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Dear, my dear.

ゼノブレイド2非公式二次小説置き場。 ジクメレ・カグメレ等メレフ中心。 管理人:琉

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ピュア・パトリオット

「ほな、王子。うちは先に戻るけど、あんま遅うなったらあかんで」

 ひとつ伸びをして立ち上がり、人差し指を立ててみせたサイカに、ジークは湯気を立てるカップを片手に「おう」と鷹揚に頷いて苦笑交じりに肩をすくめた。

「ガキやないんや、ええ加減その手の注意もやめてくれんか」
「ええやん、もう癖みたいなもんやわ。気にせんといて」

 気のない素振りで踵を返し、セイリリオス広場へと続く階段を昇っていくサイカの背中を見送って、あち、と無意味な独り言を零しながら、ジークはカップに半分残っていたオーディファに口を付けた。セイリリオス広場の一般開放時間もとうに終わり、大階段には人も少なくサイカが上り終えるまでその姿を見失うことはなかったが、一方でここポルディス円形広場には観光客の姿もまだ多い。母国では決してお目にかかれない観光客の喧騒にも慣れたもんやなと大した感慨もなく胸中で呟く。
 法王庁アーケディアに厄介になって早数年、一仕事終えた後にはポルディス円形広場のカフェ・ルティーノでサイカとともにオーディファを楽しむことがお決まりだった。普段ならアフタヌーン・ティーに相応しい時間に赴くのだが、ルティーノの店内に見える壁掛け時計をちらりと見ると、既に21時を回っている。天の聖杯とそのドライバーを見極め、法王庁に入庁して問題がないかどうかを判断する、というのが今回ジークに課せられた任務であったが、無事アーケディアに初来訪となった天の聖杯御一行がファン・デ・ノルンの案内で法王庁内の宿に着いたのが16時過ぎ。その後も用意された食事を彼らと共に摂っているうちに、気付けばこんな時間であった。明日にしてもよかったのだが、明日は明日で謁見がある。その前に人心地ついておきたかったジークは、もうええやん今回は、と呆れ気味だったサイカに、こういうお約束はこなすことが大事なんやと強弁を通した。
 とはいえサイカの言う通り、あまり遅くなるわけにもいくまい。明日も朝早いのだ。通算三杯目のオーディファを飲み干し、皿に残っていた最後のクッキーを口に放り込んだ。店主に伝票と金を渡し、大階段をのんびりと昇る。夜も暮れてきたとはいえ、正面にはセイリリオス門に焚かれた篝火が、頭上にはアルストを覆う星々が、そして下層には難民キャンプのたき火がそれぞれ光っており、子供を怯えさせる闇はここにはない。ジークの知る限りでは、これほど明るい夜を持つのも、ここアーケディアの他には、スペルビアの首都、アルバ・マーゲンくらいのものだ。
 そんなことを取りとめもなく考えていたためだろうか。ふと、正面左手の展望地に人影を認めた。展望地ミラ・マーは人気の観光スポットであるが、そこを含む法王庁区画は、20時を過ぎては観光客に一般開放されていない。実際、その人影の他には誰もいないようだ。
 噂をしたわけではないが、これも影が立つっちゅーんかな。呟きながら予定進路を変更する。特に用があるわけではない。なんとなくだ。
 正門に佇む衛兵に片手を上げて無言のまま許可を得、ミラ・マーの方向へ曲がる。しばらく歩き、思った通りの人物を認めた。背筋の伸びた後ろ姿にまず覚えた感想は、へえ髪長かったんやな、だ。

「ここはええ観光スポットやけど、もう開放時間は終わりやで」
「ジーク王子」

 軽口に振り返ったスペルビア特別執権官メレフ・ラハットは、右手を胸に当てジークに一礼した。スペルビア式の敬礼である。直前に手が浮きかけたのは、癖で脱帽しようとしたのだろう。正装時は男性と見紛うばかりの彼女だが、軍帽と甲冑、手袋を外し、上着を脱いだ軽装の彼女は、思っていたよりも線が細く見えた。

「なんや、えらい他人行儀やな。ジークでええで、普通にしてくれ」
「しかし、他国ルクスリアの王子に対して、それは……」

 顔の前で手を振って苦い顔をするジークに、メレフは困惑した様子で眉根を寄せる。真面目なこって、と軽く肩をすくめ、ジークは腕を組んでメレフの隣へ歩み寄った。

「そないなこと言うたら、あんさんかて同じようなもんやろ。スペルビアのメレフ皇女殿下」

 からかい半分の声音に、途端にメレフが気分を害したように目を細める。一般人の一人や二人、うっかり射殺せてしまえそうなほどに眼光が鋭い。皇室長子ではあるが、皇女としては育てられていないという噂を聞いたことがある。このあからさまな不機嫌から見て、おそらく本当なのだろう。
 大きく息を吐いて、メレフは諦観気味に頷いた。

「分かった。ジーク。貴公もその呼び方はやめてくれ」
「おう。メレフでええな?」
「構わない」
「んで、メレフ。ブレイドも連れんと、こないな時間にこないなところで何しとったんや」

 ブレイドも連れずに一人こんな時間うろついているのはジークも同じなのだが、自分のことは棚上げだ。メレフは特段抑揚も付けずに「別に」と、胸元まである展望台の石壁に両腕を組んで凭れ掛かった。淡々とした声と横顔から、何らかの感情は読み取れない。

(余計なことは喋らんってか)

 スペルビア皇帝代理として、レックスとホムラがアーケディア法王マルベーニに謁見するのを見届けるために同道していたのだと聞いた。口調が砕けるのは許すが、あくまで公人として、他国の王族に不要な情報を与えるつもりはないと言いたげな態度である。昼間、レックスに英雄アデルを重ね、その夢の行く先を見てみたいと言っていたから、話の分かる人物かと思ったが、どうやら典型的なスペルビア上流階級のようだ。排他的で高慢な自国主義者。国の上層部にそんな人間が多いから、グーラを属領にしてもう随分経つと言うのに、未だにグーラ人のテロリストがスペルビアからいなくならないのである。

(……ま、スペルビアのお偉いさんがどんな人間かとて、ワイには関係のないことや)

 極めて個人的な落胆を悟られないようにゆっくりと瞬きをして、ジークはメレフと同じように、石造りの手すりに背を預けて凭れ掛かった。近寄ったのも話しかけたのも自分である。もうしばらくは会話を続けなければ失礼に当たるだろう。スペルビアと険悪になって、損をするのは一方的にルクスリアだ。鎖国はしているがスペルビアがその気になれば関係ない。雪に閉ざされてスペルビア以上に不毛ではあるが、ルクスリアは国土だけは広大だ。そしてたったそれだけの理由が、スペルビアがルクスリアを狙う充分な動機になることをジークは知っている。

「ここはな、この時期なら夕方に来るのが一番ええで。陽がちょうど目の前に沈んで、空も雲海もアーケディアの巨神獣アルスも、全部ええ具合のオレンジに染まるんや」
「そうなのか? それは知らなかった」

 惜しいことをしたな、と仄かに色付いた唇が呟く。ちらりとそれを一瞥し、ジークは気のない素振りで続ける。

「明日時間があったら来たらええ。言うて結構有名な情報やけどな。知らんかったんか?」
「観光に来たわけではないからな」
「アーケディアに来たのも、初めてっちゅうわけでもないやろ?」
「確かに過去数回赴いたことはあるが、それもすべて任務だ。街を見て回るくらいはしたが、そういう情報は知らなかった」
「真面目やのう。ボンたちなんか、せっかくだからいろいろ見て帰るんやー言うて、お勧めのスポットやら食べ物やら、色々聞いてきよったで」

 先の食事時の話題は、マルベーニへの謁見の話が五分程度で済んだ後は、アーケディアの観光情報をジークがせっつかれて答えるばかりだったのだ。そういえば、そのときもメレフとカグツチはいなかった。徹底して、慣れ合うつもりはないようだ。
 思い返して鼻白んだジークだったが、くす、と零れた笑声を聞く。空耳かと思ったが、メレフが存外柔らかい横顔をしていたのを認めた。間違いなく、この特別執権官殿が発したもののようだ。意外な発見に、ついまじまじと彼女を眺めてしまう。不躾な視線に気付いたメレフがジークを見上げた。同時に視線は逸らしたが、誤魔化せていないことは分かっている。
 胡乱そうにしながらも、メレフは追究してこなかった。ゴーストイウト港の方角へ顔を戻し、メレフは先ほどジークが聞いた通りの、思いがけず柔らかい声音で言葉を紡ぐ。

「子どもたちが初めての地に来たのだ。気分が高揚するのも無理はない」
「ま、せやな。子どもはそんくらいの可愛げがあったほうがええ」

 個人としては結構ええ奴かもな、と、メレフに対する印象を少し修正する。そしてふと、ジークは、傍らの彼女に意地の悪いことをしてみたい気分になった。思いがけずメレフがあけすけにした優しさが、どこまでのものなのかを、どういう性質のものなのかを、測ってみたくなったのだ。

「ああ、せや。観光情報ついでにもうひとつ。ここ、雲海に向かってコインを投げるんが流行っとるんや。願いが叶う言うて」

 いつからそういうことになったのかジークは知らない。ジークが法王庁に拾われた数年前には、既にコインを投げる観光客は大勢いた。彼らは無邪気にコインを投げて、雲海に届いた・届いていないできゃっきゃとはしゃぎ――そして、コインの行く先を気にも留めない。気にしたとして、ミラ・マーから臨むアーケディアの絶景を損なう減点部分マイナスとしてしか認識しない。
 さてこのスペルビア特別執権官殿はどうだろうか。口許を吊り上げて「どないや」とジークは、表面上はあくまで朗らかに提案する。

「やってみいひんか? せっかくこないなとこまで来たんや、話のネタになるで」
「……いや。私は遠慮しておくよ」

 切れ長の伏し目がちらりとジークを見遣る。アーケディアの無味な風が一陣吹いて、メレフの長い前髪を遊んでいった。乾燥を堪えるように長い瞬きをしたメレフが、その合間に視線を下層へ遣ったのをジークははっきりと見る。

「なんや、手持ちがないわけでもないやろ」

 己の口許が刷いた笑みが、底意地の悪い形をしたことを自覚しながら、ジークは目を細めた。

「それとも、施すみたいで気分が悪いか」

 さてどんな顔をするかと待ち構えていたジークは、おや、と片眉を上げた。緩慢にジークを見返したメレフは、怒るか戸惑うかはするだろうと見越していたジークを裏切って、ただ淡白な表情をしていた。微かに揺らいだ眼光だけが何かしらの感情を宿していたが、ジークがそれを読み取るより早く、その色は彼から逸らされた。逸らした目線はここミラ・マーの下層、神光の噴水を囲うようにくすんだテントの立ち並ぶ難民キャンプ地に向いている。いくつかのたき火だけが揺らめいて、闇を失ったこのアーケディアの夜において、限りなく闇に近い空間が大口を開けている。

「流石に気付いとったみたいやな」
「ああ。昼に、大聖堂へ案内されている道中にな。ここからコインを投げる観光客と、そのコインを拾う難民キャンプの子供が見えた。……グーラ人だったな」

 声音は、あくまで淡々と。盗み見た横顔も無表情だ。ただ、最後に付け加えられた独り言だけが、ひどく硬質な響きで夜に落ちていった。ジークはしばらく続く言葉を待ったが、メレフがこれ以上口を開く気配はない。遠まわしに言ったところで、遠まわしに返ってくるだけのようだ。
 ならば、とジークは直情に尋ねる。

「あんたにとって、難民キャンプあれはどう映る? ワイにとっては、昼間に言うた通りやけども」

 肩越しに眼下の闇を覗き込む。荘厳なアーケディアの街で異彩を放つ薄汚れた一区画。安易に近寄って何らかの事件に巻き込まれたとして、自己責任だと被害者が誹られる程の貧民街。
 ジークにとっては、怠惰の集団でしかない。戦乱で家を焼かれ、故郷を追われた。その不幸は同情するに余りあるものではあるが、比較的温暖で住み良いアーケディアの巨神獣アルスに、堅固な家ではないけれど済む場所は与えられ、衣服も食料も法王庁からの配給で手に入る。確かに、難民キャンプだ。貧民街だ。彼らが元いたグーラやスペルビア、インヴィディアの環境からすれば、不自由で不十分だろう。けれど、

(ルクスリアに比べりゃあ、なんぼもマシやないか。王都テオスアウレでさえ、飢えと闇市が跋扈しとる言うのに)

 更なる不幸と貧困を知りもせず、自らこそが最下層だと、被害者なのだと声高に。そして手に入れた逆権力をもって、分かりやすい憎しみの対象ブレイドを攻撃する。アルストにおいて最貧国で最後進国のルクスリアに生まれ、いまブレイドサイカのコアで生きているジークにとって、彼らの在りようは見るたびに心をささくれさせる。
 けれどそれはあくまでジークの都合で、ジークの目線における話だ。逆に言えば、眼下のキャンプに自国民もルクスリアの責任で生じた難民もおらず、かつ自分がたまたま偶然ブレイドと関わりが深くなってしまったからこその、無責任な他人事と一方に寄った目線から帰結する、ある種自己中心的な認識に過ぎないことをジークは自覚している。
 メレフは違う。彼女の国スペルビアの侵略行為が、これだけの闇をアルストに生み出した。難民キャンプに、アーケディア人はいない。大半がグーラ人で、スペルビア人やインヴィディア人も見受けられる。スペルビアが生き伸びるために奪い殺した他者と、その過程で振り落とされた自身の些末な一部分、それがこの難民キャンプの正体だ。だから言うなれば、眼下の難民たちは――

我が国スペルビアが、見捨てた者たちだ」

 静かな声が、夜を切り裂いて響いた。
 ジークは驚いてメレフを見た。感情の読めない横顔が、淡々と静かな声音が、その裏で彼女にとって不都合な現実を正しく見つめているとは思っていなかったのだ。特にスペルビア人らしくプライドが高そうなメレフが、特別執権官などという役職に在って今のスペルビアを肯定しているはずのメレフが、他国の王子を前にして、それを言葉にして認めるなどとは、試そうとしながら、ジークは欠片も信じていなかったのである。
 篝火に照らされたメレフの横顔に、落ちかかる前髪や長い睫毛が落とした影が、炎が揺らめくのに合わせて揺れている。彼女はジークを一瞥もせずに、静かに眼下を眺めていた。伏し目の瞳から窺えるものは同情ではなかった。自責でもなければ無関心でもない。ただ思慮深いだけの光が、漁火のように琥珀色の瞳の奥で揺らめいている。
 それが不意にジークに向けられた。静かに射抜かれて、思わず息を呑む。

「だから、考えていた。あの者たちを、どうやって掬い上げればいいのか」

 言葉は淡白で、けれど声には透明な意志が響いている。ジークはそれを黙って見ている。背筋はぴんと伸びたまま、肩は少しも丸くならずに、明るいばかりの夜の中で、何か高名な美術品のように、その立ち姿は美しかった。

「いま私個人が施したところで、あの難民キャンプの中に新たな格差と紛争を生むだけだ。法王庁に対して、難民保護の寄付をするならその問題は解消されるだろうが、結局対処療法に過ぎない。すべてを先送りにして、何の解決もしないままだ」

 もしも難民キャンプに対してメレフが何かを為そうと言ったなら、こう答えて一度は否定してやろうとジークが考えていた悪意を、彼女は正論として自ら紡いでいく。「けれどこう並べ立てるのも、何もしない自分を正当化するようで、偽善にさえならない無意味だが」整った横顔を歪めてみたくて告げようとした詭弁でさえ先回りされ、ジークはつまらない感情を持て余す。毛羽だった木材を素手で触り、幾つかの小さな棘が指先に刺さった、そんな不快感だった。

(なんや。ワイは何がこんなに気に食わんのや)

 無表情で押し殺したジークの内心に気付くはずもないメレフは、小さな息を吐き出して、なおも言葉を紡いていく。

「だから、彼らを本気でどうにかしようと思うならば、国の政策として難民救済を行わねばならない。彼らは本来、我がスペルビアが守るべき帝国民なのだから」
「グーラ人であってもか?」
「属領といえど、スペルビアが庇護すべき者たちであることに変わりはない」
「インヴィディア人もおるみたいやけど」
「……確かにインヴィディアは敵国だが、あくまで利害関係における敵対だ。個人には何の罪もないし、個人が救われるならそれに越したことはないと思っている」
「…………優しいんやな、あんた」

 零れ出た言葉は、彼女を試そうとしていたジークにとっては白旗に等しい手放しの賞賛であった。しかし当のメレフにとっては、皮肉に受け取られてしまったようだ。無言で肩をすくめられる。だから、その後にジークが続けた言葉は、彼にとってはもはや悪意など全くない真っ白の言葉であったのだが、メレフにとっては別の意味を含んで聞こえたことだろう。失敗したなあ、とジークは頭を掻く。

「そんでも、スペルビアはスペルビアで、今の自分を守るのに手いっぱいやろ。治安も、住む場所も、食料も」
「……ああ。だから、何度考えても、ここで行き詰まる」

 何度。軽く挟まれたその単語から、ジークに尋ねられるまでもなく、メレフが難民問題を認識し、彼女なりに思考を巡らせていたいたことが窺える。

「スペルビアの巨神獣アルスはもはや寿命が近く、零れ落ちた者を掬い上げる余裕はない。これからどれだけの者を零れ落ちぬよう留めておけるかすら分からない。……仮に、それができたとしても、世界アルスト全体が衰退している以上、その時をいつまで引き延ばせるかの悪あがきでしかない」

 目を閉じてメレフの言を聞いていたジークは、弾かれたように彼女へ向き直った。世界が衰退している。悪あがきでしかない。それはジークが十年前に国を飛び出た血気で、今なお彼を突き動かす動力だ。国を憂う前に世界を救いたいと、理想と勢いだけで世界へ挑戦し、強大な現実と名の壁に弾かれ無力を知り、いつしか、世界を救いたいと願いながら、どこか世界を斜に眺め始めた。
 けれどメレフの語る言葉は、それが切り取った彼女の心は、世界をただ真っ直ぐに見つめている。レックスやニアやトラ、天の聖杯と共に在る子どもたちにジークが認めた純真に、それは酷似していた。

「……そうやって、答えが出ないまま時を潰して……けれど、最近、思うことがある」

 噛み締めるようにゆっくりと言葉を発していたメレフは、一度ジークに微笑みかけて、次いで星空をぐるりと眺めやった後、ある方角へ視線を固定した。雲海の向こう、遠くぼやけた暗闇の中で、微かに光るものがある。世界樹だ。ああ、と、ジークは得心した。

「伝説に語られるのみだった楽園。いま、天の聖杯がその存在を示唆して、子どもが夢を追いかけている。……もし、世界を救う何かがあるとするのなら。それはきっと、そんな子どもの、笑ってしまうほどに、ひたすら真っ直ぐな夢なのだろうな」

 ゆっくりと発せられる声が、驚くほどに柔らかい。自身が失った物を懐かしみ、そして惜しむ寂寞の音が風に溶ける。その口調こそ、夢を見る子どもそのものの色を残しているというのに。

「私には、決してできないことだ」

 そして彼女はそう呟いて、ほんの少し、寂しそうに目を伏せた。
 そうか、とジークは不意に、先程からメレフへ一方的に感じていた所在不明のささくれの理由に思い至った。傍らで背を伸ばしているメレフは、決してこうは生きることのできなかっただろうジーク自身だ。世界の衰退という現実から目を背けることなく、けれど国という現実を、いま手の届く具体的な誰かを優先して生きる彼女は、十年前国を飛び出なければもしかしたらこうなっていたかもしれないというジークの鏡像だ。こうなるまいと思った自分。こうはなれないと思った自分。それが唐突に眼前に現れて、思いがけず眩しかったものだから、否定して塗りつぶしたくなった子供のような嫉妬が、この苛立ちの正体だ。
 それを自覚してしまえば、先ほどまでメレフに感じていた印象が不当な偏見に満ちていたことを知る。プライドが高く、排他的で高慢な自国主義者。そのような典型的スペルビア人の要素など、彼女には欠片もないではないか。スペルビア皇族の生まれで、若くして特別執権官という軍の要職に就いているという事実から、どんな国粋主義者ナショナリストかと勝手に思っていただけだ。プライドが高いのではなくただ誇り高く、愛国者パトリオットではあるがその目は世界に公正だ。表層に現れる言動は噂に違わぬ現実主義者リアリストだが、語る言葉に見え隠れする性根が宿した理想主義ロマンチズムの、なんと透明なことだろう。

(いや、ちゃうな。根っこが理想主義者ロマンチストで、立場上の現実主義リアリズムでそれを殺しとるタイプか。……難儀な性格しとるな。生きにくそうや)

 心中で生じた同情を軽い笑声で覆い隠して、ジークは冗談の間合いで肩をすくめてみせた。

「なんや、スペルビアの特別執権官殿が、意外やな。ルクスリアの王子ワイにそないなことを言うなんぞ」
「この程度を貴公に話したところで、スペルビアに害はないだろう? それに、託しておくのも悪くはないと思ってな」
「託す?」

 ああ、とメレフは頷いた。体を半回転させ、石畳に三歩分の足音が響くと、彼女はジークに向き合うようにして、腕を組んで石造りの壁に背を預けた。

「明日の謁見が終われば私の任務は完了だ。直ちにスペルビアに戻らねばならない。私個人としては彼らの夢の先を見てみたいとは思うが、勝算の低い賭けだ、そんなものに、国の命運を賭けるわけにもいかないだろう?」
「まあ、正論やな」

 先程の自分の洞察は、どうやら当たっているようだ。誰かの夢の先に未来を託してそれを見届けたいという些細な夢を、けれど本心からの夢を、彼女は守るべきもののための現実主義リアリズムで押し殺して自身の現実へ帰っていく。それを当然だと思っているし、少なくとも自身の意志において、その生き方を曲げることはしないだろう。今夜交わした会話で、この短い時間で、ジークにそれが伝わる程度に、メレフの生き方はきっと歪みがない。それを寂しいと思うのはジークの身勝手だ。せっかく出会った同志と、明日には別離する名残惜しさ。ようこないに簡単に絆されたもんやわと自身の単純に苦笑する。

「だから、ジーク。もし貴公が彼らと同道することがあるのなら、私の分も見ていてくれないか。彼らの夢の先を、そして世界がどうなるかを」
「……昨日今日会うたばかりのワイに、またえらいもんを託すもんやな」
「これでも人を見る目はあるつもりだ。貴公がレックスたちを気に入った理由も、私と同じようなものだと見受けたが、違うだろうか」

 自身に満ちた微笑で真正面から自分を見上げるメレフに、ジークは降参と言うように両手を軽く上げた。炎の輝公子とはよく言ったものだ。並の男より余程堂々として男らしいことこの上ない。

「分かった。まあこの先どうなるかは分からんが、もしそうなったときは任せてくれ」
「うむ。頼んだ」

 メレフが満足そうに頷いたそのとき、強風が吹き抜けた。近くを大型のアンセルかタオースが横切りでもしたのか、はたまたどこかで巨神獣アルスが沈みでもしたのか。ともかく珍しい突風に、咄嗟に目を庇った腕で遮られた視界に夜の色が閃いたかと思うと、かたんと軽量の何かが落ちた音が展望台に響く。
 風が止み、乾燥した目を強い瞬きで潤した後、ジークは翻ったものの正体を知った。先程までまとめられていたはずのメレフの黒髪が、今は胸元を過ぎたあたりで揺れていたのだ。豊かな黒髪は、おそらく元は癖もなく真っ直ぐなのだろうが、一日中纏められていた影響か、ところどころで緩く波打っている。つややかな夜の色が、篝火を反射して煌めいていた。
 足元に落ちた髪留めバレッタを手に取り、何度か矯めつ眇めつすると、メレフは困惑した様子で自らの長い髪を耳にかけた。思いがけず女性らしい仕草にどきりとする。

(なんや、心臓に悪いギャップやな)

 つい先ほど実に男らしく堂々と胸を張っていた姿との高低差がなかなかに激しい。
 そんな内心は露程も面に出さず、距離を詰めて彼女が手に持つバレッタを覗き込む。

「壊れたんか?」
「そのようだ。長く使っていたからな…」

 直らないかと弄っているが、どうやらパーツそのものが経年劣化で折れてしまったようだ。諦めたように溜息を吐き、「弱ったな…」と口許に手を当てる。短い付き合いでも何度か見た仕草だ。おそらく癖なのだろう。

「謁見は明日なのに。ジーク、アーケディアの雑貨屋は……」
「流石にもう開いとらへん思うで。仮にいま開いとっても、閉店にはまず間に合わへんな」
「そうか」

 弱ったな、と再度呟きながら、メレフは黒髪の毛先を白い指先にくるりと巻きつけた。明日どうすべきかを真剣に考え込んでいる様子だ。ちなみに、雑貨屋の開店時間も謁見には間に合わない。それを告げるとメレフの顔がますます困惑に歪んだ。

「そのままでもええんちゃうか?」
「長い髪はまとめ上げるのが正装だ。そういうわけにはいかない」
「それ軍服での話やろ? 発想を逆転させて、もう服の方ドレスかなんかに変えたらどうや」

 冗談八割本気二割の提言だったのだが、メレフの纏う空気があからさまな不機嫌へとふっと変わった。なんや、と改めてメレフの顔を見やると、先ほど皇女殿下と軽口を叩いた時と同じ目つきで睨まれる。先程よりも距離が近い分迫力倍増だ。それがかえっておかしくなって、ジークは笑って軽く腰をかがめ、顔の距離を近づける。よく見れば肌も肌理細やかで、瞳もなかなかに大きかった。

「なんや、そんな怖い顔せんと。可愛らしい思うで」
「……ジーク。それ以上は愚弄と取るが?」

 ただでさえ女性にしては低めの声が怒りで更に低くなっている。何の地雷を踏んだか知らないが、怒らせたことは確実のようだ。少し調子に乗った自覚はある。
 なるほど、炎の輝公子殿は女扱いされることがお嫌いか。
 くだらないことを学習したとき、ジークの背中から「王子!」という声が飛んだ。振り返らずとも分かる。サイカだ。妙に焦った声音だった。石畳を走る二人分の足音を背後に聞きながら、ジークは鷹揚に振り返る。

「おう、どないしたんやサイカ。そない慌てて」
「そりゃ慌てもするって! 帰りが遅いなあ思うて探しに来たら、王子がなんか変なことしとるようにしか見えへんのんやもん。なんか妙に距離近いし」
「なんやその言い草。なんもしとらへんで、なあメレフ」

 サイカのみならず、彼女の後ろに続いていたカグツチの表情まで硬いのを認めて慌てて弁明するが、水を向けた当のメレフはジークを無言で一瞥した後、長い髪を風に翻しながらカグツチの元へと歩み寄った。カグツチは慌てた様子でメレフへと駆け寄り、その様子に、どうやら自分たち、というか自分がはたから見れば割と冗談で済まなそうな構図になっていたことを知る。

「メレフ様、その御髪は……」
「バレッタが壊れてしまった。適当に纏められるか、カグツチ」

 壊れたバレッタをカグツチに手渡しながら、メレフはジークを見もしない。そんなメレフとジークを交互に見て、サイカの目が眼鏡の向こうで胡乱そうに細くなる。

「わざと壊したりとかしとらへんよね、王子」
「濡れ衣やて。あれよう見てみい、人間はあんな壊し方できんって」

 ひそひそと追究と弁明の応酬を行うジークとサイカを横目に、カグツチはバレッタの状態を確認すると、ふっと警戒を解いて困惑顔のメレフに微笑みかける。それでも一瞬物言いたげな視線を感じ、ほんま濡れ衣なんやけどなあとジークはこめかみを掻く。

「お任せください。これはもう使えませんが、謁見の間だけでしたら別の方法でどうにでもなります。その後、街で新しい髪留めを求めましょう」

 カグツチの答えに、メレフはほっと息を吐いた。

「よかった。マルベーニ法王に失礼のないよう、それと……」

 ちらりとジークをみやったメレフの視線が酷く冷たい。唇の左側だけを吊り上げて、分かりやすく意趣返しだと言わんばかりの笑顔と呼ぶには不穏が過ぎる笑顔で、メレフは一度音を立てずに唇だけを動かした。その後、全く別の言葉が改めて音になる。

「ジーフリト殿下のお気を散らせないように。頼むぞ、カグツチ」

 そのまま、彼女はセイリリオス広場の方へ歩いて行った。メレフに続いたカグツチが、ジークのことを物言いたげな顔で一瞥する。うわああれ印象最悪やな、と他人事のように呟いたジークは、メレフが言葉を発する前に動かした唇の動きを思い返して、ふっと真顔になった。

「……あいつ、"お前"言いよったで」

 おまえがわるい。あの口の動きは間違いなくそう言っていた。先程まで貴公と言っていたのが随分な格下げである。カグツチへの言葉遣いを見る限り、彼女の"お前"は同格への二人称のようだから問題があるわけでもないが。
 そしておそらくメレフがそう意図した通りに、サイカが相変わらずの疑いの眼差しを傍らから向けてきておりジークにとっては大変に居心地が悪い。殆ど冗談だったとはいえ一応褒め言葉しか発していないはずなのに、あそこまで怒られるのはなかなかに理不尽なものを感じるジークだ。まあ地雷はひとそれぞれやしな、と自分を納得させる。

「なあほんまなんもしとらへんよね? スペルビアとの国交問題とか、洒落にならんのはやめてや」
「だーいじょうぶやって。ワイはほんま何もしとらへんし、仮に死ぬほどあいつをキレさせたかとて、国の問題には絶対せえへん奴や」
「いや怖いこと言うのやめてや。ていうか、その信頼関係なんなん。いつの間にそんな仲良うなったんや、王子」
「ま、ほんまに問題はないから、心配せんでええで、サイカ。ワイらも戻ろか」

 サイカの背を軽く叩いて促す。メレフとカグツチはもう門をくぐってセイリリオス広場の向こうまで行ってしまったようで、視界には衛兵以外の人影が見当たらない。さして急ぐでもなくのんびりと歩きながら、「サイカぁ」とジークは語り掛ける。

「何?」
「ワイは今日ほど国を出てよかったと思うた日はないで」
「そうなん?」サイカが首をかしげる。「レックスたちのこと、そんな気に入ったん?」
「ま、それもあるけどな」

 先ほどとのメレフの会話をひとつひとつ思い出しながら、ジークの口許には自然と笑みが乗っていた。
 このアルストに、同じような立場で、同じような歳で、同じように世界を眺めて、そして同じように夢を見る、そんな人間が存在するなど、ジークは今日この時まで想像すらしたことがなかった。夢を託していいと思えたのはレックスだ。今日この日まで共に旅をして、そしてこれからも共に過ごしていくのはサイカだ。けれど、ジークの人生において唯一の同志と言える、そうなれる存在は、このアルストにきっと彼女一人だろう。

「出来れば一緒に旅をしてみたいもんやなあ。きっとおもろいで、あれは」

 その時は地雷を踏まないようにしようと一人笑うジークの隣で、サイカが唇を尖らせて「変な王子」と伸びをした。


 
 このときのジークが思いもよらなかったことが二点ある。
 一点は、この後の成り行きで、レックスの夢の終わりとその結果を、メレフと共に見届けることが叶うこと。
 もう一点は、メレフにとって、冗談交じりで女扱いされること以上に、男扱いされることが、真の地雷だということだ。


2017/12/23

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