少年だった頃 3 ドライバーとブレイドといえ、常に二人一組で行動していたわけではない。メレフにはメレフの勉強があったし、カグツチも帝国の所有するブレイドとして単独任務を承ることがたびたびあった。休息の日も、メレフがカグツチに甘えてきたことはない。ただそれでも、時間が許せばアフタヌーン・ティーを共に嗜んだし、避暑に赴いたグーラ領ではスペルビアにはない青々とした草原を並んで歩いた。就寝前のテラスではその日の出来事を互いに語り、朝日差す庭園で季節の草花の話をした。習いたてのダンスの練習相手を仕ったこともある。そこまでせずとも、二人同じ離宮に在って、言葉を交わさない日など、同調して二年の間、ただの一日だってなかった。 それが唐突に消え失せ名を呼ばれることすらなくなったかと思うと、メレフは一人で書庫に籠ることが増えた。何をしているか尋ねれば調べものだと素っ気なく、ではお手伝いしましょうと申し出ると一人で大丈夫だと逃げる。家庭教師や侍従に尋ねても、誰もメレフの目的を知らない。と言っても普段のメレフは食欲もあり顔色も良く、定められたスケジュールも(ネフェル誕生後も彼女に求められた日課は、少なくとも表面上は何も変わらなかった)問題なくこなしていたので、みな少々心配そうにしながらも、弟君の誕生によりより一層の努力をしているか、あるいはある種の逃避として学問に没頭していると認識しているようだった。 そのどちらでもないとカグツチが確信できているのは、彼女のブレイドであるゆえだろうか。 初めこそ、皇帝陛下に非礼を働いたことで落胆されたのかと気落ちもしたが、三日も経てば心配に変わり、十日を数える前にざわつく焦燥が全身に纏わりついて消えなくなった。今回ばかりは、どれほどメレフがそれを望まずとも、放っておいてはならないと、でなければ何か取り返しのつかない未来に繋がりかねないと、最早未来予知と呼ぶべき衝動がカグツチを襲っていた。 それでもメレフはカグツチを避けた。顔を合わせぬようにと意識しているようだった。書庫まで探しに行けば開いていた本をカグツチがタイトルを確認するよりも早く本棚へ押し込み、内容を聞けばなんでもないと首を振るばかり。誤魔化されてはやらずに更に問い掛けを重ねようやっと返った答えは「最近歴史が面白くて嵌っているんだ」と具体性の欠片もない。たまらなくなって非礼を承知で掴んだ手首は力任せに振り払われた。 それから更に五日を数え、サチベリアを活けた花瓶を手にカグツチはそっと溜息を吐いた。グーラから贈られたこの花をメレフ様に、と語る女中から、自分が届けておくと請け負ったのだ。とにかく何かどんな些細なものでも良いからメレフと言葉を交わすための口実を求める段に来ていた。 メレフの部屋のドアをノックする。メレフ様、と呼び掛ける。返るのは無言ばかりだ。失礼しますとドアを開けるが、案の定中には誰もいなかった。今日は一日、予定の入っていない日であるが、また書庫に籠っているのだろうか。 再度の溜息。サイドチェストの上に花瓶を置いた。ことりという物音がやけに大きく響いた。群青の陶器から顔を覗かせるサチベリアの白い花弁がふわりと揺れて、甘い香りがむなしく広がる。「……メレフ様………」 呟く。小さく響いた自分の声が笑えるほどに頼りない。何が帝国最強のブレイドだろう。ドライバーに寄り添う、その最低限の役目も果たせずどころか避けられる一方などと。 その沈鬱が起こさせた行動を、カグツチはのちに自己嫌悪する。 なにげなく目を向けた書き物机の上に、書庫から拝借したと思しき本が何冊も詰まれていた。背表紙を読むに、亡国ユーディキウムに関するものが大半だ。その他に、ブレイドに関する研究書が幾つか。 その山の中に埋もれて、メレフの筆跡で何か綴られた紙が崩れていた。もとは束ねて積み上げていたものが、何かの拍子に軽く雪崩たらしい。 ほとんど無意識に近寄って、その一枚を手に取った。 普段の彼女であれば、人の書き物を勝手に読むような真似はしない。自身も日記を残しているゆえ、文字に書かれた言葉には、他人には知られたくない類のものが幾らでも溢れていることを知っている。それを無許可で手に取られることが、どれほど不愉快なことなのかも。 けれどカグツチの頭からそのようなことは抜け落ちていた。何でもよかったのだ。きっかけが得られるなら何でも。メレフの内心を知るためならば。 手に取った一枚目には、子どもらしくない、けれどメレフらしい少し角ばった筆跡で、ドライバーとブレイドの同調の原理について書かれていた。書物の内容をまとめたらしき文章に、ところどころ走り書きで疑問と所見。二枚目、三枚目へと紙を繰っていく。内容は徐々に深くなる。 その三枚目の終わり頃に書かれていた一文に、文章をなぞり辿っていた指先が凍り付いた。 胸のコア・クリスタルが一瞬冷えた気がしたかと思うと、次の瞬間不快な熱を帯びた。口の中が途端に乾く。四枚目、五枚目。震える指で紙を繰る。メモの内容はユーディキウムのブレイド技術のことへ変わっていた。とうに古びて荒れ果てたテンペランティアに広がる黒い荒野にかつて存在した国。現代より遥かに高水準にあった研究と実験。時を経て僅かながらも現代に確認されるユーディキウムの時代錯誤異物オーパーツ―― 繰った紙に走る文字がそのひとつについてのみを記すようになったとき、メレフが求めるそれが何のためのものかを理解したとき、――彼女がなぜそれを求めるのか、遡った記憶の端々が答えを紡いだとき。カグツチは最早反射でメレフがいるだろう書庫へと急いでいた。何事かとすれ違う兵士が自分を呼び止める、その声に応える余裕はなかった。 無意識に唇を噛み締める。胸を走る痛みは、怒りではない。 書庫に辿り付き、メレフを探す必要はなかった。何の書物を求めているのか、もう分かっていた。 息と気配を殺して近寄った、ユーディキウム関連の本を収める一角に、果たしてメレフはいた。本を数冊と辞書を同時に広げ、険しい横顔が真剣にそれらを読みふけっていた。余程集中しているらしく、ページを繰る指と内容を確認する目線以外ぴくりとも動かない。「……メレフ様」 傍らに忍び寄り、そっと呼び掛ける。 響くことはなかった。驚くほどに硬い声が幾百の背表紙に吸い込まれた。 メレフの肩がびくりと跳ね、弾かれたようにカグツチを見上げた。見開かれた目が怯えるように揺らいだ。そこに映る自分は恐ろしいほど無表情であった。慌てる手からばさばさと音を立て本が落ちた。焦って拾い上げようとするその両の手首をカグツチは掴んだ。振り払おうと細い、けれどしっかりと筋肉の付いた腕に力が籠る。更なる力でカグツチはそれを抑えた。何日か前のように、逃げられるわけにはいかなかった。離してくれ、と、堪えるような小さな声が懇願した。それを無視して、拾い上げられず地面に開かれた本を見やった。開かれたページには古ユーディキウム語で何やら書かれていた。その中に、先程のメレフのメモに書かれた単語を幾つも見つけた。「何を…そのように熱心に、探していらっしゃるのですか?」 頬の肉を無理矢理動かし、意識して優しく、首をかたむけた。これは質問ではない。答え合わせだ。けれどメレフは答えない。顔を隠すように、ふいと傍向いた。分かりやすい拒絶の意思表示を、やはりカグツチは無視する。膝を付いたカグツチの目線よりほんの少しだけ下にある薄い唇が堪える息を繰り返していた。 それから、無言のまま、三十を数えた。 遠くの本棚から会話の気配だけが漏れ聞こえていた。 更に二十を数えた時、逃げられないと悟ったのか、メレフは漸う口を開いた。「歴史に……嵌っていると、言っただろう。ユーディ、キウムが…面白くて。それで……」 それでも、しどろもどろに紡ごうとするのはなお偽りで。 声は泣きそうなのに、頬に伝うものもなく。 それがあまりにかなしい。悲しい。――愛かなしい。「――同調権限委譲機構オーバードライブ」 小さく、カグツチは呟いた。自身が想像したより静かな声だった。メレフが息を呑んだ、その音の方が遥かに大きく静寂ばかりの書庫に広がった。反射でカグツチを見たメレフの双眸が、揺らいで、潤んで、涙は出ない。「ユーディキウムの遺物…。……ドライバーの命を保ったまま、ブレイドを他者に譲渡するためのオーパーツ。…………違いますか」 オーバードライブ。かつてブレイド実験を行い、マンイーターを生み出すに至った文明が作り出した、世界の摂理を歪める叡智の名だ。その命が続く限り強固に結ばれるはずのドライバーとブレイドの絆を強制的に書き換えるための道具。現代技術では再現不可能なそのオーパーツの名と存在は、お伽噺のようにこの時代に伝えられている。一説には一定以上の力を持ち、ドライバーと強い絆で結ばれたブレイドのコアをユーディキウムの特殊技術で取り出し加工することにより作成されていたとされているが、真実は定かではない。現代に残る事実は、かつてその遺物を使用し、ドライバーを新たにしたブレイドは確かに存在したという歴史のみだ。個々の事情は想像で補うしかできないが、全ての状況に政治的背景があったのは間違いない。 声は返らなかった。掴んだ手首が震えている。唇を噛み締めて俯いた、堪えるばかりの呼吸を聞きながら、カグツチは今日のこの日までメレフへ踏み込み切れなかった自身の臆病を心底呪った。メレフが望まないから。賢しらな言い訳に反吐が出る。せめてどんなに遅くとも、なんでもないと笑ってみせたプロペラポピーの庭園で、その強がりを許さずに手を伸ばせていたら。「メレフ様。……どうか、教えてください」 だから、そう。「メレフ様は・・・・・、もう、私などは必要ないと……そう、仰るのですか」 その通りだと嗤われる方が、きっといくらかましだった。 ゆっくりと目を見開いて、メレフを見つめる視線をカグツチは僅かも逸らさない。声に責める色はなく、ただ優しい響きを発せたことに、心の隅で安堵していた。拘束する手をそっと離した。白い手首を更に白くした手形を視界の片隅に見て、大罪を犯した錯覚がした。 十を数えた。メレフは逃げなかった。やがて意を決したように顔を上げ、大きく息を吸った。口を開いて、告げようとして、声は出ない。慄いたように、あるいは心底不思議そうにまばたきをして、メレフは再度口を開ける。息を吸って、唇が震えて、はっきりと「そうだ」と象った、だのに音だけが出なかった。失敗するたびに秀麗な面差しが少しずつ歪んでいく。吸い込む息が嗚咽に近づいていく。やり直し何度も繰り返し、同じ偽り・・を発したがって、言葉にだけはならなかった。 カグツチはただ黙っていた。急かす真似はせず、重ねる問いもなかった。 ただ、待って、そして。「……………ちがう……」 微かに、けれど確かに、ようやっと音を得た言葉が、決壊した強がりと共に、冷たい床に零れ落ちた。 彼女が紡ごうと努力した、繰り返した唇を裏切って、メレフは感情のままに首を振った。「違う、…いや、だ。カグツチ、わたしの……わたしのブレイド、わたしだけの……っ! ……だけど!」 ばらばらと涙が頬を濡らす。折れかけた眼差しが縋るようにカグツチを見つめる。責めるようにカグツチの肩に手を掛けた、それこそが縋りつく所作そのものだった。「仕方が、ないじゃないか……! もう、わたし、には……っ、おまえ、の、…おまえのドライバーで、いていい理由が、何も……何も、なくなって、しまったのだから……!」 コア・クリスタルの中心を細く鋭利な刃物で貫かれたような痛みが走る。溢れ続ける滴を拭った青い指先を、次の涙がすぐさま濡らした。「代々、皇帝陛下が、おまえのドライバーに…なって。わたしも、だから、おまえと同調できて。……だが、もう、駄目なんだ、わたしは、もう、違うから、わたしでは駄目だから、だからっ……!」「……だから私を、ネフェル殿下にと……そう、考えられたのですね?」 どうにか殺そうとして殺しきれない嗚咽の隙間に差し込まれる言葉は、最早悲鳴に近かった。カグツチの静かな確認に小さく頷く。しゃくりあげる肩は、ついに弱々しく曲がってしまった。 それが不意に慄くように跳ね上がった。遠くの書架から近づく足音を聞いたのだ。騒ぎに気付かれてしまったのかもしれない。同じようにそれを聞いたカグツチは、躊躇わずに手を伸ばし、肉の薄い背を抱き寄せた。「メレフ様、失礼を」 カグツチの腕の中で、メレフは怯える子どものように身を固くした。いや、真実、彼女は怯える子どもであったのだ。生きる意味を取り上げられて命の価値を見失って、寄り掛かる方法さえ知らずに世界に放り出されて途方に暮れて、いま強がりすら失った、たった十歳の子ども。それがいま、カグツチの胸で震えるメレフの正体だった。 床に散らばり開かれていた本を左手だけで閉じ、メレフが何を調べていたかを隠蔽したとき、書架の隙間から若い兵士が顔を覗かせた。メレフとカグツチを交互に見て、すわ何事かと駆け寄ってくる。「メレフ様!? カグツチ様、これは……」「メレフ様は、ご気分が優れないご様子。私がお部屋へとお連れします。後をお願いできますか」 顔を向けて床の本を示し、メレフを抱きかかえたまま立ち上がる。押し殺す嗚咽はカグツチの耳にようやっと聞こえるかどうかと言う程に小さい。震える肩を宥めるように、とん、とん、とその背をあやす。 青年兵士は「はっ!」と背を伸ばした。「了解いたしました。……しかし、最近のメレフ様は随分と勉強熱心でいらっしゃいますね。このような難しい書物を読まれるなどと」 何も知らないし勘付くはずもない兵士が感歎するのを、普段であれば苦笑の一つでも零したかもしれないが、「よろしく頼みます」と一言だけ告げて踵を返した。 書庫を抜け、廊下をすれ違う兵士や使用人たちが心配して声を掛けてくる。先の青年に告げたのと同じようにいなし、看病を申し出た女中を私がしますと断る。その合間で人払いを命じた。 そして辿り着いたメレフの部屋で、二人分だけの呼吸が聞こえていた。皺一つなく整えられたベッドに座らせ、涙でぐしゃぐしゃにの顔へ優しくハンカチを押し当てた。なおも顔を歪めてしゃくりあげるメレフへ、柔らかく首を傾けてみせる。「メレフ様。一つだけ、申し上げておくべきことがあります」 右手を差し出し、メレフの左手を握る。彼女はもう逃げようとしなかった。「メレフ様以外のブレイドになることは、もしも、それが可能だとしても、そしてそれが、いかなメレフ様の命だとしても、お断り致します。この二年、何度だって言ったではありませんか」 すうと息を吸う。たとえばいつもメレフがそうしているように、胸を張ってメレフを見つめる。「私は、メレフ様のブレイド。あなたに寄り添うことこそが、その務め」 この二年、それを願って、為せなかった。 だからこそ、誓うために告げるのだ。「私から、あなたを奪わないでください、メレフ様」 理由がなくなってしまったと、メレフは言った。ドライバーでいていい理由がなくなってしまったのだと。 カグツチを、帝国の宝珠を、スペルビア皇帝のブレイドと定義するなら、その言い分は一種の正論になるのかもしれない。事実過去の自分の日記、その記録を紐解く限り、カグツチのドライバーはその時代のスペルビア皇帝ばかりであった。より正確に言うならば、皇太子選任の儀にて同調を執り行っていた、あるいは複数の皇子から皇太子を選定する際、カグツチと同調できたものが選ばれてきた。元々メレフが異例の幼さでカグツチと同調したのも、帝国におけるそのような慣例を利用しての政治的判断によるものだった。「……だが…、っ、わたし、は……」 喋るごとに嗚咽をまた零しそうになりながら、弱々しく呟くメレフに、そっと首を振ってみせる。「確かに、私は帝国に受け継がれてきました。帝国の宝珠として、期待される役割もありましょう。メレフ様の仰る通り、過去には、代々の皇帝陛下にお仕えしてきたようです。……ですが、今のこの私・・・・・は、メレフ様だけのブレイドなのですよ」 自身の存在価値を次期皇帝と信じていた、自分はスペルビアのために生まれてきたとさえ若干八歳にして言い切ったメレフが、それこそがカグツチと共にいていい理由だと信じてしまったのは無理からぬ話だ。だけれど、そうやって、義務と役割で雁字搦めに生きてきた彼女は、だから、一番基本的なことを、そして一番大切で、本質的なことを分かっていない。 理由などない。もしもそんなものがあるとして、それは同調したその瞬間から、ただの一度だって、薄れたこともなければ当然失われたことなどありはしない。 ただ、メレフが生きている。その真っ直ぐな眼差しで世界を見つめて、彼女が彼女で在り続ける。 それ以上の理由が、どこに存在すると言うのだろう。 彼女を大切に思うこの感情がブレイドの本能と言われればもしかしたらそれまでかもしれない。日記を読む限り過去のドライバーをそれぞれに敬愛していたカグツチは、きっと同調したのがメレフでなくとも、ブレイドとして寄り添っただろう。けれど今のカグツチのドライバーはメレフただ一人なのだから、そんなもしもは何の意味も為さない。それにカグツチは確信している。彼女を愛おしいと声高に主張する庇護欲は、幼く融通が利かなくて、不器用な程に生真面目で、一人で立って強がりたがる、そんなメレフがドライバーであったからこそ育ち得た脈動だ。 それなのに、たったそれだけの簡単な真理も見えなくなってしまうほど、人間たちの立場やしがらみや悪意や善意や無神経や意地や理屈は、様々な感情を織り交ぜて単純なはずの世界を黒に滲ませる。 たとえば、カグツチが憤怒せずにはいられなかった言葉のように。「……先日の…皇宮での、私と兵士たちの会話。……聞こえていたのですね?」 しばらく躊躇っていたメレフは、やがて、小さく頷いた。やはり、とカグツチは唇を噛み締める。この答え合わせは、当たって欲しくはなかった。 ――結果論だが、メレフ様とカグツチ様は、同調しない方が良かった。 あの日に聞いた無神経。他人事として交わされた許しがたい言葉。 割って入ったメレフは普段通りの振る舞いで、だから聞こえてはいなかっただろうと、カグツチは安堵していたというのに。己の節穴に腹が立つ。この幼い体が、どれほどの精神力を以て、あのように泰然と立てたのか。 生きる目的を取り上げられて、進むはずの道を塞がれて、役割を失って戸惑う命が、何でもいいから役目を欲した。責務を前提に生きてきたメレフにとって、今日呼吸をすることにさえ、それを許す理由が必要だった。絶望せずに立つために、彼女が彼女であるために、メレフの心は命題を求めた。それにはシンプルで具体的で傷心を忘れる程度に困難なものが好ましかった。 その中に、聞こえてしまった無神経が音を立てて収まった―― 帝国の歴史と慣例が指し示す、自分より相応しい人物へ、本来の相手へと、己のブレイドカグツチを譲渡する。そのための手段を探し求める。 メレフが望まない未来へ、嫌だと泣くほど拒絶したい選択へ、けれど今日生きていていい許可を求めて突き進み自己矛盾に陥って、誤魔化せなかった本音が、失いたくなかった心が泣き喚きメレフ自身を追いつめた。少しずつ、少しずつ。だからカグツチを避けたのだ。カグツチとこれ以上思い出を重ねることが辛いばかりだったから。本心に嘘を吐いて手放そうと躍起になっている自分をカグツチに知られたくなかったから。それでも助けは求めなかった。他に呼吸の理由を見つけられなかったから。あの瞬間から今日この日まで、メレフはその矛盾の中でしか生きられなかった。「……申し訳ありませんでした、メレフ様。もっと早くに、私が…」「いいことなんだ」 その間の、いや、同調してよりこれまでの自身の無力を詫びようとしたカグツチを遮って、硬い声でメレフは言った。下げた頭を上げると、やっと乾いたはずだった頬に、新たに伝う一筋がある。「嬉しいんだ。ほんとうなんだ。…っ、ネフェル、殿下が、お生まれになって、ほんとうに、嬉しいのに、どうして、なにが、なにがこんなに、分からない、分からないんだ……っ!」 感情の怒涛が発する言葉は要領を得ない。ひとつの言葉を発するたびに、ひとつしゃくり声が上がり、ひとつ涙が溢れ出す。「なく…なってしまった。なにも…わたしには、何も……何も。じゃあなんだったんだ。わたしはなんだったんだ。どうしろと言うんだ。なあ、誰か、誰か教えてくれ、わたしは」 それはメレフが歳不相応の強がりで隠し続けた、彼女の一番柔らかい部分だった。清廉の化粧で覆い続けた、彼女の一番醜い部分だった。それは現実逃避の弱音で、それは正統な癇癪で、それは空っぽの告白で、それは悲しい呵責で、そしてそれは、カグツチが近づきたいと願い続けた、剥き出しの彼女そのものだった。「わ、たしは……わたしは、……なんのために、生まれてきたんだ……っ!」 そうして露わになってしまって、逃げ込むようにカグツチへ向かって手を伸ばしたメレフを、カグツチは強く抱きしめた。 カグツチの腕の中で、メレフは泣いた。とても下手な泣き方だった。わあわあと思い切り声を上げることも出来ずに、嗚咽としゃくりあげるばかりの呼吸を繰り返す。泣き方など、メレフは知らなかったのだ。 カグツチはしばらく、何も言わなかった。違う、どうして、嫌だ、分からない、何か意味を繋ぐより前にはなからほろほろと解けてしまって唇から零れるばかりの涙声をただ黙って聞いていた。息が苦しかった。ひとつ呼吸すればひとつ痛みが走った。その分だけメレフの涙が減ればいいと心底願った。 震える背中をゆっくりと上下に摩り、時折手首だけを動かして優しく叩いた。カグツチはそうやって彼女をあやしながら、メレフの呼吸が落ち着くのを待って、やがて、わざとふうと息を吐いた。この胸に顔を埋めてカグツチの表情が見えないメレフに、微笑んだことが伝わるように。「……それを、メレフ様が自由にお決めになって良いのです。あのとき陛下が仰ったのは、そういうことなのですから」 メレフの肩がぴくりと跳ねる。耳の奥に、男の言葉が蘇る。 ――これよりは皇子としてではなく、好きに生きると良い。 許され難い無礼と承知でカグツチが非難せずにいられなかったその声は、そのときカグツチが受け取ったのと同様に、惨たらしいほどに無責任に響いた。無感動にメレフを見捨てたと解釈できるその言葉の真意をカグツチは、その後呼び止められて一人残った、メレフの退出した二人きりの空間で知る。 ――怒っているようだな。 隠そうとして未だ顔に出ていたらしいカグツチを見やり、リカルドゥスは笑った。メレフが心配したような、責める色は声音になかった。むしろ目を伏せて頬を緩めるほどだった。 なぜ自分ひとりが残されたのか疑問に思うカグツチに、玉座から立ち上がったリカルドゥスは、硝子の天蓋越しにスペルビアの巨神獣の隆起した肩を眺め遣り、噛み締めるように呟いた。 ――私は、今更あの子を皇女として育てようとは思わぬ。 そのときカグツチは、反射的に、悲鳴のように声を上げた。 ――陛下、それはっ……! 非礼を承知で申し上げます。帝国にとって、メレフ様は……最早、必要ないと…申されますか。そんな…そのようなこと、あまりに……! ――そうだな。お前たちには、そう聞こえてしまうだろう。だが、私にはもう、これ以外に何も言えぬのだ。 重々しく頷き、玉座へと目線を向けたリカルドゥスに、カグツチはふっと、自分は意図の掛け金を違えていると気が付く。なぜなら、そのときカグツチの目の前にいたのは、世界地図に最大範図を描く由緒正しき帝国の頂に立つ皇帝陛下ではなく、血の繋がった姪を、引き取った[[rb:子ども > むすめ]]を案じるただの男であったから。 ――私は帝国の為、あの子の人生を定め、そして歪めた。 赤い絨毯へ重々しく落ちたその声は、懺悔以外の何物でもなかった。そんな響きが、見限る言葉を発するはずがなかったのだと、そのときカグツチはようやっと知ったのだ。 ――女として生きることを封じ、そしていま、男としての人生さえ奪った。あの子が持っていたはずの未来を、あの子が生きる筈だった人生を、私はすべて取り上げてしまった。 だからせめて、と男は言う。彼はカグツチに背を向けていて、だからその表情は分からなかった。ただ、ずしりと重いその声は、最早そうすることでしか償えぬと、苦みばかりを含ませて。 ――あの子が望む、あの子自身が願う道を、せめて、歩ませてやりたいのだ。「……メレフ様が、望む通りに。そのお心のままに。それで良いのです。多少我儘を言っても、身勝手でも。難しいことを考えず、ただ、何か、為さりたいと願うことを。……その道に、私も付いて参ります」「もしも……何も、見つか、ら、なかったら…?」 落ち着きかけていた発作が、口を開いた拍子にまた弾けようとする、それを堪える小さな声が尋ねる。返す答えなど決まっていた。「それで離れろと言われる方が、困ってしまいますね」 くすりと息を漏らす。 メレフはすんと鼻を鳴らし、やがて、戸惑う両の手をカグツチの背に回した。それでもなお躊躇いがちにきゅっと籠った子どもらしい力に、カグツチは応えるように抱き締める腕を強くする。 どれほど、そうしていただろうか。「……カグツチ」 小さく落ちた無防備な声。 なんだか久しぶりに、名前を呼んでもらった気がした。「わたしのブレイド。わたしの……。わたしの、カグツチ。……共に、いて、欲しい。…誰にも……おまえを渡したくない……」 腕の中でメレフが身じろぐ。緩めた腕の中で、メレフは恐る恐るとカグツチを見上げた。涙に濡れて、未だ荒れ狂う感情に揺れて、答えは出せないままで、それでもそこに光はあった。愛おしくて仕方のない、ただ、真っ直ぐな眼差しを、メレフは再びカグツチへと向けてくれた。「わたしでも、いいか? なにもない、ただのわたしでも、…おまえと共に、いて、いいか……?」「勿論です、メレフ様」 カグツチもまた、真っ直ぐにメレフを見詰めた。 ゆっくりと目を開けて、琥珀と瑠璃の視線が交差する。 万感を込めて告げる。 この呼吸の始まりから息付いていた願いを。 ただここにいる自分から、ただここにいる少女へ向けて。「どうか、そのお命のある限り、私をお側に置いてください――」 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 懐かしい記憶に沈んでいた意識が、ドアの開く音と生じた気配を受けて急速に浮上する。指に持って紙を走らないままのペンを木目の走る書き物机に横たわらせて、カグツチはメレフを振り返った。夜着に身を包んだメレフは濡れた長い髪から雫を滴らせて、肩に掛けたタオルでそれを拭っている。メレフがシャワーを浴びている間に書いておこうと日記を開いて、夕食前の話題を思い返し、そのまま十五年を数える昔へ沈んでから、結構な時間が経過していたようだ。「どうしたんだ? なんだか、随分楽しそうな顔をしているが」 微笑するメレフの指摘を受けて、反射的に頬に指を当てた。最早懐古と成り果てて、しかしなお鮮明に蘇る慈しむべき思い出に、知らず頬が緩んでいたらしい。 そんなカグツチを不思議そうに見ながら、メレフは化粧台ドレッサーの前に椅子を引いて腰かけた。夜の暮れ切った巨神獣アルス船の客室は、必要最小限の調度品を揃え、よく言えば無駄がなく、悪く言えば素っ気ない。あるだけましと言いたげに鎮座する武骨な一面鏡に向き合ったメレフは、鏡の前に置いていた化粧水をコットンに染み込ませ、鼻先から頬へと当てていく。 書けずじまいの日記帳を閉じて立ち上がったカグツチは、そんなメレフの後ろへ移動した。タオルを拝借し、彼女の手付きの邪魔にならぬよう、優しく黒髪の毛先の湿気を染み込ませながら、そうですね、と口を開く。「夕方に、あのような話をしていたからでしょうか。少々、昔のことを思い出しておりました」「昔?」 ジェルクリームを馴染ませたてのひらで頬を包みつつ、メレフは意外そうに瞬きをして、鏡越しにカグツチを見た。タオルをメレフの頭のてっぺんに掛け直し、摩擦しないよう気を付けてつむじの水気を拭う。慣れた手付きのただ中で、カグツチは少々確信犯的に、微笑を返した。「はい。メレフ様と同調したばかりの頃と……それから、ネフェル陛下がお生まれになった頃のことを」「…………それは…」 楽しそうだった顔が一瞬で苦みを含む。気分を害したと言うよりは、思いがけず予想しないところから恥ずかしいものを掘り返されて、扱いに困っていると言ったところだろう。「忘れてくれ。……と言うのも、無理な話か…」「そうですね。難しいでしょう」 懇願されても忘れる気はさらさらないが軽やかに返すだけ返しておく。 苦虫を味わう顔であちらこちらに目線を動かしていたメレフは、やがて肩で息を吐いた。風呂上がりというわけではなく微かに色が付いた頬から、、心底あの過去を扱いあぐねていることが窺える。実際、メレフの口を突いて出てきたのは文句だ。「勘弁してくれ。あの頃私は、まだ子どもで、単純で視野狭窄で…。思い出すだに恥ずかしいんだ」 心身ともに成熟した今のメレフにとってみれば、あのとき彼女を苦しめていた矛盾も、強がった挙句に理論破綻を起こした浅慮な子どもの戯言でしかないのだろう。けれどあの頃のメレフにとってはそれが世界のすべてで、そして、あの頃カグツチは、そんなメレフが愛しくて仕方なかったのだ。その感情はメレフが長じるにつれ少しずつ寄り添うための形を変え、けれど、根幹で脈打つ心は変わらない。 あの後。自分の呼吸を許すための役目を、今度は自分を苦しめない、湧き出る心に素直な道を、メレフは存外早く見つけ出した。少々体が弱く、なかなか会うことが叶わなかったネフェルと初めて対面した帰り道、かつてはなんでもないと意地を張るばかりだった庭園で、躊躇い言葉を探しながら、けれど今度は、メレフはカグツチにその思いを教えてくれた。色とりどりのプロペラポピーは相変わらず自由に揺れていた。 ――私はやはり、スペルビアのために生きたい。 皇帝と言う立場でなくても、それでも何か、スペルビアの国と民のために在りたいと、そんな本心をけれど防衛線を張るように堅苦しく紡ぎ、そしてふっと、自身のてのひらを見て、溢れ出るものを我慢できないと言うように相好を崩した。その手を握り締めて、彼女は。 ――そして、そうやって……従弟ネフェルを、守りたいと、思う。 誓う声は貴く、世界の何より美しかった。 許諾を得て恐る恐る伸ばした手を、まだ言葉を発さない、こちらの言葉も解さない赤子が、けれど躊躇いなく掴んだ。驚くばかりで目を見開いたメレフに、ネフェルはほんとうに嬉しそうに笑った。少し離れた位置でそれを見ていたカグツチに、助けを求めるように首を向けたメレフだったが、きゃっきゃと笑って機嫌よくはしゃぐネフェルに呆気なく負けて目尻を下げた。きっとその瞬間、彼女の願いは定まったのだ。会う前から、ネフェルの誕生がほんとうに嬉しいのだと、その誤解だけは避けるように繰り返し告げていたメレフが望む未来として、その道はあまりに自然なものだった。 真っ直ぐにカグツチを見上げて、胸を張ってそう言い切ったメレフは、その後すぐ、気恥しそうに傍向いた。空を流れる雲と足元のプロペラポピーを交互に確かめながら、時折困ったように首を傾げて、言っていいものかと迷っているようだった。見かねてどうしたのですかとカグツチは助け舟を出し、それでもなお言っていいものか迷うメレフは照れ隠しのようにこめかみを指で掻いた。 ――そして、もし……もしも、陛下にお許し頂けるなら。 意を決して発され、そして続いた言葉に、我儘の言い方を知らなかったのだと得心したものだ。 ――……髪を、伸ばしてみたいな。おまえのように。 そしていま、そのとき願った通りに美しく伸ばされた黒髪を、カグツチは丁寧な所作で乾かしていた。指を通し手櫛で流れを整え、青いてのひらから微かに発する熱で水分を飛ばしていく。くだらないことだが、己の属性が炎でよかったと、こういうときにしみじみ思う。 結局メレフはその後も、女としての人生を生きることはできなかった。それが許されなかった、と言うわけでは断じてない。むしろスペルビア皇室は、ネフェルを後継とすると正式に定めた際、メレフでは駄目な理由を、つまりは皇室がメレフに強要し、そして他国と民へ吐いた嘘を、公表したのだ。それは一時特大の醜聞スキャンダル、良い話題ゴシップとして世界アルスト中を駆け巡った。十年に渡る不誠実に当然前帝リカルドゥスは多大なる批判を受けたが、彼は甘んじてそれを受けた。皇室にとって汚点にしかならないその事実を、敢えて公開したのは、勿論メレフを担ぎ上げての政争が後に生じる余地のないようにと言う意図もあったのだろうが、それ以上に、ただメレフ一人に向けて、もう偽る必要はないのだと告げる、浅慮な程の愛情であったと、カグツチは思っている。 けれど、染みついた男性的な口調も振る舞いも、最早分離できないほどメレフの深い部分に根を張っていて、その頃には既にメレフの自然体は極めて男性的なものに固定されていた。同時に彼女の願った生き方もまた、男性的なものだった。それでも、自身を男だと言い張らずに良くなった彼女は、相変わらず男児のように勉強に訓練に明け暮れながら、髪を伸ばして大事にしたり、年頃になればカグツチに化粧を教わったりと、少女として息をするようになった。そうやって大人になったメレフは、本人の意識は女性として、けれど実際の彼女は男性と女性の狭間に立って美しく、若い兵士に羨望の視線を送られたり、政敵に中途半端と揶揄されたり、街の女性に黄色い声を上げられたりしながら、あのとき彼女が願った通りに、スペルビアとネフェルを守る特別執権官として在る。そうしてそんなメレフの傍に、カグツチもまたあのとき、いや、誕生したとき願った通りに、寄り添っていた。「私にとっては、大切な思い出ですから。あれからメレフ様は私に色々なお話をしてくださるようになりました。いまだから申しますけど、あの頃私は、結構寂しい思いをしていたのですよ」「……そうだな。あの頃私は、一人で立てないのなら、お前のドライバーには相応しくないと、本気でそう思い込んでいた」 精神的にはブレイドを必要とせず、逆にブレイドを庇護して立つ。それもドライバーの一つの在り様だ。だが、それはカグツチが望む形ではなかった。十五年前のメレフは、それに気付いてくれなかったのだ。「逆だったのにな。お前が傍にいてくれるその意味に、もっと早く気付くべきだった。あのときお前が私のために怒ってくれて、ほんとうに嬉しかったのに、それさえ見ないふりをした。……そのせいだな。恥ずかしいほどに泣いてしまった」 ふふ、とカグツチは笑声を零す。水分をあらかた取り除き、今度はコームを手に黒髪を梳かしていく。心地よさそうに目を伏せて、メレフは諦めるように息を吐いた。「分かったよ。忘れるなとは言わない。だが、誰にも言わないでくれよ」「ええ、勿論です。メレフ様がそう仰るなら」「その割には、夕方、勝手に話し始めたな?」「あら、あのくらい良いでしょう?」 話しながら繰り返しコームを通し、ほつれの無くなった癖のない黒髪がさらさらとカグツチの手に合わせて揺れる。仕上げにヒマワリローグのオイルを少量馴染ませると、なめらかに纏まった照明の光を弾いて艶めいた。出来上がりに満足し軽く頷く。使用したコームやオイルを片付けるカグツチへ、そうだ、とメレフは体を向けた。「夕方の話と言えば。聞いていなかったな、私の第一印象」 各種のケア用品をひとところに纏めていたカグツチは、意外な面持ちでメレフを振り返った。メレフはドレッサーに頬杖を付いて興味で輝く目をカグツチに向けている。「……真っ先にお立ちになられたので、あまり興味がないとばかり思っていましたが」 正直に告げるカグツチに向けて、気障と言って差し支えない仕草で肩をすくめ、メレフはくつりと喉を鳴らした。「興味はあるさ。ただ、あの場ではやはり気恥ずかしさもあったからな。それで? お前は私に初めて会ったとき、なんて思ったんだ?」 真っ直ぐな目がカグツチを射抜く。わくわくしてカグツチの言葉を待っている。その琥珀色アンバーの輝きに、変わらないのよね、と笑みを深める。この目だけは、ほんとうに、ずっとずっと変わらない。大人になって彼女の視野は広くなり、その分世界の陰までを知った。その闇に対抗するために、権力の行使を覚え、腹芸を駆使し、取引も脅迫も使いこなし。守るべきもののため、優先すべきもののため、他者の人生を摘み取る残酷な強さをも手に入れて、それでもなお、彼女はただただ誇り高く、その眼差しは少しだって歪まない。 閉じた瞼の裏に、夕方思い返した記憶をもう一度張り付ける。そう、そうだ、あの瞬間からいつだって、その目は美しかったのだ。「失礼を承知で申し上げますと、……随分と幼い少年だな、と」 男性的な振る舞いを自然体として持ちながら男扱いされることを極端に嫌うメレフにとっては不躾な感想を、けれどメレフが不快に思うはずがないと確信しながら告げる。 なぜなら、あの頃のメレフは、自他ともに認める少年だったのだ。 案の定、メレフは声を上げて笑った。少々乾いた響きなのはご愛嬌の範疇だろう。「はは。違いない」「それで、メレフ様はどうだったのです?」「え?」 唐突に尋ね返されて、意外そうに声を上げたメレフへ、カグツチは少しばかり意地悪く微笑んだ。「私ばかりというのも不公平です。よろしければメレフ様も、あのとき私をどう思われたのか、教えていただけませんか?」 そうだな、とメレフは口許に指先を当てた。軽く首を傾けて、長い髪がさらりと揺れた。目を閉じた彼女の頬が柔らかく緩む。先程のカグツチのように、懐古が温かく全身を巡っているのだろう。 カグツチは大人しく言葉を待った。やがてメレフはゆったりと目を開けて、真正面からカグツチを見据えて笑った。その目が優しく、どこか挑発的に光った。「そうだな。……美しいなと、思ったよ」 思いがけず口説かれて一瞬言葉を忘れる。意表を突かれたカグツチを見て、メレフは満足そうに肩を震わせた。カグツチの反応に気を良くして、少し調子に乗ったらしい。下からの目線で窺うようにカグツチを見上げ、柔らかく首をかたむけてもう一度笑った。「あの瞬間を、私はきっと生涯忘れない。――もしもお前も同じなら、こんなに嬉しいことはないな」 からかい交じりの声音だが、曇りのない本心だとカグツチは知っている。 そして、メレフには珍しい愚問だと息を吐き出した。「……そんなに当然のことを言われても、私はもう驚いたりしませんよ、メレフ様」 冷静さを取り戻して釘を刺すと、残念だと言いたげに目を伏せて、メレフは右手を軽く上げた。 答えは決まり切っている。 この命の始まりを、どうして忘れられようか。 沈黙するコア・クリスタルでしかなかったこの魂が、何者かの魂に触れて、急速に肉体を得る。浮上する意識。構築されていく知識。思い出を何一つ持たないまっさらな自我が組み上がる。自身が炎を操るブレイドであること。カグツチという名を持っていること。ドライバーのために生きていくこと。ただそれだけを持って、カグツチはこの世界に幾度目かの生を受けた。 真白の記憶にまず描かれたのは少年。黒い髪と、琥珀色の瞳。随分と幼い。まだ、十を数えないだろう。驚きながら、目線を合わせるために片膝を付く。この少年が、守るべき自分のドライバー。本能のように、いや、真実ブレイドの本能として、それを知っていた。「――私の名は、カグツチ。……貴方が、私のドライバー?」 答えを知って問い掛ける。唇を引き結んでいた少年が、弾かれたように頷く。緊張しているのか、肩に力が張っている。頬だけが紅潮していて、その色がやけに印象的だった。 煌びやかな部屋の内装も、自分たちの周囲を取り囲む幾つもの視線にも、安堵交じりのどよめきも、カグツチの興味を引かなかった。少年が自分に掛けてくれる言葉、少年の名前。それだけを楽しみに言葉を待った。「そうだ」 子どもの高い声が、高揚を必死に押し殺して、さざめく声のただ中に、けれど静かに響いた。 カグツチにとっては何よりも大きく、それは届いた。「わたしはメレフ。旧ヘンドリクス公爵家の一人息子であり、スペルビア帝国第一皇子だ。カグツチ。帝国の宝珠たるあなたと同調できたこと、光栄に思う」 ともすれば震えそうになる声がそこまでを言い切り、そして、 強張っていた頬が、不意に緩んで笑みとなる。「――会えて嬉しい、カグツチ」 小さな手が、恐る恐ると伸ばされる。堪えきれずに零れ落ちる喜悦がひたすらにカグツチへ向けられる。琥珀色の視線が、揺らぐことなくカグツチを見据える。 このときカグツチはまだ何も知らなかった。自身がスペルビア帝国の宝珠と呼ばれるブレイドであることも、その自分と同調したドライバーがスペルビア皇族であることも。この世界の情勢も、期待される役割も、――眼前の少年が、ほんとうは愛らしい少女であるということも。彼女に課せられた人生も、この先彼女が歩む人生も、何も何も知らなかった。 けれどカグツチは、ただ一つ、まっさらな心に生じた思いを以て、伸ばされたその手を躊躇いなく取る。 温かく柔らかな手だった。 背筋が美しく伸ばされていた。 ひたすらに真っ直ぐな眼差しだった。「ええ、私もです。――身命を賭して、貴方をお守りいたしましょう、メレフ様」 この目を守るために得たこの生を、光栄に思う。 メレフという名の炎が燃え尽きる、最後のその一呼吸まで。 カグツチは決して、この瞬間を忘れない。 2108/01/12 [2回]PR