間合いを詰め、並々ならぬ怪力から繰り出される必殺の一撃を駆使する、雷の力を操るドライバー。ルクスリア随一から、アルスト有数の実力者へ彼は成長していた。ついには【炎の輝公子】と【雷轟のジーク】、どちらが強い? なんて与太話が民の間で囁かれ始め、これはいよいよ一度手合わせ願いたいものである。 けれど相変わらず、メレフは彼に出会うことすらできなかった。アーケディアにいると所在が判明したのに、メレフがアーケディアに行く用がある時にはいつもどこか別の国にいるのだ。そしてまた、メレフがスペルビアにいない時に限って彼は帝国を訪問する。何か大いなるものの意志さえ感じるすれ違いっぷりであった。 情報の上がる頻度は決して高くなかった。基本的にメレフは彼の存在を意識から忘れ去っていて、数か月から半年に一度その名を聞いて、やっと思い出すか出さないか。それくらいの些末なものだった。けれどその積み重ねによって、知識として有していたルクスリア王子・ジーフリトではなく、この世界に生きるジークの輪郭が、メレフの中で少しずつ鮮やかになっていった。 当然、それは本当のジークではない。メレフが勝手に積み上げた砂上の幻影だ。だがいつの間にか、ジークがどこで何をしているか、を知ることは、国内外の紛争に政争に忙殺される日々を送る彼女にとって、あまりにもささやかな一種の清涼剤となっていた。へえ今度はこんなところでこんなところを、と、都度の発見は単純に面白かったのである。「随分と、ルクスリアの王子のことがお気に入りなのですね」 笑声交じりのカグツチの声に、メレフは書類から顔を上げた。積み上げられた書類の山に少々うんざりしながら一通り目を通していた、夕暮れの執務室のことである。深煎り・クロ・コーヒーを持ってきてくれたカグツチは、メレフが机の隅に積み重ねていたサイン済みの書類を案件別に整理しながら、半眼になって自分を見上げたメレフへ首をかたむけてみせた。「なんだ、藪から棒に」 とぼけてみたが、カグツチの言う通り、メレフはちょうど、目を通していたアーケディア関連の書類の一部にジークの名を見つけて、久々に彼の存在を思い出していたところだった。無心で内容を確認していたところにその記述があり、なぜかふっと気が緩んだ、その瞬間を見られたらしい。初めて彼に興味を抱いてから約10年。メレフは24歳になっていた。それだけの間折に触れてジークという存在を認識し続けていたものだから、直に顔を会わせたこともないのに、メレフは彼に対して一方的で勝手な親近感さえ持ち始めていた。「いえ、なんでもありません。ただ、珍しいなと」「そうか?」 肩を回してコーヒーに口を付けながら、カグツチの指摘を受け流す一方で、そうかもしれないな、と心の中で思う。メレフの世界はスペルビアとネフェルとカグツチで基本的に完結していた。後は世界を憂う程度で、出会ったこともない人間が入り込む隙間など、この精神のどこにもないはずなのだ。「彼の何がそんなにメレフ様の御心を惹きつけるのだろうと、疑問に思ってしまいまして」 くすりとカグツチは再度笑う。「別にそんなものではない。自分にある程度近い立場の人間がいたと知れば、気になるのは人の性だろう?」「私はブレイドですから、残念ながらそれは分かりかねます。それに彼の御仁は、メレフ様から最も遠いように感じられますが」「カグツチ。何が言いたい?」「いえ、別に何も」 溜息を吐き出しながら、これは軽口の応酬だとメレフには分かっていた。根を詰めるメレフを雑談に誘導して休息させるカグツチの術中に嵌った形である。軽い意趣返しに不機嫌を作った声を出してみたが、カグツチには通じない。幼い時に同調して、それからずっと共にいるせいで、距離感を完全に把握されている。「ただ、メレフ様の御心を掴んだ男性には、少々嫉妬してしまいますね」 だから誰が聞いているわけでもない二人きりの執務室で、こんな際どい冗談まで投げられる羽目になる。「そういうものではないと言っているだろう」 柔らかく微笑を称えたままの美女を半眼で睨め上げ、メレフは脚を組み直した。 確かに、人に知られたら、邪推されても仕方がない類の興味である。直に出会ったこともない男を気にしている。報告書の中でどこで何をしているかを知って頬を緩めてみるなど、下手をすれば人格を疑われかねない所業だ。それくらいの客観性はメレフだって有している。 そんな単純なものではないのだ。 けれどあるいは、それよりもっと幼稚で。「では、メレフ様にとって、その王子はどのような方なのですか?」 相変わらず冗談の間合いでカグツチは問う。書類をあらかた仕分け終わり、それぞれを束ねながら。細い指先が紙を扱う、その優雅な所作を見るともなしに眺めつつ、カップを傾けた。程よく冷めたコーヒーの苦みが口に広がった。 喉を鳴らしてカップを置き、背凭れに自重を預けながら、メレフはふむ、と考える。 雷轟のジーク。 私は彼をどう思っているのだろうか。何がこんなに気にかかっているのだろうか。 興味は抱きながら、動機を自己分析したことはない。 思考を自身の内に沈める。 その存在を、常識として伝え聞くそれではなく、このアルストに生きる一個人として初めて認識したのは14歳の初夏。歳の近い、他国の第一王子。勝手に、立場が近いなと思った。きっと同じように、いや、メレフ以上の責務に塗れながら、その王子も日々を過ごしているのだろうと何の疑いもなく想像した。それが実際は国を出奔したと言う。妙な偽名まで名乗って。その男はメレフの理解を遥かに超えたところに存在していて、一体何者なのだろうと純粋な好奇心が湧いた。それは何ら特別性のない、市井の噂の真偽を気にするような、次の日には解決されていて全く不思議でない、好意になるはずのない興味だった。その時に顔を合わせて言葉の一つ二つを交わすことが叶っていたら、その後メレフは彼を完全に忘れてしまえたに違いない。 それが出会うことはないまま、些細な興味は些細な興味として生き永らえる。そして一方的に彼を知った。知ったと言い切るには少々迂遠が過ぎる情報の積み重ねにより、メレフは自身の中にジークという輪郭を構築していった。勝手に幻想を当て嵌めていった、と言う方が、表現としては近いだろう。それは当然のことながら、メレフにとって好ましい形をしていた。 メレフが知るジークという男はいつも野にあって誰かを助けていた。特定の陣営に肩入れはせず、国や人種の分け隔てなく。音に聞く凄腕のドライバーとしての力を、誰かを攻撃するために振るったことは、メレフに報告が上る限りにおいて一度もなかった。彼は弱者の味方のようであった。世界を自由に旅しながら、眼前の人間に手を差し伸べて生きていた。 それはメレフには決して真似のできない生き方だった。 メレフはスペルビアの為に生まれてきてスペルビアの為に生きている。メレフの人生の全て、過去から未来に至るまで、それは決して変わらない。それを不幸とは思わない。むしろ代えがたい幸運だ。カグツチと出会えたことも、愛する帝国の決定権を有していることも、その生き方あってのことだから。他の生き方など、したいとも、出来るとも思っていない。メレフは今の自分に満足していた。スペルビアの為と言いながら切り捨てる命も手を伸ばせない命もこの世界には山ほどあって、それに気付いて無視することが、正しいとは全く思わないけれど。それでもスペルビアとネフェルを守る、それ以外の望みなどメレフにはなかった。 ジークは、そんなメレフの対極だった。カグツチの言葉は正鵠を射ている。立場が近いどころか、彼はメレフから最も遠いところで生きていた。望んで国に縛られたメレフと、国の束縛を振り払ったジーク。国の為に命に優先順位を付けるメレフと、そうやって切り捨てられた些末な命に手を伸ばすジーク。世界を俯瞰で見渡せば、彼は正しくて、自分は正しくなかった。劣等感コンプレックスではなくある種の純然たる事実として、メレフはそう感じていた。 眩しかった。「……ああ、そうか」 呟く。カグツチが不思議そうに自分を見る。 好意ではない。この興味を突き動かしたのはそんなに鮮明なものではない。もっと未熟で、未分化で、つまらない動機。 他の生き方など知らない。出来ないし、する気もないし、万が一誰かに請われても、代わりたいなどと欠片も思わない。けれど、そうやって、存在に気付くことすらなかった未来の可能性。何度もしもを繰り返しても、仮に過去に戻れても、絶対に選ばれることのない世界のメレフ、その鏡像。決してありえないもの。それこそがジークであった。目を向けるより早く塗り潰して、手を伸ばす前に切り捨てた、過去から未来の全てのメレフはかすりもしない、そんな精神的幻影ドッペルゲンガーだった。 それは案外美しくて、好ましくて、燦然としている。「…………たとえば」 空になったコーヒーカップを机の隅に追いやり、次の書類を引き寄せる。深い夕暮れが差し込む執務室の窓に四角く切り取られたアルバ・マーゲンの街並みを眺め、メレフは口を開いた。「スペルビアに雪が降ったとしたら。お前はその雪のことをどう思う?」「雪……ですか?」 カグツチの手元で、片付けられようとしたカップがかちゃりと音を立てる。唐突に投げられた要領を得ぬたとえ話に困惑しているのが声から分かる。これは気まぐれでも何でもなくて、カグツチ本人が寄越した問い掛けに、可能な限り真摯に返しただけなのだが、果たして伝わっているだろうか。「雪など、我が国には降ったことはないと記憶していますが」「ああ、そうだな。ありえない」 他国に比べて雨すら珍しいスペルビアだ。加えて巨神獣の地熱による灼熱の荒野が広がる影響で、平均気温は一年を通して高い。昼夜の寒暖差は大きいものの、それでも、この国に雪など望める筈もない。お伽噺に憧れて雪を見てみたいと無邪気に願い、叶うわけがないと知って落胆するのは、スペルビアに生まれた子どもの通過儀礼の一つである。 そう、ありえない。あるはずがない。過去から未来に至るまで、存在するわけのない幻だ。 けれど、そんなものが、もし、唐突に、目の前に落ちてきたとしたら。「――そういう類のものだよ」 カグツチを見ると、彼女は理解したのかしていないのか、測りかねる顔をして「そうですか」と微笑んだ。意図を察したのか、問いながらさほど興味はなかったのか。どちらでもよかった。他に説明のしようがなかった。言葉を尽くせばまた違うだろうが、そこに努力する価値はない。 そう、ちょうどそういうものだった。 たとえばそれは、無知な子どもの小さな願いで。 たとえばそれは、心躍るお伽噺で。 たとえばそれは、明け方に見る夢で。 たとえばそれは、幻想と知って語るもしも話で。 それは緑豊かな砂漠で、 それは新月の夜に掛かる虹で、 それはモルスの断崖に産声を上げる命で、 それは雲一つない蒼天に轟く雷鳴で、 それは自由で、 それは正しく、 それは切り捨ててしまったもので、 正直に言おう。 メレフはそんなものの一つである彼に憧れていたのだ。 だから、リベラリタスでの言い訳をさせてもらえば、その存在と唐突にまみえることが叶って。 そうやって一方的に育んだ親近感と憧憬が、つい、相応しくない呼称で彼を呼んでしまったのだった。「お前は……」 本来ならばルクスリア王子ジーフリトへ向けてよい二人称ではなかった。貴公と、彼以外に向けてならば、無意識でもその呼称が口を突いたはずだった。メレフはすぐに自身の失態に気付いたが、当の本人を含めて誰も言及しなかったのは僥倖である。「あんさんもやるかい?」「いや、私は遠慮しておこう」 天の聖杯とそのドライバーへ武器を向ける者に対して加勢しなかったのも、彼が不届き者の類ではなく、むしろ目的地たるアーケディアに身を寄せる人間だと知っていたからだ。そうでなければ傍観などする筈がない。どころかメレフは顔を背けてその男へ背を向けた。そうせねば無意識に吊り上がりかける口許を気取られるやもしれなかった。メレフはそちらの方を余程恐れた。「如何ですか? 憧れの王子様は」 が、傍らのカグツチにはしっかり気付かれていたらしい。剣劇の音、放たれる雷撃と防ぐ火炎、ノポン製ミサイルが放つ爆風。平穏なリベラリタスの景色に相応しくない戦闘の喧騒に紛れながら、耳元で小さく紡がれた冗談に、メレフはカグツチを睨み付ける。「カグツチ……。いかにお前とはいえ、誰かに聞かれていたら許さないところだぞ」 珍しく苛立ちを露わにしたメレフに、「これは失礼しました」とカグツチは涼しい顔だ。いい加減、歳も彼女の外見に近づいて、やっと対等になったというのに、子どもの頃からこういうことでカグツチに敵ったためしがない。幸い、戦闘に勤しむ四人に聞こえる筈もなく。傍らのファン・レ・ノルンはその様子を固唾を飲んで見守っていて、メレフは全く意識の外のようであった。「そうだな」 ジークの太刀捌きを見ながら腕を組む。噂に違わぬ俊敏さと膂力だ。見る限り、躱すことは可能だろうが、真正面から受け止めるにはメレフには難しいかもしれない。だがもしも共に戦うのなら、これほど頼れる実力者も世界にそうはいないだろう。メレフの剣は守るための型で、攻撃偏重の気配があるジークとはおそらく相性がいい。 手合わせあるいは共闘を勝手に考えながら、メレフは口を開いた。「まあ、思っていたのとは少々違ったな」 偽名からなんとなくは分かっていたつもりだったが、言動は奇抜。子どもたちからも舐められている様子である。口調も聞き慣れないものだ。ルクスリアの方言というわけでもないだろうに。もし10年前、ハーダシャル正門前にて衛兵が捕えた時の彼が今目の前で大剣を振るう男がそのまま10歳分若返っただけの少年であったなら、不審者扱いも止む無しである。ジークを称える紹介をしたメレフにもっと褒めてくれと詰め寄って来た顔は率直に言って賞賛に値するほど気持ちが悪かった。他国の王族に対して失礼とか無礼とかそういう常識的礼儀を忘れて顔を背けてしまったほどだ。 そんな男が、剛力降臨、と大振りに剣を構える。妙に隙の大きい構えだ。格好付けることが目的とでも言うような。凄腕ではあるが、想像していたよりストイックな戦闘スタイルではない。 それを眺めながら、メレフはふっと微笑んだ。「だが、おそらく、思っていた通りの男だ」 二言で矛盾したメレフの感想に、カグツチは意を唱えない。そうですか、と返すのみだ。 目を細める。眩しいのは交差する雷撃でも火炎でもない。 青みがかった黒の眼差しが。おちゃらけた響きでその実深いその声が。歪みなく立つ姿が。メレフが勝手に描いていたジークという輪郭の中に、案外すっぽり収まっていく。 ああ、そうだ。きっとそういう男のはずだ。メレフが思い浮かべていたジークは、眼前で剣を振るう男と、ちゃんと同じ形をしていた。 答え合わせを終わらせて、逸る心を自覚する。 確かめたいことがあった。 話したいことがあった。 メレフには決して臨めない景色。彼が自由に見て回ったアルスト。そこから見る世界が、どんな色をしているのかを聞いてみたかった。スペルビアからの景色とは、違う彩りの筈だった。 それが知りたかったのだと今更気付く。 子どものようにわくわくしていた。「――やっと出会えた」 呟く。小さく、小さく。カグツチにも聞こえない程に。 この瞬間の到来を、私は10年待っていた。2018/02/04 [6回]PR